第12話「魔女の隠し財産没収戦」
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塔の生活は、完璧だった。
朝は小鳥のさえずりで目覚め、洗顔から着替えまでフルコースの介護を受け、三食栄養満点の食事が出てくる。 掃除も洗濯も、指一本動かす必要はない。まさに、王侯貴族も裸足で逃げ出すほどの優雅な生活。
だが。
人間とは、あるいは魔女とは、贅沢な生き物だ。
満たされれば満たされるほど、欠落した「毒」を求めてしまうのだから。
「……食べたい」
深夜二時。 月明かりが差し込む研究室で、私は亡霊のように呟いた。 目の前には、難解な魔法式が書かれた羊皮紙が広がっている。
だが、頭に入ってこない。 脳内を占拠しているのは、数式ではなく、もっと俗物的な欲望だった。
「バターたっぷりのクッキー……砂糖まみれのドーナツ……塩分過多のポテトチップス……」
うわごとのように唱える。
アルフォンスの料理は最高だ。それは認める。
でも、健康的すぎるのだ。
野菜の甘み? 素材の旨味?
違う。私が今求めているのは、そんな上品なものじゃない。もっとこう、脳髄を直接殴りつけてくるような、安っぽくて暴力的なカロリーの塊なのだ!
「……限界よ」
私は羽ペンを置いた。 禁断症状だ。
指先が震え、思考がまとまらない。
このままでは、魔法の研究に支障が出る……
という建前。
私は椅子から音もなく立ち上がった。
裸足の足裏が、磨き上げられた床を踏む。
アルフォンスは今、階下の自室で就寝中のはずだ。彼も人間だ多分。二四時間起きているわけがない。
「ふふふ……この時のために、隠しておいたのよ」
私は忍び足で、部屋の隅にある巨大な本棚へと向かった。この本棚の一角、天井に近い最上段の奥。 そこだけは、私が「超危険な呪いの書が封印されているから、絶対に触らないで! 触ると塔が爆発するわよ!」と脅して、アルフォンスの清掃を免れていた聖域だった。
私は浮遊魔法を使い、音もなく宙に浮いた。
最上段の、分厚い黒革の魔導書を手に取る。
表紙には『暗黒召喚儀式全書』と禍々しいタイトルが書かれているが、中身はくり抜かれている。
パカッ。
表紙を開くと、そこには黄金に輝く宝物が鎮座していた。 市販のバタークッキー。 チョコチップ入りマフィン。 そして、激辛スパイス味の乾燥肉。
「……会いたかったわ、マイ・スイート・ジャンク……」
私は感涙にむせびながら、バタークッキーの袋を手に取った。 袋を開ける音すら立てないよう、
消音魔法を展開する周到さ。
これぞ、天才魔女の無駄遣いだ。
ペリッ。
袋が開いた瞬間、濃厚なバターと人工甘味料の香りが漂った。 ああ、これだ。
この身体に悪い匂いこそが、今の私には最高のアロマテラピーだ。
「いただきまーす……」
私はクッキーを一枚取り出し、大きく口を開けた。 サクサクの食感と、背徳的な甘さが口いっぱいに広がる瞬間を夢見て。
その時だった。
「――ほう」
背後から、絶対零度の声が響いた。
「ッ!?」
心臓が止まるかと思った。
クッキーを取り落としそうになり、慌てて空中でキャッチする。 恐る恐る振り返ると、浮遊する私の目線の高さに、銀色の影があった。
アルフォンスだ。
彼は当然のように空中浮遊魔法を展開し、腕組みをして空中に立っていた。完璧に整えられたパジャマ姿で、眼鏡が月光を反射して白く光っている。
「……な、なんで……」
「夜中にネズミが徘徊する音がしましたので」
「消音魔法かけてたわよ!?」
「ええ。音は消えていました。……ですが」
アルフォンスは鼻をクン、と鳴らした。
「匂いです」
「え?」
「貴女がその『毒物』の封印を解いた瞬間、強烈な油脂と香料の悪臭が漂ってきました。……私の蜜蝋とレモンの結界を突き破るほどの、不快な悪臭がね」
彼は忌々しげに手で鼻を仰いだ。
悪臭? この芳しいバターの香りを?
「こ、これは毒物じゃないわ! 私の夜食よ!」
「訂正してください。それは『産業廃棄物』です」
アルフォンスの手が伸びた。
私は反射的にクッキーを背中に隠して後退する。
「やだ! 渡さない! これは私の隠し財産なの!」
「往生際が悪いですね。……夜中の二時に、そのような高カロリーかつ栄養価の偏った固形物を摂取するなど、管理規定違反も甚だしい」
彼は空中で一歩、私に近づいた。 逃げ場はない。ここは天井近くだ。
「返してください、エルカ様。……それとも、力ずくで没収されたいのですか?」
「嫌よ! あんたのご飯は美味しいけど、たまにはこういうジャンクなのが食べたくなるの! 魔女には必要な栄養素なの!」
「嘘をおっしゃい。……糖分と脂質の過剰摂取は、肌荒れの原因になります。せっかく私が磨き上げた肌を、自ら汚すおつもりですか?」
彼の目が据わった。 肌荒れ。
彼にとって、私の肌が荒れることは、自分の作品に傷がつくことと同義なのだ。
「一個だけ! 一個だけでいいから!」
「ダメです。一個食べれば、貴女の自制心は決壊する。箱ごと、すべて没収します」
アルフォンスが指をパチンと鳴らした。
瞬間、私の手の中にあったクッキーの袋と、本棚の奥に隠していたマフィンたちが、青い光に包まれて宙に浮いた。
「ああっ!? 待って、私の宝物!」
お菓子たちは私の手を離れ、アルフォンスの手元へと吸い寄せられていく。
物理法則を無視した強制徴収。
「ふむ……。保存料、着色料、酸化防止剤……。よくもまあ、こんな化学実験の失敗作のようなものを体内に……」
彼は成分表示を読み上げながら、心底軽蔑したような目でクッキーを見下ろした。
そして、無情にも告げた。
「廃棄処分とします」
「やめてぇぇぇ!」
私の絶叫も虚しく、彼の手のひらから黒い炎が立ち昇った。 焼却魔法だ。 一瞬で、私の愛しきジャンクフードたちは灰となり、塵となって消滅した。
後に残ったのは、焦げた匂いと、私の絶望だけ。
「……ひどい……悪魔……鬼執事……」
私は空中で膝を抱え、涙目になった。
楽しみにしていたのに。
研究の合間の、ささやかな楽しみだったのに。
「……泣かないでください。自業自得です」
アルフォンスは灰を魔法で浄化しながら、私の前に浮かんで近づいてきた。
そして、空になった本棚の「隠し場所」を覗き込んだ。
「……おや?」
彼の動きが止まった。
お菓子が消えた後の空間に、何かが残っていたのだ。それは、一枚の羊皮紙。
そこには、複雑怪奇な幾何学模様――『短距離転移魔法陣』の書きかけが記されていた。
空気が、凍りついた。
「……エルカ様」
アルフォンスの声から、感情の色が完全に消えた。 彼はゆっくりと羊皮紙を手に取り、私の方を向いた。 眼鏡の奥のアイスブルーが、絶対零度の冷気を放っている。
「これは、何ですか?」
「っ……」
心臓が早鐘を打つ。
それは、お菓子を隠すついでに研究していた、
塔からの脱出……もとい、ちょっとした外出用の転移魔法陣だった。
アルフォンスの監視が厳しすぎるため、いざという時にこっそり街へ買い食いに行けるようにと画策していたのだ。
「て、転移魔法の研究よ。……学術的な興味で……」
「ほう。座標の設定先が、王都の繁華街裏路地になっていますが?」
「……偶然よ」
「偶然で、これほど精緻な座標指定ができるとは。やはり貴女は天才ですね」
彼は羊皮紙を指先で弾いた。
パラパラと、紙が粉になって崩れ落ちる。
「……ッ!」
「私の目を盗んで、脱走の準備ですか。それとも、また不潔な買い食いをするつもりでしたか?」
彼は空中で私の手首を掴み、グイッと引き寄せた。 距離がゼロになる。彼の吐息がかかる距離。
「……悲しいですね。私がこれほど貴女の健康と生活を案じているというのに、貴女はまだ、あの薄汚れた下界の空気を吸いたいと?」
「ち、違う……たまには、外の空気を……」
「ここの空気は、私が最高純度に調整しています。外気など、排気ガスと他人の呼気が混ざった毒ガスも同然だ」
彼の論理は破綻しているようで、完璧に完結していた。彼の中では、この塔こそが楽園であり、外の世界は地獄なのだ。
「もう二度と、このような真似は許しませんよ」
彼は私の手首を強く握りしめた。
手袋越しではない。
寝間着姿の彼は、今は素手だ。
熱い掌が、私の脈動を直接感じ取っている。
「……罰が必要です」
「ば、罰……?」
「ええ。貴女のその、ジャンクフードに毒された貧しい味覚と、脱走を企てる浅はかな思考を、矯正しなければなりません」
アルフォンスは私を抱きかかえ、ゆっくりと床に降り立った。そして、私をソファに座らせると、
自分もその隣に腰掛けた。
「エルカ様。貴女がお菓子を欲したのは、空腹だからですか? それともストレスですか?」
「……どっちもよ。甘いものが食べたかったの」
「そうですか。……ならば、代わりの物を用意しましょう」
彼は虚空から、小さな小瓶を取り出した。
中に入っているのは、淡いピンク色のマカロンが一つ。
「……マカロン?」
「ええ。私が夜なべして試作していた、特製マカロンです」
彼は小瓶の蓋を開けた。
ふわりと、甘酸っぱいラズベリーと、上品なローズの香りが漂った。さっきのクッキーのような人工的な香りではない。もっと繊細で、深みのある、高級な香り。
「生地にはアーモンドプードルを贅沢に使い、砂糖は通常の半分に抑え、代わりに果実の天然の甘みを濃縮しました。……中のクリームには、貴女の魔力回復を助ける薬草エキスをブレンドしています」
説明を聞くだけで、唾液が溢れてくる。
さっきまでジャンクフードを欲していた脳が、瞬時にその香りに魅了され、書き換えられていくのが分かる。
「……た、食べたい」
「おや、ジャンクなクッキーの方が良かったのでは?」
「……こっちがいい」
私は正直に頷いた。
目の前のマカロンが、宝石のように輝いて見える。
「よろしい。ですが、これは『良い子』へのご褒美です」
アルフォンスはマカロンを指で摘み、私の口元に近づけた。パクつこうとすると、ヒョイと躱される。
「条件があります」
「……なに?」
「今後一切、市販の菓子類の持ち込みを禁止します。そして、二度と私に隠れて転移魔法を使わないと誓ってください」
彼はマカロンを自分の唇に押し当て、蠱惑的に微笑んだ。
「誓えるなら……この口で、食べさせて差し上げます」
「……っ」
なんて卑怯な。
食欲と、羞恥心と、そして彼への服従心を同時に天秤にかけてくるなんて。 でも、そのマカロンから漂う香りは、抗いがたい魔力を持っていた。
そして何より、彼の手から食べさせてもらうという行為そのものに、私は奇妙な期待を感じてしまっている。
「……誓う」
「聞こえません」
「誓うわよ! もう二度と隠し事はしません!」
「よくできました」
アルフォンスは満足げに目を細め、マカロンを私の唇に押し当てた。
「さあ、あーん」
「……あーん」
サクッ。 軽い音と共に、マカロンが砕ける。
次の瞬間、口の中に天国が広がった。
サクサクの生地、しっとりとしたクリーム。
ラズベリーの酸味とローズの香りが鼻に抜け、濃厚な甘みが脳髄を痺れさせる。
「……んんッ……!」
美味しい。
さっき想像していたクッキーなんて目じゃない。
これこそが、本物の「甘味」だ。
身体中の細胞が、幸福感で満たされていく。
「……どうですか?」
「……おい、しい……」
「でしょうね。貴女の好みの味を、私が計算し尽くして作ったのですから」
アルフォンスは、私の唇についたクリームを、
自分の親指で拭った。
そして、その指を自分の口に含み、ペロリと舐めた。
「……やはり、貴女には私が作る『完璧な味』しか似合いません」
彼は熱っぽい瞳で私を見つめ、囁いた。
「これからは、お菓子が食べたくなったら私に言いなさい。どんな時間でも、貴女が望む最高のスイーツを、私の手で作って差し上げますから」
「……本当に?」
「ええ。その代わり……貴女の舌も、胃袋も、すべて私の味だけで満たしていただきます」
それは、究極の独占宣言だった。
私の味覚を、彼専用のものにするということ。
市販の味では満足できない身体にするということ。
「……うん。分かった」
私は朦朧とした頭で頷いた。
もう、抵抗する気力なんて残っていなかった。
こんなに美味しいものを与えられて、こんなに甘く囁かれたら、断れるわけがない。
「いい子ですね、エルカ様」
アルフォンスは私を抱き寄せ、髪を撫でた。
その手つきは、ペットを愛でる飼い主のようであり、同時に、自分の所有物を確かめるコレクターのようでもあった。
私の隠し財産は没収され、脱走計画も潰えた。
けれど、口の中に残るマカロンの甘さと、彼に抱きしめられる温かさがあれば、もう外の世界なんてどうでもいいような気がしていた。
こうして私はまた一つ、彼という檻の中で、甘美な鎖に繋がれてしまったのだった。
読んでくださってありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
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