第13話「インク汚れと指先の検品」
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深夜の研究室。
塔の外では風が唸りを上げているが、防音と結界で守られた室内は、羽ペンが羊皮紙を走るカリカリという音だけが支配していた。
「……できた。ついに繋がったわ」
私は震える手で、最後のルーン文字を書き込んだ。 数ヶ月前から取り組んでいた『空間転移における魔力ロスの最小化理論』。その解が、今まさに目の前で完成したのだ。
「完璧よ……! これで学会の定説をひっくり返せる!」
興奮のあまり、私は羽ペンをインク壺に戻す勢いを誤った。 バシャッ。
黒いインクが跳ね、私の指先と頬、そして真っ白な袖口を直撃した。
「あ」
やってしまった。よりによって、今日アルフォンスが下ろしたばかりの新品のルームウェアだ。
それに、このインクは魔力定着性が高く、一度つくと洗っても落ちない「悪魔の墨」だ。
「……ま、まぁいいわ。どうせ誰も見てないし」
私はズボラな習性で、インクのついた指を服の裾で拭ってしまった。黒い染みが、白い布地にジワリと広がる。まあ、明日アルフォンスに怒られるだろうけど、大発見をしたのだから許してくれるはずだ。
「――ほう?」
背後から、氷点下の吐息が降ってきた。
「ッ!?」
心臓が跳ね上がった。
恐る恐る振り返ると、そこには夜食のサンドイッチとお茶を乗せたトレイを持ったアルフォンスが立っていた。
完璧な立ち姿。しかし、眼鏡の奥のアイスブルーの瞳は、私の手元と袖口の惨状を捉え、完全に据わっていた。
「……素晴らしいですね、エルカ様」
彼はトレイをサイドテーブルに置くと、ゆっくりと拍手をした。 パチ、パチ、パチ。
乾いた音が、処刑台へのカウントダウンのように響く。
「私が苦労して漂白し、糊付けし、アイロンをかけた最高級リネンのルームウェアを、たった半日で雑巾に変えるその才能。……破壊神の生まれ変わりでしょうか?」
「ち、違うの! 研究に熱中してて、つい……!」
「つい? 『つい』で服で手を拭うなど、文明人のすることではありません」
アルフォンスは私の手首を掴み、強引にランプの下へと引き寄せた。
「……見てください、この有り様を」
私の右手。 人差し指と中指、そして手のひらの側面が、インクでべっとりと黒く染まっている。
爪の間にもインクが入り込み、まるで毒に侵されたようだ。
「汚らわしい。……魔女にとって指先は杖であり、命でしょう。その商売道具をこれほど粗末に扱うとは」
彼は懐から白いハンカチを取り出し、私の指をゴシゴシと拭った。だが、悪魔の墨は落ちない。
むしろハンカチに汚れが移るだけだ。
「……落ちないわよ、それ。強力な魔法インクだもの」
「存じています。……だからこそ、腹立たしい」
アルフォンスはハンカチを捨て、険しい顔で私の指を見つめた。 怒っている。
自分の管理不行き届きに対して。
そして何より、私の綺麗な指が「黒く汚されている」という事実に対して、生理的な嫌悪と――
奇妙な興奮を覚えている。
(……ああ、黒い)
彼の心の声が漏れてくるようだ。
(白い肌に、どす黒いインク。まるで堕ちた聖女のようだ。この汚れを、私の手で白に戻したい。徹底的に、跡形もなく)
「……来なさい」
アルフォンスは私の手首を引いた。
向かった先は、部屋の隅にある優雅なカウチソファだ。
「す、座るの?」
「ええ。長丁場になりますから」
彼は私をソファに座らせると、自分はその足元のラグの上に膝をついた。
そして、どこからともなく木箱を取り出した。
中には、数種類の小瓶と、柔らかそうな布、
そして銀色の小さな器具が入っている。
まるで外科医の手術道具だ。
「手袋を外します」
彼は宣言し、自らの白い手袋を口でくわえて引き抜いた。 シュッ。 露わになった素手。
血管が浮き出た大きな手が、私の汚れた右手を下から支えるように包み込む。
「……熱っ」
思わず声が出た。
相変わらず、彼の素手は異常なほど熱い。
冷たいインクに冷やされた私の指先に、彼の体温が侵食してくる。
「消毒と洗浄を開始します。……痛くても、動かないでくださいね」
彼は小瓶の一つを開けた。
ツンとしたアルコールの匂いと、爽やかなミントの香りが混ざり合う。その液体を布に染み込ませ、私の人差し指を包み込んだ。
「んッ……!」
強い力で擦られる。
指の腹、側面、そして第一関節の皺の中まで。
布越しに伝わる彼の指の圧力が、骨に響くほど強い。
「あ、アルフォンス……痛い、痛いってば……!」
「我慢なさい。貴女が染み込ませた汚れです。責任を取りなさい」
彼は容赦なかった。
ただ汚れを落とすだけではない。
「ここが汚れています」「ここもです」と確認するように、指の付け根や水かきの部分を、執拗に親指で押し揉む。
「……ん、ぁ……」
痛みが、次第に熱い痺れに変わっていく。
指先は神経が集中している場所だ。
そこを、こんなに強い力で、男の熱い手で弄ばれている。 ゾクゾクとした感覚が腕を伝って、背骨に抜けていく。
「……しつこい汚れだ」
アルフォンスが低く唸った。
表面のインクは落ちたが、爪の隙間や指紋の溝に入り込んだ微細な黒が残っているらしい。
私にはもう見えないレベルだが、潔癖症の彼には許せないのだろう。
「器具を使います」
彼は銀色の細い棒――耳かきのような、あるいはメスのような道具を取り出した。
先端に布を巻き付け、洗浄液を浸す。
「指を開いて」
「……はい」
私は観念して、指を大きく開いた。
彼は私の手を自分の膝の上に乗せ、顔を近づけた。 眼鏡の奥の瞳が、私の指先一点に集中している。
カリッ、カリッ。
爪の裏側を、銀の棒がなぞる。
くすぐったい。怖い。
少しでも手元が狂えば刺さりそうなのに、彼の技術は神業のように正確だった。
「……綺麗だ」
汚れを掻き出しながら、彼が呟いた。
「インクの下から現れる、桜色の爪。……このコントラストがたまらない」
彼は作業の手を止めず、私の指先を愛でるように見つめた。
「エルカ様。貴女の指は、本当に無防備ですね。こんなに華奢で、柔らかくて。私が本気で握れば、簡単に折れてしまいそうだ」
「……折らないでよ」
「折りませんよ。……ですが、二度とこんな汚れがつかないように、閉じ込めてしまいたいとは思います」
彼は中指、薬指と順番に処理を進めていく。
一本終わるごとに、彼はその指にキスをした。
チュッ。 指先へのキスは、敬愛の証。
だが、彼の場合は「確認印」だ。
『ここは掃除済み』『ここは私の領域』という、
所有権の主張。
「……んッ、そこ……!」
小指の爪の間を掃除された時、ビクリと身体が跳ねた。 敏感な神経に触れたのだ。
「おや、ここは感じやすいようですね」
アルフォンスは意地悪く笑い、わざとその部分を指の腹でグリグリと押した。
「ひゃ……っ、やめ、て……!」
「ダメです。ここにもインクが入り込んでいます。……貴女がだらしないから、こんな奥まで汚れるのです」
彼は楽しんでいた。
掃除という大義名分を盾に、私の反応を見て愉悦に浸っている。悔しい。でも、指先から伝わる熱と快感に、頭がぼんやりとして抵抗できない。
「……ふぅ。ようやく、許容範囲内になりました」
数十分後。
私の指は、赤くなるほど磨き上げられ、
インクの跡形もなくなりツヤツヤと輝いていた。
アルフォンスは満足げに道具を置いた。
「ですが、これで終わりではありません。洗浄で油分が奪われています」
彼は別の小瓶を取り出した。
中に入っているのは、白く濁ったクリーム。
「保湿と……『保護』が必要です」
彼はたっぷりとクリームを指に取り、私の手に塗り込み始めた。 ヌルリ。滑らかな感触。
甘い、どこかスパイシーな香りが広がる。
「……いい匂い」
「でしょう? 特別な調合ですから」
彼は私の手と指を絡ませ、恋人繋ぎの状態でクリームを馴染ませていく。
指の股、手の甲、手首の内側。
ねっとりと、絡みつくようなマッサージ。
「このクリームには、肌を整える成分の他に……特殊な魔力触媒が混ぜてあります」
「触媒?」
ぼんやりする頭で聞き返す。
「ええ。微弱な魔力波を発信するものです」
「……え?」
「つまり、GPSです」
アルフォンスはサラリと言った。 時が止まった。
「じ、じーぴーえす……?」
「どこにいても、貴女の居場所が私に分かるように。……万が一、貴女がまたこっそり脱走したり、迷子になったりしても、私が即座に回収できるように」
彼は笑顔で、とんでもないことを言った。
追跡魔法。
それも、クリームとして皮膚に浸透させ、簡単には洗い流せないタイプの。
「ちょ、ちょっと待って! それってプライバシーの侵害じゃ……!」
「貴女にプライバシーなどありません。あるのは『管理下』か『行方不明』の二択だけです」
彼は私の抗議を無視し、さらに念入りにクリームを塗り込んだ。指の関節一つ一つに、呪いをかけるように。
「これで、貴女の手は常に私と繋がっています。……たとえ世界の果てに逃げても、この指先が熱くなって、私の元へ導いてくれるでしょう」
「……怖いわよ!」
「愛です」
彼は塗り終わった私の手を持ち上げ、光にかざした。 オイルで艶めく指先。
そこからは、彼と同じ匂いが漂っていた。
「……美しい」
アルフォンスは私の手のひらに頬を寄せ、スリスリと猫のように擦り付けた。
「この手で魔法を紡ぎ、この手で食事をし、この手で私に触れる。貴女の指先が触れる世界すべてを、私が把握していたい」
彼の瞳は、暗く濁っていた。 独占欲。支配欲。
そして、どうしようもないほどの愛着。
その重さに、私は息苦しさと――奇妙な安堵を覚えた。
(……逃げられない)
物理的にも、魔法的にも。
この男は、蜘蛛の巣のように私を雁字搦めにしている。 でも、その巣は温かく、心地よく、私を外敵から守ってくれる。
「……もう、好きにして」
私は力を抜いて、彼に身を預けた。
アルフォンスは満足げに微笑み、最後に私の薬指の付け根――指輪をはめる場所に、強く、長くキスをした。
「ええ、好きにしますとも。貴女は私の、最高傑作なのですから」
指先に残る熱と、消えない香り。
それは、目に見えない鎖となって、私を彼に繋ぎ止めていた。インクの汚れは落ちたけれど、彼という名の「もっと落ちにくい汚れ」が、私の魂に刻み込まれた夜だった。
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