第14話「最高級茶葉の魔法」
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「……喉が渇いた」
午後の柔らかな日差しが降り注ぐ研究室で、私は独りごちた。 普段なら、この呟きが空気に溶ける前に、湯気の立つカップが目の前に差し出されるはずだ。 だが今日は違う。
「そういえば、アルフォンスは地下倉庫の整理に行ってるんだった」
塔の地下には、先代から受け継いだ膨大な魔道具と、私が溜め込んだゴミが眠っている。
「季節の変わり目ですので、一度徹底的に棚卸しをして、不要な危険物は処分します」
そう言って、彼は朝から地下へ潜っているのだ。
戻ってくるまで、あと一時間はかかるだろう。
「……自分で淹れるか」
私は羽ペンを置き、立ち上がった。
たかがお茶だ。 私は王国でも五指に入ると言われる天才魔女、エルカ・シュヴァルツである。
古代魔法の解読や、空間転移術式の構築ができる私に、お湯を沸かして葉っぱを入れるだけの作業ができないはずがない。
「見てなさいよ。……アルフォンスがいなくたって、優雅なティータイムくらい演出してみせるわ」
私は意気揚々とキッチンへ向かった。
かつては洗い物が山のように積まれ、腐海と化していた流し台は、今や鏡のようにピカピカに磨き上げられている。
「えっと、茶葉は……」
棚を開けると、そこには数十種類の茶葉の缶が、まるで薬局のように整然と並べられていた。
『アッサム(ミルク用)』『ダージリン(春摘み)』『アールグレイ(特級)』……。
ラベルには、アルフォンスの几帳面な文字で、
抽出時間とお湯の温度まで記されている。
「細かいわねぇ……。ま、一番高いやつにしておけば間違いないでしょ」
私は一番奥にあった、黄金の缶を手に取った。 『ロイヤル・ヴィンテージ』。
蓋を開けると、高貴な花の香りがふわりと漂う。
「よし。まずはお湯ね」
私はポットに水を入れ、コンロの上に置いた。
だが、マッチが見当たらない。
アルフォンスが危険物としてどこかに隠したのだろうか。
「面倒くさいわね。魔法でやれば一瞬よ」
私は指先をポットに向けた。
火を起こすのではない。
分子運動を直接加速させればいいのだ。
「『熱よ、踊れ(ヒート・アクセラレーション)』!」
ボッ!! 一瞬でポットが赤熱し、中の水が爆発的な勢いで沸騰した。
シュウウウウウ! という凄まじい音と共に、蒸気が天井まで噴き上がる。
「あちちちっ!? ち、ちょっとやりすぎた?」
まあいい。沸騰したことには変わりない。
私は赤くなったポットを念動力で浮かせ、
ティーポットに勢いよくお湯を注いだ。
そして、そこに高級茶葉をドサッと思い切りよく投入した。 分量? 魔女は感覚で生きる生き物よ。多ければ多いほど濃厚で美味しいに決まっている。
「抽出時間は……面倒だから魔法で短縮!」
『時よ、進め(タイム・アクセル)』。
ポットの中の時間だけを加速させる。
これで三分待つ必要もない。完璧だ。
これぞ魔法科学が生み出した時短テクニック。
「できた!」
私は自信満々で、お気に入りのティーカップに液体を注いだ。
トクトク……という軽やかな音と共に、カップ満たされていく液体。
「……あれ?」
色が、黒い。
琥珀色というより、底なし沼のような漆黒だ。
そして、立ち昇る湯気からは、優雅な花の香りではなく、枯れ草を煮詰めて焦がしたような、
鼻を突く匂いがしている。
「……ま、まぁ、見た目はともかく味よ、味」
私はカップを口に運んだ。 そして、一口飲んだ。
「――ぶっ!!!!」
吹き出した。 なにこれ。 苦い。渋い。えぐい。
舌が痺れるほどの渋みと、喉に張り付くような焦げ臭さ。 お茶じゃない。これは、茶葉の死体煮込み汁だ。
「げほっ、ごほっ……! ま、まずい……毒薬の方がまだマシよ……」
私は涙目でカップをテーブルに置いた。
口の中が最悪だ。アルフォンスが淹れてくれるお茶は、あんなに透き通っていて、甘くて、心が解けるような味がするのに。 同じ茶葉、同じ水を使っているはずなのに、どうしてこうも違うのか。
「……私、お茶ひとつ淹れられないの?」
愕然とした。
高位魔法を操り、ゴーレムを作り、転移魔法陣を描けるこの私が。たった一杯の紅茶に敗北したのだ。
「……片付けなきゃ」
惨めな気持ちで、流し台に向かう。
だが、運命は残酷だった。
焦げ付いたケトルを洗おうとして、手が滑った。
ガシャーン!!
「あっ……」
お気に入りのティーカップが、床に落ちて粉々になった。 飛び散った失敗作の紅茶が、アルフォンスが命懸けで磨いた白い床に、どす黒いシミを作っていく。
「…………」
終わった。 私はその場にへたり込んだ。
何もできない。 本当に、何もできない。
彼が来る前はどうやって生きていたんだっけ?
思い出せない。
ゴミの中で、カビたパンをかじって、泥水を啜っていたような気もするけれど、今の私にはそんな生活、一日たりとも耐えられない。
「……アルフォンス……」
名前を呼んでしまう。 助けてほしい。
この汚れた床を、不味いお茶を、そして惨めな私を、どうにかしてほしい。
ガチャリ。
その時、玄関の扉が開く音がした。
続いて、規則正しい革靴の足音が近づいてくる。
「……ただいま戻りました、エルカ様。地下の在庫確認と害虫駆除は完了し……」
リビングに入ってきたアルフォンスの足が、
ピタリと止まった。 彼は一瞬で状況を把握した。
散乱した陶器の破片。 床に広がる黒いシミ。
焦げた匂いのするキッチン。
そして、その中心で膝を抱えてうずくまる、私。
「…………」
沈黙が痛い。 怒られる。絶対に怒られる。
「また汚しましたね」と罵倒され、冷たい目で見下されるんだ。
私は覚悟を決めて、ギュッと目を閉じた。
「……怪我は?」
降ってきたのは、予想外に静かな声だった。
目を開けると、アルフォンスが私の目の前に跪いていた。 彼は私の手を取り、指先を検分する。
「指先に火傷の痕跡なし。切り傷なし。……よかった」
彼は心底安堵したように息を吐いた。
怒ってないの? 床がこんなに汚れているのに?
「ご、ごめんなさい……お茶を飲もうと思って……失敗しちゃって……」
「見れば分かります。貴女がキッチンに立つと、ロクなことにならない」
彼は立ち上がり、パチンと指を鳴らした。
一瞬で床のシミが消え、割れたカップの破片が集まり、元通りの形に修復されていく。
魔法のような手際――いや、これぞ本当の「生活魔法」だ。
「座っていてください。口の中が気持ち悪いのでしょう?」
「……うん」
私は大人しくソファに座った。
アルフォンスはキッチンに立ち、流れるような動作で準備を始めた。 魔法など使わない。
お湯を沸かし、ポットを温め、茶葉を計量する。 その一つ一つの動作が、舞踏のように洗練されていて、見ているだけで心が落ち着いてくる。
シュッ。 マッチを擦る音。
コポコポとお湯が注がれる音。
砂時計が落ちるサラサラという音。
「……いい匂い」
三分後。
漂ってきたのは、私が求めていた「あの香り」だった。華やかで、優しくて、甘い香り。
焦げ臭さなんて微塵もない。
「お待たせしました」
アルフォンスが、湯気の立つ新しいカップを差し出した。水色は、完璧な琥珀色。 宝石を溶かしたような輝き。
「……飲んでいい?」
「どうぞ。貴女のために淹れたのですから」
私はカップを両手で包み、口をつけた。
「…………んぅ……!」
美味しい。 涙が出るほど美味しい。
渋みは一切なく、茶葉本来の甘みが舌の上で転がる。 荒れていた胃壁が修復され、ささくれ立っていた神経が一本ずつ撫でつけられていくような感覚。
「……おいしい……すごく、おいしい……」
「当然です。温度、蒸らし時間、茶葉の量。全て計算し尽くしてありますから」
アルフォンスは満足げに微笑んだ。
そして、私の隣に座り、自分のハンカチで私の口元を拭った。
「エルカ様。……分かりましたか?」
「え?」
「貴女には、家事の才能が絶望的に欠如しているということです」
彼は残酷な事実を、愛の言葉のように告げた。
「お湯を沸かせば爆発させ、茶葉を入れれば毒薬を作る。……貴女の手は、高尚な魔法陣を描くためには作られていますが、生活を営むためには作られていない」
「……うぅ、言い返せない……」
「だから、諦めてください」
アルフォンスの手が、私の頬を包み込んだ。
熱い。素手の温度が、私を溶かしにかかっている。
「お茶を飲むのも、食事をするのも、服を着るのも。生きるための全ての行為を、私に依存してください」
彼の瞳が、妖しく光った。
「貴女が一人でお茶も淹れられない身体になったこと。それが、私にとってどれほどの愉悦か、分かりますか?」
ゾクリ。
彼の言葉の意味を理解して、背筋が震えた。
彼は怒らなかったのではない。
私が失敗したことを――「彼なしでは何もできない」ことを証明したことを、喜んでいたのだ。
「……意地悪」
「愛ゆえです」
彼は私の手からカップを取り上げ、ソーサーに戻した。そして、私の唇に自分の唇を重ねた。
「んっ……」
紅茶の味がした。
甘くて、少し苦い、彼だけの味。 深い口づけ。
舌先が絡み合い、私の口の中に残っていた「失敗作」の渋みを、彼がすべて吸い取っていくようだった。
「……ぷはっ」
唇が離れると、銀の糸が引いた。
アルフォンスは恍惚とした表情で、自分の唇を舐めた。
「……貴女の失敗の味すら、私には甘露です。ですが、やはり私の淹れた紅茶で満たされている貴女の方が、数倍美味しい」
「……もう、バカ……」
私は真っ赤になって俯いた。 勝てない。
魔法の腕なら私の方が上のはずなのに、生活という土俵においては、私は彼の掌の上で転がされる赤子同然だ。
「さあ、もう一杯いかがですか? 今度は私が飲ませて差し上げます」
「……うん。お願い」
私は素直に口を開けた。
もう、抵抗する気力もなかった。
この甘い紅茶の味を知ってしまった以上、私は一生、彼というフィルターを通した世界しか味わえないのだから。
窓の外では、夕焼けが塔を赤く染めていた。
明日も、明後日も。 私が「喉が渇いた」と言えば、彼が完璧な一杯を持って現れる。
その約束された未来が、今の私には何よりも甘美な鎖となって、心臓を縛り付けていた。
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