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第88話「約束の地、霧の深き森」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

ナラ・エンの古都での甘美な一夜が明け、私たちは再び旅支度を整えていた。  

と言っても、荷造りをするのはアルフォンスだけで、私は寝ぼけ眼を擦りながら、彼に着替えさせてもらうのを待っているだけなのだけれど。


「おはようございます、私の可愛い奥様」


アルフォンスが、淹れたての白湯を私の口元に運んでくる。


「今日は少し遠出をします。貴女にふさわしい、最高の『隠れ家』を見つけに行きましょう」


彼は私の髪を櫛で整え、旅装束――この国の絹織物を使った、動きやすくも優雅な和洋折衷のドレスに着替えさせてくれた。

鏡に映る私は、どこからどう見ても深窓の令嬢だ。  

中身はただのズボラな元・ゴミ屋敷の住人なのに。


「また、抱っこ?」


「当然です。山道は険しい。貴女の柔らかな足裏を、無骨な石や木の根に晒すわけにはいきません」


彼は当たり前のように私を横抱きにし、宿を後にした。  

宿の主人が深々と頭を下げる中、私たちは朝霧の立ち込める古都を抜け、さらに奥深く、人里離れた山岳地帯へと足を踏み入れた。


ナラ・エンの奥地は、想像以上に神秘的な場所だった。西洋の森とは違う。  

鬱蒼と茂る杉や檜の巨木たち。  

地面を覆い尽くす、分厚いビロードのような緑色の苔。

そして、視界を白く染め上げる、濃密な霧。


静かだ。  

鳥の声さえ遠慮がちに聞こえるほど、森全体が神聖な静寂に包まれている。


「……懐かしい匂いがする」


私はアルフォンスの胸に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。湿った土の匂い。樹液の香り。  

それは、かつて私が引きこもっていた「西の森」に似ていた。  

でも、ここの空気はずっと澄んでいて、魔力の密度が桁違いに高い。


「ええ。ここは『神域』と呼ばれる、古くからの聖地だそうです」


アルフォンスは道なき道を、音もなく進んでいく。  

彼の靴は泥に汚れるはずなのに、魔法で常にコーティングされているのか、一点の曇りもない。


「この国には、八百万やおよろずの神がいると言われています。……つまり、自然そのものが意志を持ち、魔力を帯びている土地。魔女である貴女が暮らすには、これ以上の場所はありません」


彼は立ち止まり、視線を巡らせた。  

巨木がアーチのように空を覆い、その隙間から木漏れ日が差し込む、開けた空間。  

中央には、鏡のように透き通った湧き水の泉がある。


「……ここだわ」


私は直感した。泉から溢れ出す魔力の奔流。  

それが私の波長と共鳴し、肌をピリピリと心地よく刺激する。


「降ろして、アルフォンス。少し歩きたい」


「泥がありますよ」


「平気よ。ここなら、汚れてもいい気がする」


私が珍しく懇願すると、アルフォンスは渋々といった様子で、それでも一番乾いた岩の上に私を降ろしてくれた。


私は地面に足をつけた。ふかふかの苔の感触。  

靴越しでも、大地の脈動が伝わってくるようだ。  

私は泉の方へと歩き出した。


ピチャ。


水際で、泥が跳ねた。  

真っ白な私の靴下と、足首を飾るアメジストのアンクレットに、黒い土汚れが点々と付着する。


「あ……」


しまった、と思った瞬間。

背後から凄まじい殺気が放たれた。


「……なんと無礼な」


アルフォンスの声が、氷点下まで下がっていた。  

彼は瞬時に私の足元に跪き、汚れた足首を両手で包み込んだ。


「申し訳ありません、エルカ様。……私の不手際です。貴女の白磁のような肌に、このような泥を……」


彼は震える手で懐を探った。  

取り出されたのは、いつもの真っ白なシルクのハンカチ……ではない。  

古びた、端が擦り切れた、安物の布切れだった。  

けれど、それは異常なほど綺麗に洗濯され、アイロンが掛けられ、大切に扱われていることが一目でわかった。


「……アルフォンス? それ……」


「……私の原点です」


彼はそのボロボロのハンカチで、私の足首の泥を拭い始めた。ただ拭くだけではない。

まるで聖遺物に触れる信徒のように、指先が震えている。


思い出した。あれは、私がまだ幼かった頃。  

雨の降る路地裏で、血まみれで倒れていた銀髪の少年を見つけたことがあった。  

任務に失敗し、組織からも見捨てられ、泥の中で死にかけていた少年。  

私は持っていたハンカチを彼に渡し、簡単な治癒魔法をかけて立ち去ったのだ。


――『汚い顔。……これで拭きなさいよ』


なんてことない、ただの慈悲。

でも、彼はそれをずっと持っていたのだ。  

執事になり、最強の魔術師になり、私の夫になった今でも。


「あの日、泥にまみれて死にかけていた私を、貴女はこの一枚の布で救ってくださいました」


アルフォンスはハンカチを握りしめ、私の足首に口づけをした。


「私の命は、貴女が拾ったゴミ屑です。……だからこそ、この命は全て、貴女を輝かせるためだけに使うと誓ったのです」


「……あんた、本当に……重いわよ」


私は照れ隠しに彼の頭を小突いたが、胸の奥が熱くなるのを止められなかった。  

この男は、私の知らないところから、ずっと私だけを見ていたのだ。


「……許せませんね」


ひとしきり私の足を清めたアルフォンスは、

ゆっくりと立ち上がった。  

その目は、周囲の森――この土地に宿る「精霊」や「意志」そのものに向けられていた。


「私の主の足を汚すとは。神域だか何だか知りませんが、躾がなっていません」


彼は「思い出のハンカチ」を、泉のほとりにある岩の上に広げた。


「この土地は野生すぎます。無秩序で、雑然としていて、埃っぽい。……私の主人が住まうには、いささか『管理』が足りていません」


彼は手袋をはめ直し、魔術式を展開した。


「我が名はアルフォンス・クライン。エルカ・クラインの夫にして、唯一の管理者なり」


彼のバリトンボイスが、森の空気を震わせる。


「この森に告ぐ。……これよりここは、我々の庭である。このハンカチに染み込んだ『忠誠』と『救済』の記憶を礎とし……貴女たちの主人は、このエルカ様ただ一人であると知れ!!」


ドォォォォン……ッ!!


ハンカチから、眩いほどの銀色の光が溢れ出した。  

それは波紋のように広がり、泉を、木々を、

そして森全体を飲み込んでいく。


ザワザワ……!


森がざわめいた。  

土地の精霊たちが、異物であるアルフォンスの魔力に反発しようとしている。  

だが、ハンカチに込められた「数十年分の執念」と、私への過保護な愛のエネルギーは、野生の精霊すらも圧倒し、ねじ伏せた。


一瞬の抵抗の後。 森の空気が、ふっと変わった。


ジメジメとした湿気が消え、エアコンをかけたように快適な湿度に保たれる。  

足元の泥は固まり、歩きやすい硬度へと変化する。  

視界を遮っていた霧は、私たちを守る「白いカーテン」のように整然と漂い始めた。


「……すごい」


私は目を見張った。  

野生の森が、たった数分で「手入れの行き届いた庭園」のように変質したのだ。  

落ち葉一つ、小石一つに至るまで、アルフォンスの美学に従って再配置されているかのようだった。


「……ふぅ。これで、最低限の居住環境は整いました」


アルフォンスは満足げに頷いた。  

彼はハンカチを回収せず、そのまま岩に同化させた。  

私の幼い日の出会いが、この広大な土地の「所有権」を示す杭となったのだ。


「どうですか、エルカ様。……気に入っていただけましたか?」


彼は私の方を向き、手を差し出した。  

その背後には、彼に屈服し、彼に従うことを選んだ美しい森が広がっている。


「……ええ。最高よ」


私は彼の手を取った。

かつての故郷、ゴミ屋敷があった森。  

あれは自由だったけれど、不便で、汚かった。

でも、ここは違う。  

自然の美しさを残したまま、アルフォンスというフィルターを通して「快適」に濾過された、管理された自然。そして何より、彼が私のために、命をかけて整えてくれた場所。


まさに、私にぴったりの「新しい檻」だ。


「ここを、私たちの新しい拠点にしましょう」


アルフォンスは私を抱き寄せ、森の中心で宣言した。


「誰にも邪魔されず、誰にも見つからず……貴女が永遠に美しく、堕落したまま暮らせる、約束の地です」


「ふふっ。堕落したまま、ってところがポイントね」


「ええ。貴女は何もする必要はありません。呼吸をする以外は、全て私が代行しますから」


彼は私の額にキスをした。

森の木々が、祝福するようにざわめく。  

木漏れ日が、私たちの新しい門出を照らしている。


ここは世界の果て。

地図にも載らない、霧の深き森。  

ここで私たちは、世界一贅沢で、世界一閉鎖的な、二人だけの王国を築くのだ。


「さて、エルカ様。場所は決まりました」


アルフォンスは眼鏡をキラリと光らせ、周囲の空間を見渡した。


「次は『家』が必要です。……テント暮らしなど、貴女の肌を荒らすだけですから」


「……どうするの?大工さんなんて呼べないわよ?」


「呼ぶ必要はありません。私と貴女がいれば、城だろうと塔だろうと、一晩で建てられます」


彼はニヤリと笑った。  

その笑顔は、新しいおもちゃを見つけた子供のように無邪気で、そして建築家のように理知的だった。


「今夜は忙しくなりますよ。愛のマイホーム作りですから」


夕暮れが迫る中、森は金色に染まっていく。  

私たちは泉のほとりに座り、お互いの体温を確かめ合っていた。  

遠くで鹿の鳴き声が聞こえる。平和だ。  

魔法省との戦いの日々が、まるで遠い昔の夢のよう。


「ねえ、アルフォンス」


「はい」


「そのハンカチ……まだ持ってたなんて、変態ね」


私がからかうと、彼は嬉しそうに目を細めた。


「ええ。貴女の匂いも、あの日の雨の匂いも、全て染み付いていますから。……一生、手放しませんよ」


私たちは笑い合った。

重すぎる愛と、それに依存する心。  

それが、この美しい森の中で、永遠に循環していく。    

太陽が沈み、星が瞬き始める。

さあ、夜が来る。  

新しい家、新しい塔を建てるための、長い夜が。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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