第87話「あをによし、古都への隠遁」
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あをによし、奈良の京――。
その言葉通り、青々とした緑と朱塗りの建物が調和する、霧に包まれた神秘的な古都「ナラ・エン」。
私たちは、魔法省の地下から「幽霊」となって消えたあの日から、数カ月の月日をかけてこの地に辿り着いた。
複数の国境を越え、文化も異なる土地を渡り歩く長旅。
公式には「死人」となった私たちを追う者は、
もう世界のどこにもいない。
けれど、私の過保護な執事は、万が一にも不潔な他人の視線が私に触れることを許さず、徹底的な隠密移動という名の過剰なスキンシップを貫いた。
「……やっと、着いたのね」
私はアルフォンスの広い背中に顔を埋めたまま、
小さく呟いた。
この数カ月、私はほぼ自分の足で地面を歩いていない。
街を通る時はアルフォンスの影の中に潜み、山を越える時は彼の腕に抱かれ、寝る時も彼の上。
おかげで、私の足はすっかり退化して、彼なしでは立ち上がることさえ億劫になってしまった。
「ええ、エルカ様。……いえ、これからはこの国の呼び方に合わせなければなりませんね」
アルフォンスが、ゆっくりと私を降ろした。
そこは、街外れの静かな高台に立つ、老舗の高級旅籠の前だった。
西洋の石造りとは異なる、木の温もりと香油の匂いが漂う、優美な建築物。
「数カ月、よく耐えてくださいました。……ここなら、誰の目も気にせず、貴女を私のものとして愛でることができます」
彼は懐から、この旅の間に密かに用意していたのであろう、真新しい身分証――
この国の素材で作られた木札の魔法証を取り出した。
「入国の手続きは移動中に済ませておきました。……これからは、この名前が私たちの『真実』になります」
私が手渡された木札には、見慣れない東方の文字と、その横にルビが振られていた。
『エルカ・クライン』
【身分:良民(既婚)】
【配偶者:アルフォンス・クライン】
「……えっ?」
私の思考が停止した。クライン。
それはアルフォンスの姓だ。
そして、その横にある文字。
「……き、既婚って……ふ、夫婦!?」
私は素っ頓狂な声を上げてしまった。
顔が一気に沸騰する。
心臓が早鐘のように打ち鳴らされる。
数カ月の逃亡生活、常に密着していたとはいえ、こうして公的な(偽造とはいえ)形で「妻」と明記される破壊力は凄まじかった。
「当然です。……『死人』となった私たちが、この国で最も不自然に思われず、かつ私が貴女の全責任を負う立場として振る舞うには、これが唯一にして最高の正解でした」
アルフォンスは涼しい顔で「効率」や「正解」という言葉を並べている。
でも、騙されない。
眼鏡の奥のアイスブルーの瞳は、これまでにないほど深く、粘着質な悦びに濡れている。
彼はこの数カ月、この「既婚」のステータスを手に入れることに全精力を注いでいたに違いないのだ。
「……夫婦。……あんたの奥さん、か」
私は木札の表面を指でなぞった。
『エルカ・クライン』。口の中で転がしてみる。 不思議と、嫌な感じはしなかった。
むしろ、胸の奥がじんわりと温かくなるような、甘い痺れが走る。
「……ま、まあ……いいわよ」
私は木札を胸に抱きしめ、上目遣いで彼を見た。
「あんたがそこまで言うなら……なってあげても、いいけど。……エルカ・クライン、悪くない響きだし」
私が照れ隠しにボソッと言うと、アルフォンスの動きが止まった。
彼は目を見開き、数秒間フリーズした後、何かが切れたようにその場に崩れ落ちた。
「……っ、うぁぁ……っ!!」
「えっ、ちょ、ちょっと!? アルフォンス!?」
彼は私の腰に抱きつき、その場に跪いたまま、私の腹部に顔を埋めて震えだした。
「可愛すぎる……!!貴女という人は、どうしてそんなに……ッ!私の心臓を止める気ですか!?」
「な、何泣いてんのよ!」
「嬉しすぎて、涙が止まりません……!ああ、神よ、いや悪魔よ……!彼女が私の名前を受け入れてくれた……!私の妻になってくれた!」
彼は私の腰を強く抱きしめ、何度も何度も、服の上から愛の言葉を叫び続けた。
いつもの冷静沈着な執事の仮面はどこへやら。
そこにいるのは、ただの「愛妻家」になり下がった重い男だった。
でも、その重さが心地よくて、私は彼の頭を優しく撫でてあげた。
ひとしきり愛情を爆発させた後、アルフォンスに案内されたのは、旅籠の最上階にある特別室だった。 畳の香りが芳しい、広々とした和室。
障子を開けると、眼下には霧に包まれた古都の夜景が広がっている。
「お待たせいたしました、私の愛しい奥様。夕食のご用意が整いました」
アルフォンスが運んできたのは、見たこともないほど美しい料理の数々だった。
小さな器に少しずつ盛られた、季節の食材たち。
ナラ・エン名物の『懐石料理』だという。
「うわぁ……綺麗」
「目でも楽しめるのが、この国の料理の特徴です。……ですが、貴女の手を煩わせるわけにはいきません」
私が箸(二本の棒)を手に取ろうとすると、
アルフォンスが優しく制止した。
彼は私の隣にぴったりと座り、器を手に取った。
「貴女の手は、私に愛されるためにあるのです。……食事の労力は、全て私が負担します」
彼は白身魚の煮付けを箸で器用に解し、骨がないことを確認してから、ふぅー、ふぅー、と息を吹きかけた。
「さあ、あーん」
「……ん」
私は口を開けた。パクり。
甘辛い出汁の味と、魚の旨味が口いっぱいに広がる。
「……おいしい!」
「良かったです。……毒味の段階で、貴女好みの味付けになるよう厨房に指示しておきましたから」
彼は満足げに微笑み、次は季節の野菜、その次は汁物と、甲斐甲斐しく私の口に運んでいく。
私はただ座って、口を開けているだけ。まるで雛鳥だ。
でも、彼の視線が「もっと食べて」「もっと私に世話をさせて」と熱烈に語りかけてくるので、拒否なんてできない。
「……幸せですか?」
「うん。……あんたがいてくれて、良かった」
私が素直に言うと、彼はまたしても感極まった顔になり、箸を持ったまま私の頬にキスをした。
「貴女を太らせるのが、私の新しい趣味になりそうです」
食後。
私たちは部屋に備え付けられた露天風呂へと向かった。
岩で作られた湯船には、たっぷりと湯が満たされ、湯気が夜空に立ち昇っている。
周りは竹垣で囲まれ、誰からも見られない完全なプライベート空間だ。
「……失礼します」
アルフォンスは手早く自分の服を脱ぎ捨て、私の服にも手を掛けた。
一ヶ月の逃亡生活で、一緒にお風呂に入るのは日常になってしまったけれど、こうして開放的な露天風呂で向き合うのは初めてだ。
「……なんか、恥ずかしいわね」
「何を今更。貴女の体は、ほくろの数まで把握していますよ」
彼は私を抱き上げ、ゆっくりと湯船に浸かった。 ちゃぷん。
温かいお湯が体を包み込む。
それ以上に、私の背中を支える彼の胸板が熱い。
「はぁ……。気持ちいい……」
「ええ。ナラ・エンの湯は、疲労回復と美肌効果があるそうです」
アルフォンスは私の背後に座り、私を両足の間に挟むような体勢で抱きしめた。
そして、手ぬぐいにお湯を含ませ、私の肩や腕を優しく洗い始める。
「……エルカ様」
「ん?」
「私たちは今、世界から忘れられた幽霊です。……誰の目も、法律も、義務もありません」
彼の手が、お湯の中で私の手を握った。
左手の薬指。
そこには、魔法の指輪だけでなく、見えない「夫婦の誓い」が刻まれている。
「ですから……これからは、毎日こうして過ごしましょう。美味しいものを食べ、美しい景色を見て、そして愛し合う……。それだけが、私たちの義務です」
彼は私の首筋に顔を埋め、甘噛みした。
ぞくり、と甘い電流が走る。
「……そうね。……それなら、悪くないかも」
私は彼の腕の中で、力を抜いて体を預けた。
空を見上げると、満月が綺麗に見える。
古都の風が、火照った頬を撫でていく。
魔法省も、ルシウスも、もういない。
あるのは、私を溺愛する重い夫と、温かいお湯だけ。
「……アルフォンス」
「はい」
「……大好きよ」
私が囁くと、湯船のお湯が大きく波打った。
アルフォンスが私を正面から抱きしめ、深い、
深い口づけで応えてくれたからだ。
「……私もです。……愛しています、私のエルカ」
湯気の向こうで、二人の影が一つに重なる。
それは、世界で一番幸せな幽霊たちの、永遠に続くハネムーンの始まりだった。
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