第86話「白き手袋の決闘」
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重厚な鋼鉄の扉が、悲鳴のような音を立てて開かれた。 そこは、世界の心臓部。
魔法省の地下最深部、「第零保管庫」。
広大な円形の空間。
壁一面に埋め尽くされた魔力サーバーが、
明滅しながら膨大なデータを処理している。
その中央に、巨大な培養槽が鎮座していた。
青白い液体の中で浮遊しているのは、無数の管に繋がれた一人の老人――
ルシウス・ヴァイゼの「本体」だ。
「……よく来たね、私の可愛い道具たち」
培養槽の前には、ホログラムではなく、魔力で構成された実体を持つルシウスの分身が立っていた。その顔には、絶対的な余裕と、勝利を確信した者の傲慢な笑みが張り付いている。
「ここが私の腹の中だ。……どうだい?世界の全てを管理する場所の居心地は」
「……空気が悪いわね」
私は鼻を摘んだ。
清潔に見えるけれど、ここには腐敗臭がする。
長きにわたり権力を独占し、他人の犠牲の上に胡座をかいてきた、老人の欲望の臭い。
「同感です、エルカ様。……換気扇を回した程度では落ちない、染み付いた汚濁の臭いだ」
アルフォンスが私の前に立ち、白い手袋をきゅっと締め直した。
その背中は、いつものように優雅で、けれど鋼のように頼もしい。
「減らず口を。アルフォンス、君には失望したよ」
ルシウスが冷ややかに告げた。
「君を最高傑作として作り上げたのは私だ。感情を捨て、命令にのみ従う完璧な『処刑人形』。それが、あろうことか魔女にたぶらかされ、飼い主に牙を剥くとは」
彼は右手を高々と掲げた。
その掌に、どす黒い紋様が浮かび上がる。
マスターキー。アルフォンスの魂に刻まれた『双蛇の刻印』を起動させるための、絶対命令権。
「遊びは終わりだ。……思い出させてやろう。君が誰の所有物であるかを」
ルシウスの声が、空間を震わせた。
「コマンド・強制執行。……対象:アルフォンス・クライン」
空間に赤い術式が展開される。
逃げ場のない強制命令。
アルフォンスの意思に関係なく、彼の肉体を操り、私を殺させるための最悪の呪い。
「さあ、その汚れた魔女の首を刎ねろ!私の足元に生首を転がしてみせろ!」
ルシウスが叫んだ。勝ち誇った顔。
自分の命令が絶対であると信じて疑わない、支配者の顔。
しかし。
――静寂だけが、そこにあった。
「…………」
アルフォンスは動かなかった。
私を殺すどころか、眉一つ動かさず、ただ涼しい顔でルシウスを見つめている。
「……な、に?」
ルシウスの表情が凍りついた。
彼は焦ったように、再び手を掲げた。
「コマンド・強制執行!殺せ!殺せと言っているんだ!なぜ動かない!?」
何度も、何度も。必死に命令を繰り返す老人。
その姿は滑稽で、哀れですらあった。
「……騒がしいですね」
アルフォンスが、鬱陶しそうに溜息をついた。
彼は眼鏡のブリッジを中指で押し上げ、氷点下の瞳でかつての主人を射抜いた。
「誰に向かって命令しているのですか?そこには誰もいませんよ」
「な……なん……だと……?」
「貴方が支配していた『アルフォンス・クライン』という人形は、もう存在しません」
アルフォンスが左胸に手を当てた。
そこには、私と魂を繋いだ不可視の指輪が輝いている。
「ここにいるのは、エルカ・シュヴァルツ様の忠実なる執事。……それ以外の何者でもない」
「ば、馬鹿な……!私の刻印は絶対のはずだ!魂の深層に焼き付けた呪いが、消えるはずがない!」
「消えたのではありません」
アルフォンスが、一歩踏み出した。
その足音一つで、部屋の空気が張り詰める。
「上書きされたのです。……貴方の薄汚い落書きよりも、遥かに強く、美しく、重い……私の主人の『愛』によって」
「ひっ……!」
ルシウスが後ずさった。理解したのだ。
目の前にいる男が、もう自分の知っている道具ではないことを。
鎖を引きちぎり、飼い主を喰らいに来た「怪物」であることを。
「おのれ……おのれぇぇぇッ!!不良品風情がぁぁぁッ!!」
ルシウスが錯乱したように腕を振るった。空間に無数の魔法陣が展開される。 炎、雷、氷、風。
ありとあらゆる攻撃魔法が、嵐のようにアルフォンスへ殺到する。
それは、一人で軍隊を壊滅させられるほどの火力。だが、アルフォンスは止まらなかった。
避けることもしない。
彼はただ、真っ直ぐに歩きながら、白い手袋をはめた手で、目の前の空間を「払った」。
「邪魔です」
パァンッ!!
乾いた音が響いた。
それだけで、迫りくる魔法の嵐が霧散した。
炎が掻き消え、雷が吸い込まれ、氷が蒸発する。
まるで、テーブルの上の埃を布巾で拭い去るかのように、彼は魔法を「掃除」したのだ。
「な……魔法を、素手で……!?」
「貴方の魔法は雑すぎます。……魔力構成に無駄が多い。美しくない」
アルフォンスは歩みを止めない。
カツン、カツン。 死刑執行の足音。
「埃っぽい。カビ臭い。……貴方の存在そのものが、私の主人の視界を汚しています」
「く、来るな!来るなぁぁぁッ!!」
ルシウスが培養槽を守るように防壁を展開する。
魔法省の最重要機密を守るための、絶対防御結界『アイギス』。
核攻撃すら防ぐと言われる最強の盾。
「無駄です」
アルフォンスは結界の前に立つと、右手をかざした。
その指先には、私の魔力が青白く収束している。
「私の主人《エルカ様》の魔力は、あらゆる理を分解する。……貴方の作った盾など、薄紙も同然です」
パリーンッ!!
ガラスが割れるような音と共に、最強の結界が砕け散った。
破片がキラキラと舞い散る中、アルフォンスは培養槽の前へと辿り着く。
そこに浮いているのは、老いさらばえたルシウスの本体。全ての権力の源。
そして、アルフォンスの過去を縛っていた元凶。
「……チェックメイトです、ルシウス」
アルフォンスは静かに告げた。
その声には、憎しみも哀れみもなかった。
あるのは、仕事を完遂しようとする執事の、冷徹な義務感だけ。
「ま、待て……!待ってくれアルフォンス!」
分身のルシウスが、見苦しく命乞いをした。
「私が悪かった!謝る!だから本体には手を出すな!金をやる!地位もやる!魔法省の長官の椅子を君に譲ってもいい!だから……!」
「……地位?名誉?」
アルフォンスは、心底不思議そうに首を傾げた。
「そんなガラクタ、何の役に立つのです?それらが、エルカ様の淹れた紅茶よりも価値があるとでも?」
「な……」
「私に必要なのは、世界でたった一人。……エルカ様が笑ってくださるなら、私は泥水の中でも生きていける。逆に、彼女がいないなら、黄金の玉座もただの処刑台だ」
彼は培養槽に手を触れた。 冷たいガラスの感触。
「さようなら、ルシウス。……貴方は、あまりにも長く『汚れ』を溜め込みすぎた」
アルフォンスの手に力が込められる。
白い手袋が、眩い光を放つ。
「大掃除の時間です」
ドォォォォォンッ!!
衝撃波が走った。培養槽が粉々に砕け散り、中の培養液がぶちまけられる。
そして、ルシウスの本体である老人の肉体が、アルフォンスの魔力によって粒子レベルまで分解され、光となって消滅していく。
「あ、あぁ……あぁぁぁぁぁぁッ……!!」
分身のルシウスが断末魔を上げ、霧のように掻き消えた。
魔法省を支配していた絶対者が、今、跡形もなく消え去ったのだ。
静寂が戻った。
壊れた培養槽の破片と、水浸しになった床。
警報音がけたたましく鳴り響いているが、それが逆に静けさを際立たせている。
アルフォンスは、濡れた床に佇んでいた。
彼の燕尾服には、水滴一つ、汚れ一つついていない。あの白い手袋も、純白のままだ。
「……終わったの?」
私が恐る恐る近づくと、彼は振り返り、いつもの柔らかな微笑みを向けた。
まるで、朝食の片付けを終えた時のような顔で。
「はい、エルカ様。粗大ゴミの処分、完了いたしました」
彼は新しいハンカチを取り出し、私の頬についた埃を優しく拭った。
「お怪我はありませんか?……怖い思いをさせて申し訳ありません」
「ううん、平気よ。……あんたが強すぎて、怖がる暇もなかったわ」
私は彼に抱きついた。 温かい。
人を殺した直後だというのに、彼の体温は優しくて、安心する。
「……本当に、終わったのね」
「ええ。ですが、最後にもうひと仕事残っています」
アルフォンスは私を抱きしめ返すと、片手で空中に魔術式を展開した。
ホログラムキーボードが現れる。
彼は凄まじい速度で指を動かし始めた。
魔法省のメインサーバーへのハッキングだ。
「な、何してるの?」
「事後処理です。……ルシウスが消え、魔法省は混乱状態にあります。この隙に、戸籍データを書き換えてしまいましょう」
タタタタタタッ!
彼の指が残像を残すほどの速さで動く。
「『エルカ・シュヴァルツ』および『アルフォンス・クライン』……。検索、ヒット。……ステータス変更」
彼はニヤリと笑った。
悪戯を成功させた子供のような、それでいて最高にクールな笑顔。
「『死亡』」
エンターキーが押された。
「……えっ?」
「これで、私たちは公式に死人となりました。……魔法省も、騎士団も、もう死人を追うことはできません」
彼はキーボードを消し、私に向き直った。
「おめでとうございます、エルカ様。これより貴女は、何者にも縛られない『真の幽霊』です。税金も、義務も、世間の目も、何も気にする必要はありません」
「……幽霊って」
「ええ。世界から忘れ去られた、二人だけの亡霊です」
彼は恭しく手を差し出した。
「さあ、参りましょう。ここはもうすぐ崩壊します。新しい隠れ家を探しに」
「ふふっ。最高ね」
私は彼の手を取った。死人として生きる。
世界から消えて、二人だけで生きていく。
それは、引きこもりの私にとって、最高のハッピーエンドじゃないか。
「連れて行って、アルフォンス。地獄の果てまで」
「御意、マイ・ロード」
アルフォンスは私を抱き上げ、崩れゆく第零保管庫を後にした。
背後で爆発音が響き、瓦礫が降ってくる。
けれど、彼の腕の中は揺り籠のように安定していた。
埃一つ被らず、傷一つ負わず。
白き手袋の執事は、主人を抱いて炎の中を悠然と歩く。
その姿は、この世の誰よりも気高く、美しく、
そして最強だった。
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