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第85話「ルシウスの誘惑、自由という名の不潔」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

魔法省の最深部、「第零保管庫」へと続く長い回廊。そこは、世界で一番「清潔」で、そして「冷たい」場所だった。


壁も床も天井も、継ぎ目のない純白の素材で覆われている。埃一つない。塵一つない。  

空気さえも完全に濾過され、無臭。  

まるで手術室か、あるいは巨大な棺桶の中を歩いているような感覚だ。


カツン、カツン。  

私たちの足音だけが、虚無的な空間に響く。


「……気持ち悪い場所ね」


私が呟くと、隣を歩くアルフォンスが即座に頷いた。


「同感です。一見すると清潔ですが、これは『清掃』された美しさではありません。……ただ、汚れを許容できないがゆえに、生命の息吹すら排除した『不毛』な空間です」


彼は嫌悪感を隠そうともせず、眼鏡の位置を直した。先ほど呪いを解かれ、魂ごと私と結びついた彼は、以前よりも遥かに精悍せいかんで、そして艶めかしいオーラを纏っている。  

私の魔力が、彼の血管を巡っているのが分かる。 この無機質な白い地獄で、彼の体温だけが唯一の救いだった。


その時。  

前方の空間が揺らぎ、青白い光が走った。


ブォン。


何もない空間に、巨大な立体映像ホログラムが出現する。  

そこに映し出されたのは、純白のローブを纏った初老の男――ルシウス・ヴァイゼだった。


『ようこそ、ここまで辿り着くとはね。……私の可愛いモルモットたち』


映像のルシウスは、玉座のような椅子に深々と座り、慈愛に満ちた――しかし、その奥に爬虫類のような冷たさを宿した目で私たちを見下ろしていた。


『アルフォンス君。……顔色が悪いじゃないか。どうした?息が荒いぞ』


ルシウスは楽しげに口元を歪めた。  

彼は勘違いしている。  

アルフォンスの頬が紅潮し、息が弾んでいるのを、「本体マスターである自分に近づいたせいで、刻印の呪いが活性化して苦しんでいる」と思っているのだ。  

本当は、私の魔力で満たされ、力が漲っているだけなのに。


『ククッ……。やはり、飼い主には逆らえないようだね。ここへ近づくほど、その首輪はきつく締まるだろう?』


「……ご心配には及びません」


アルフォンスは涼しい顔で答えた。  

刻印がすでに消滅していることは、おくびにも出さない。これは、決戦の時までの「サプライズ」だ。


「私の体調管理は、全て主人が行ってくださっていますから」


『……ふん。強がりを』


ルシウスは鼻で笑うと、興味を失ったように視線をアルフォンスから外し、私へと向けた。  

その瞬間、彼の表情がねっとりとした甘いものに変わる。


『エルカ・シュヴァルツ卿。……ああ、可哀想に。君は騙されているんだ』


彼は手を差し伸べるような仕草をした。


『君は稀代の天才だ。その膨大な魔力、古代魔法を操る知性……。君は本来、泥にまみれるべき人間ではない。世界の頂点に立ち、真理を探究すべき「選ばれた存在」なんだ』


「…………」


『なのに、なんだその男は? 壊れかけた道具にすぎない。……そんな首輪付きの犬に寄生され、君の才能を浪費して、あの薄暗い塔に閉じ込められている』


ルシウスの声が、回廊に朗々と響き渡る。  

説得力のある、カリスマ性を帯びた声。  

多くの魔術師が、この声に酔いしれ、彼に従ってきたのだろう。


『私の元へ来なさい、エルカ。……君に「自由」を与えよう』


彼は甘美な響きで言った。


『あの執事の束縛から解放され、君自身の足で歩くんだ。魔法省の全リソースを提供しよう。最高の研究室、無尽蔵の予算、そして誰にも邪魔されない自由な時間。……君が望む「世界」を、君自身の手で作れるんだよ』


自由。 解放。 自立。


それは、普通の人間なら誰もが憧れる言葉かもしれない。 檻の中から手招きされれば、飛びつきたくなる餌かもしれない。


けれど。


「……ふっ」


私の口から漏れたのは、乾いた笑いだった。


『……何がおかしい?』


「笑わせないでよ、おじいちゃん」


私はアルフォンスの腕に自分の腕を絡ませ、体重を預けた。彼の筋肉がピクリと反応し、私をしっかりと支える。


「自由?自分の足で歩け?……そんなの、ただの『放置』じゃない」


私はルシウスの目を真っ直ぐに見つめ返した。


「私は知ってるわよ。あんたの言う『自由』がどんなに寒くて、汚いものか」


かつての私。  

ゴミ屋敷で一人、誰にも干渉されず、誰にも期待されず、ただ腐っていくだけの日々。  

それは確かに「自由」だった。  

好きな時に寝て、好きな時に起き、風呂にも入らず、カビの生えたパンをかじる。  

誰にも文句は言われない。  

でも、そこには「熱」がなかった。  

私が死んでも、誰も気づかない。

私が泣いても、誰も涙を拭いてくれない。  

あの底なしの孤独を、この男は「高貴な自由」だと言って売りつけようとしているのだ。


「自分の足で歩くなんて、面倒くさいわ。……靴が汚れるし、疲れるし、何より寂しい」


私はアルフォンスの肩に頭を乗せた。  

彼の匂い。蜜蝋とレモンの香り。  

その香りを嗅ぐだけで、体の芯が蕩けるように安心する。


「私はね、この男に管理されているのが好きなの。……朝起こされて、顔を洗われて、服を着せられて、ご飯を口まで運んでもらって……。私の命の全部を、彼に預けて生きるのが一番幸せなの」


『……正気か? それは家畜の人生だぞ』


「家畜で結構よ。……世界で一番愛されて、磨き上げられた『お姫様』という名の家畜なら、野良犬の自由よりずっとマシだわ」


私は言い放った。  

それは、私の魂からの宣言だった。  

共依存?堕落? 上等だわ。  

私はこの温かい檻の中で、この重苦しい愛に溺れて死ぬことを選んだの。


「……エルカ様……ッ!」


隣で、アルフォンスが感極まったように声を詰まらせた。彼の手が震えている。歓喜に打ち震えているのだ。


「聞きましたか、ルシウス。……これが、私の主人の答えです」


アルフォンスが顔を上げた。  

その表情は、勝利者の優越感に満ちていた。  


「貴方の提示する『世界』など、エルカ様にとってはゴミ以下の価値しかない。……彼女の世界は、私の腕の中だけなのですから」


『……愚かな』


ルシウスの表情が歪んだ。  

余裕の笑みが消え、焦りと憎悪が滲み出る。  

自分の論理が通じない相手に、初めて直面した戸惑い。


『そこまでして、その殺人鬼に依存するか。……君は知らないんだ。その男の本当の姿を』


ルシウスの声が低くなった。


『アルフォンス・クライン。……彼がなぜ「掃除屋」と呼ばれるようになったか。なぜ、あそこまで潔癖に「汚れ」を嫌うか。……それは彼が過去に、自分自身の両親と妹を……』


ピクリ。アルフォンスの体が強張った。  

触れている私には分かる。

一瞬だけ、彼の体温が下がった。過去の罪。  

彼がずっと隠してきた、決定的な傷跡。  

それを暴こうと、ルシウスが口を開く。


『彼が、愛する家族をその手で――』


バシュッ!!


鋭い風切り音が響いた。  

ルシウスの言葉は、最後まで紡がれることはなかった。


アルフォンスの手から放たれた銀のナイフが、ホログラム投影装置の魔力結晶を正確に撃ち抜いたのだ。映像が乱れ、ノイズが走る。


『な……っ!?き、貴様……聞くのが怖いか……!?』


「黙りなさい」


アルフォンスの声は、氷点下の静けさだった。


「主人の耳を、汚物で汚すなと言っているのです」


ズドォォン!!


彼は魔法を放ち、投影装置ごと壁を粉砕した。  映像が完全に消失する。ルシウスの気配も消え、再び静寂が戻った。


後に残ったのは、破壊された壁の残骸と、肩で息をするアルフォンスだけ。  

彼は私に背を向けたまま、動かなかった。


「……アルフォンス」


私が声をかけると、彼はビクッと肩を震わせた。  怖いのだろう。  

自分の過去を知られ、私が幻滅し、離れていくことが。あんなに強いのに、私のことになると、この男はこんなにも脆い。


「……聞かないわよ」


私は彼に近づき、背中から抱きついた。


「あんたが過去に何をしたか、誰を殺したか。……そんなの、どうでもいいわ」


「……ですが……私は……」


「あんたは今、私の執事でしょ?私を世界で一番綺麗にしてくれて、守ってくれる、最高のパートナーでしょ?」


私は彼の胸に顔を押し付け、その鼓動を聞いた。  早鐘のように打っている。


「過去なんて燃えるゴミよ。……さっきの森で、全部燃やしてきたじゃない」


「……っ!」


「今のあんたが私を愛してくれているなら、それで十分。……それとも、私の愛じゃ、あんたの過去の罪は洗い流せない?」


私の問いかけに、アルフォンスはゆっくりと振り返った。その瞳は潤み、眼鏡が曇るほどだった。


「……いいえ。……十分すぎます」


彼はその場に崩れ落ちるように跪いた。  

そして、私の足元――埃一つついていないヒールに、額を押し付けた。


「貴女は……私の女神だ」


彼は私の足首を掴み、靴の上から何度も口づけを落とした。それは崇拝の儀式だった。  

過去の罪も、後悔も、全てを私の足元に捧げ、

ただ今の愛だけに生きるという誓い。


「誓います、エルカ様。……この命が尽きる最期の瞬間まで、私は貴女の足となり、剣となり、盾となります。……貴女を『自由』などという冷たい荒野には、決して放り出しはしない」


「ええ。頼むわよ、私の重い執事」


私は彼を見下ろし、満足げに微笑んだ。  

これでいい。彼はもう、過去に縛られない。

私という鎖にだけ縛られて生きていくのだ。


アルフォンスは立ち上がった。  

その顔には、もう迷いはない。  

あるのは、主人を守るために神をも殺す、修羅の覚悟だけ。


「行きましょう。……奥で、あの老人が待っています」


目の前には、巨大な鋼鉄の扉。  

『第零保管庫』の入り口だ。  

この向こうに、全ての元凶がいる。


「開けて、アルフォンス」


「御意」


アルフォンスが手をかざすと、重厚な扉が重々しい音を立てて開き始めた。  

中から溢れ出す、圧倒的な魔力の風。  

私たちは手を繋ぎ、最後の戦場へと足を踏み入れた。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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