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第83話「不潔な偵察者と、執事の「消毒」」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

魔法省のある王都中心部へ向かう街道。  

私たちは、先ほど撃破した騎士団が残していった、最高級の軍用馬車(もちろん、アルフォンスが徹底的に洗浄・消毒済み)の中で、優雅に揺られていた。


窓の外では、依然として赤い空が広がり、遠くでは爆発音やサイレンが鳴り響いている。

王都はパニック状態だ。

避難する市民、怒号を上げる兵士たち。  

そんな喧騒の中を、真っ黒に塗り替えられた馬車が、亡霊のように滑らかに進んでいく。


「……ん。この紅茶、香りがいいわね」


「ありがとうございます。戦場の緊張感を和らげるため、鎮静作用のあるカモミールと、リラックス効果の高いベルガモットをブレンドしました」


向かいの席に座るアルフォンスが、穏やかに微笑んだ。  

馬車の中は、外の地獄とは別世界だ。  

防音結界と振動吸収魔法のおかげで、揺れひとつ感じない。  

ふかふかのベルベットの座席。磨き上げられたマホガニーのテーブル。  

そして、私の専属執事が淹れる最高の一杯。


「エルカ様。髪が少し乱れております」


「あ、本当?」


私が手鏡を覗こうとすると、アルフォンスがすっと立ち上がり、私の隣に移動してきた。


「失礼します。……結い直しましょう」


彼は懐から、銀の櫛とブラシを取り出した。  

私は大人しく彼に背を向け、身を預ける。

彼の手が、私の髪に触れる。  

白い手袋越しの感触。 優しく、けれど確実に私の髪を支配する指先。


スーッ、スーッ。

櫛が髪を梳く音が、静かな車内に響く。

心地よい。  

頭皮マッサージのような適度な刺激と、彼に「手入れされている」という安心感。


「……綺麗な髪だ」


アルフォンスが耳元で囁く。


「出会った頃は、泥と埃にまみれて、フェルトのように固まっていましたが……今では、夜空を溶かしたような艶やかな黒髪です。……私の自慢の作品です」


彼は髪の一房を手に取り、口づけを落とした。  

チュッ、という濡れた音が、背筋を甘く痺れさせる。


「……あんたが毎日、しつこいくらい手入れするからでしょ」


「ええ。貴女の髪一本一本に至るまで、私の管理下ですから」


彼は恍惚とした表情で、再びブラシを動かし始めた。平和だ。  

これから敵の本拠地に乗り込むというのに、この空間だけは、いつもの塔のリビングと変わらない。


――しかし。

その平穏は、唐突に、そして無音で破られた。


ゾクリ。肌が粟立つような悪寒。殺気ではない。

もっと異質で、生理的な嫌悪感を伴う「異物」の侵入。


「……?」


私が何かを言いかけた瞬間。  

馬車の天井から、黒い「染み」のようなものが滲み出してきた。 影だ。  

影が液状化し、音もなく人の形を成していく。  

魔法省の暗部――特殊工作部隊『影縫い』の刺客。  

物理的な防御結界をすり抜け、影を媒体にして移動する、最高ランクの暗殺者だ。


現れた黒装束の男は、天井に張り付いたまま、

逆さに私を見下ろしていた。  

その手には、致死毒が塗られた漆黒の短剣。

狙いは私の首筋。  

距離はわずか一メートル。  

声を出して警告する暇さえない――。


「……チッ」


短く、冷たい舌打ちが聞こえた。  

それは暗殺者ではなく、私の背後にいる執事のものだった。


「エルカ様。目を閉じていてください」


アルフォンスの左手が、後ろから伸びてきて、私の目をふわりと覆った。  

視界が闇に閉ざされる。彼の掌の温もりと、手袋の革の匂い。  

そして、微かに漂う蜜蝋の甘い香り。


「え……?」


「すぐに終わります。……少々、ハエが入ってきたようですので」


彼の声は、今まで聞いたことがないほど低く、

そして無機質だった。  

まるで、感情のスイッチを切った機械のような。


ヒュッ。風を切る音。    

ズプッ。 何かが、柔らかい肉を貫く鈍い音。


「……が、ぁ……っ!?」


男の押し殺した呻き声が聞こえた。

ガタン、と何かが床に落ちる音。  

おそらく、暗殺者の体だ。


「……動くな」


アルフォンスの声が、頭上から降ってくる。  

彼は右手で私の髪を梳き続けながら、左手だけで「処理」を行っているのだ。  

ブラシを動かすリズムは、一切乱れていない。  

スーッ、スーッ。  

髪を梳く音と、男の苦悶の息遣いが交錯する。


「き、さま……いつ、気づい……」


「貴様がこの馬車の屋根に足をかけた瞬間からです」


アルフォンスは淡々と答えた。


「私の結界は、物理的な攻撃だけでなく、『不純物』の侵入も感知します。……貴様のような、ドブ川の臭いがする薄汚いネズミが近づけば、吐き気がするほど分かりますよ」


ゴリッ。 嫌な音がした。 何かをねじ込んでいる音だ。


「な、何を……ぐぅッ!?」


「銀食器です。……ティータイム用に用意していたフルーツナイフですが、貴様の喉の掃除に使わせていただきました」


アルフォンスは残酷に告げた。  

私の目を覆ったまま、彼は見向きもせずに、背後の敵の急所を正確に貫いているのだ。


「私の大切な主人の憩いの場に、土足で、しかも影の中からコソコソと入り込む……。その品性の卑しさ、万死に値します」


「ま、待て……私は……情報を持っ……」


「不要です」


ザシュッ!!


濡れた雑巾を絞るような音がして、男の声が途絶えた。静寂。  

再び、ブラシの音だけが響く。


「……アルフォンス? 終わったの?」


「はい。……まだ目を開けてはいけませんよ。床が汚れていますから」


彼は私の目を覆ったまま、魔法を行使した。


シュゥゥゥ……。

何かが蒸発し、消滅していく気配。  

そして、すぐに強力な消臭魔法と浄化魔法が展開される。  

血の臭いも、殺気の残り香も、一瞬でラベンダーの香りに上書きされた。


「……はい、どうぞ」


彼の手が離れ、視界が戻る。

私は恐る恐る床を見た。そこには、何もなかった。死体はおろか、血の一滴、埃の一つすら落ちていない。  

最初から誰もいなかったかのように、完璧に「掃除」されていた。


「……本当に、何も残さないのね」


「当然です。……あのような汚物を、貴女の美しい瞳に映すわけにはいきません」


アルフォンスは新しい手袋を取り出し、装着した。  

その顔は、いつもの穏やかな執事の微笑みに戻っている。  

さっきまで、人の命を奪っていたとは信じられないほどに。


「ですが……収穫はありましたよ」


彼はサイドテーブルの上に、一枚の羊皮紙を置いた。  

先ほどの暗殺者が懐に持っていたものだろう。  

血痕一つついていない状態で回収されている。


「これは……ルシウスの署名?」


「はい。特殊工作員への指令書のようです」


アルフォンスは眼鏡を光らせ、羊皮紙を広げた。  

そこには、暗号化された文字で、私たちへの襲撃命令と、ある「重要地点」の防衛指令が記されていた。


「……『第零保管庫』。魔法省の地下深く、長官しか立ち入れない場所」


アルフォンスが指で文字をなぞる。


「以前、私が連行される際にルシウスに付着させた『追跡用の埃』……その反応も、ここを示しています」


「それって……」


「ビンゴです。……ルシウスが自身の本体、つまり『魔力核コア』を隠している場所です」


魔力核。  

強大な魔術師が、自身の不死性を維持するために魂の一部を切り離して隠す、命の源。

ルシウスがあれほど強大で、何度倒しても蘇ると言われる所以だ。


「本体さえ叩けば、あの男もただの老人です。……急所を晒してくれましたね」


アルフォンスは羊皮紙を青い炎で燃やした。

彼の瞳に、冷酷な狩人の色が宿る。


「行きましょう、エルカ様。……心臓外科手術オペの時間です」


私たちは馬車を降り、魔法省の裏口――

一般職員用の通用門へと向かった。  

正面突破は陽動(囮として放った私のビットたちが派手に暴れている)。  

本命は、この静かな潜入ルートだ。


薄暗い通路。アルフォンスが先導し、私はその背中に守られるように進む。  

彼は時折、指を鳴らして監視カメラや魔法センサーを無力化していく。


「……ねえ、アルフォンス」


「はい」


「さっきの人……躊躇なかったわね」


私は歩きながら、先ほどの暗殺者のことを思い出した。  

顔色一つ変えず、髪を梳きながら人を殺した彼。  

その手際の良さが、彼がかつて「掃除屋」と呼ばれていた事実を突きつけてくる。


「怖かったですか?」


彼が立ち止まり、振り返った。  

薄暗がりの中で、アイスブルーの瞳が不安げに揺れている。


「……私が、殺人人形のように見えましたか?」


「ううん」


私は首を振って、彼に近づいた。

そして、彼の手を取り、自分の頬に押し当てた。


「かっこよかったわよ。……私のために、手を汚してくれたんでしょ?」


彼の手は温かい。

人を殺した手だけど、私を撫でる時はいつだって優しい。その矛盾が、私にはたまらなく愛おしい。


「……汚れてなどいません」


私は彼の手袋を外し、素手の指に口づけをした。


「あんたの手は、世界で一番綺麗よ。私が保証する」


「エルカ様……」


アルフォンスが目を見開き、やがて泣きそうな顔で微笑んだ。


「……貴女は、本当に……私の救いだ」


彼は私の腰を引き寄せ、深いキスをした。

血の味はしない。  

紅茶と、蜜蝋の甘い味がした。


ふと、彼の体に触れた時、違和感があった。

熱い。  

服の上からでも分かるほど、彼の体温が上がっている。


「アルフォンス? あんた、熱くない?」


「……お気になさらず。少々、魔力回路をフル稼働させているだけです」


彼は平然と言ったが、額には脂汗が滲んでいた。  

塔での儀式、ケラウノスの迎撃、そして絶え間ない結界の維持。  

私の魔力を供給されているとはいえ、彼の肉体にかかる負担は限界近いはずだ。  

それに、あの「刻印」の影響も……。


「……無理しないでよ」


「無理などしておりません。……貴女を守るためなら、この身が燃え尽きようと本望です」


彼は強がりを言い、私の手を引いて歩き出した。  

その背中が、以前よりも少しだけ小さく見えた。  

無敵の執事。

でも、本当は傷だらけの人間。


(……待ってて。もうすぐだから)


私は心の中で誓った。

ルシウスを倒す前に、やらなきゃいけないことがある。 彼を縛る呪い。

あの胸の刻印を、私の手で消し去ること。  

その時が近づいている予感がした。


「ここです。……地下への入り口」


アルフォンスが隠し扉を開けた。

冷たく、澱んだ空気が吹き上げてくる。  

ルシウスの待つ、奈落の底。  

私たちは互いの手を強く握りしめ、闇の中へと足を踏み入れた。



読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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