第83話「不潔な偵察者と、執事の「消毒」」
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魔法省のある王都中心部へ向かう街道。
私たちは、先ほど撃破した騎士団が残していった、最高級の軍用馬車(もちろん、アルフォンスが徹底的に洗浄・消毒済み)の中で、優雅に揺られていた。
窓の外では、依然として赤い空が広がり、遠くでは爆発音やサイレンが鳴り響いている。
王都はパニック状態だ。
避難する市民、怒号を上げる兵士たち。
そんな喧騒の中を、真っ黒に塗り替えられた馬車が、亡霊のように滑らかに進んでいく。
「……ん。この紅茶、香りがいいわね」
「ありがとうございます。戦場の緊張感を和らげるため、鎮静作用のあるカモミールと、リラックス効果の高いベルガモットをブレンドしました」
向かいの席に座るアルフォンスが、穏やかに微笑んだ。
馬車の中は、外の地獄とは別世界だ。
防音結界と振動吸収魔法のおかげで、揺れひとつ感じない。
ふかふかのベルベットの座席。磨き上げられたマホガニーのテーブル。
そして、私の専属執事が淹れる最高の一杯。
「エルカ様。髪が少し乱れております」
「あ、本当?」
私が手鏡を覗こうとすると、アルフォンスがすっと立ち上がり、私の隣に移動してきた。
「失礼します。……結い直しましょう」
彼は懐から、銀の櫛とブラシを取り出した。
私は大人しく彼に背を向け、身を預ける。
彼の手が、私の髪に触れる。
白い手袋越しの感触。 優しく、けれど確実に私の髪を支配する指先。
スーッ、スーッ。
櫛が髪を梳く音が、静かな車内に響く。
心地よい。
頭皮マッサージのような適度な刺激と、彼に「手入れされている」という安心感。
「……綺麗な髪だ」
アルフォンスが耳元で囁く。
「出会った頃は、泥と埃にまみれて、フェルトのように固まっていましたが……今では、夜空を溶かしたような艶やかな黒髪です。……私の自慢の作品です」
彼は髪の一房を手に取り、口づけを落とした。
チュッ、という濡れた音が、背筋を甘く痺れさせる。
「……あんたが毎日、しつこいくらい手入れするからでしょ」
「ええ。貴女の髪一本一本に至るまで、私の管理下ですから」
彼は恍惚とした表情で、再びブラシを動かし始めた。平和だ。
これから敵の本拠地に乗り込むというのに、この空間だけは、いつもの塔のリビングと変わらない。
――しかし。
その平穏は、唐突に、そして無音で破られた。
ゾクリ。肌が粟立つような悪寒。殺気ではない。
もっと異質で、生理的な嫌悪感を伴う「異物」の侵入。
「……?」
私が何かを言いかけた瞬間。
馬車の天井から、黒い「染み」のようなものが滲み出してきた。 影だ。
影が液状化し、音もなく人の形を成していく。
魔法省の暗部――特殊工作部隊『影縫い』の刺客。
物理的な防御結界をすり抜け、影を媒体にして移動する、最高ランクの暗殺者だ。
現れた黒装束の男は、天井に張り付いたまま、
逆さに私を見下ろしていた。
その手には、致死毒が塗られた漆黒の短剣。
狙いは私の首筋。
距離はわずか一メートル。
声を出して警告する暇さえない――。
「……チッ」
短く、冷たい舌打ちが聞こえた。
それは暗殺者ではなく、私の背後にいる執事のものだった。
「エルカ様。目を閉じていてください」
アルフォンスの左手が、後ろから伸びてきて、私の目をふわりと覆った。
視界が闇に閉ざされる。彼の掌の温もりと、手袋の革の匂い。
そして、微かに漂う蜜蝋の甘い香り。
「え……?」
「すぐに終わります。……少々、ハエが入ってきたようですので」
彼の声は、今まで聞いたことがないほど低く、
そして無機質だった。
まるで、感情のスイッチを切った機械のような。
ヒュッ。風を切る音。
ズプッ。 何かが、柔らかい肉を貫く鈍い音。
「……が、ぁ……っ!?」
男の押し殺した呻き声が聞こえた。
ガタン、と何かが床に落ちる音。
おそらく、暗殺者の体だ。
「……動くな」
アルフォンスの声が、頭上から降ってくる。
彼は右手で私の髪を梳き続けながら、左手だけで「処理」を行っているのだ。
ブラシを動かすリズムは、一切乱れていない。
スーッ、スーッ。
髪を梳く音と、男の苦悶の息遣いが交錯する。
「き、さま……いつ、気づい……」
「貴様がこの馬車の屋根に足をかけた瞬間からです」
アルフォンスは淡々と答えた。
「私の結界は、物理的な攻撃だけでなく、『不純物』の侵入も感知します。……貴様のような、ドブ川の臭いがする薄汚いネズミが近づけば、吐き気がするほど分かりますよ」
ゴリッ。 嫌な音がした。 何かをねじ込んでいる音だ。
「な、何を……ぐぅッ!?」
「銀食器です。……ティータイム用に用意していたフルーツナイフですが、貴様の喉の掃除に使わせていただきました」
アルフォンスは残酷に告げた。
私の目を覆ったまま、彼は見向きもせずに、背後の敵の急所を正確に貫いているのだ。
「私の大切な主人の憩いの場に、土足で、しかも影の中からコソコソと入り込む……。その品性の卑しさ、万死に値します」
「ま、待て……私は……情報を持っ……」
「不要です」
ザシュッ!!
濡れた雑巾を絞るような音がして、男の声が途絶えた。静寂。
再び、ブラシの音だけが響く。
「……アルフォンス? 終わったの?」
「はい。……まだ目を開けてはいけませんよ。床が汚れていますから」
彼は私の目を覆ったまま、魔法を行使した。
シュゥゥゥ……。
何かが蒸発し、消滅していく気配。
そして、すぐに強力な消臭魔法と浄化魔法が展開される。
血の臭いも、殺気の残り香も、一瞬でラベンダーの香りに上書きされた。
「……はい、どうぞ」
彼の手が離れ、視界が戻る。
私は恐る恐る床を見た。そこには、何もなかった。死体はおろか、血の一滴、埃の一つすら落ちていない。
最初から誰もいなかったかのように、完璧に「掃除」されていた。
「……本当に、何も残さないのね」
「当然です。……あのような汚物を、貴女の美しい瞳に映すわけにはいきません」
アルフォンスは新しい手袋を取り出し、装着した。
その顔は、いつもの穏やかな執事の微笑みに戻っている。
さっきまで、人の命を奪っていたとは信じられないほどに。
「ですが……収穫はありましたよ」
彼はサイドテーブルの上に、一枚の羊皮紙を置いた。
先ほどの暗殺者が懐に持っていたものだろう。
血痕一つついていない状態で回収されている。
「これは……ルシウスの署名?」
「はい。特殊工作員への指令書のようです」
アルフォンスは眼鏡を光らせ、羊皮紙を広げた。
そこには、暗号化された文字で、私たちへの襲撃命令と、ある「重要地点」の防衛指令が記されていた。
「……『第零保管庫』。魔法省の地下深く、長官しか立ち入れない場所」
アルフォンスが指で文字をなぞる。
「以前、私が連行される際にルシウスに付着させた『追跡用の埃』……その反応も、ここを示しています」
「それって……」
「ビンゴです。……ルシウスが自身の本体、つまり『魔力核』を隠している場所です」
魔力核。
強大な魔術師が、自身の不死性を維持するために魂の一部を切り離して隠す、命の源。
ルシウスがあれほど強大で、何度倒しても蘇ると言われる所以だ。
「本体さえ叩けば、あの男もただの老人です。……急所を晒してくれましたね」
アルフォンスは羊皮紙を青い炎で燃やした。
彼の瞳に、冷酷な狩人の色が宿る。
「行きましょう、エルカ様。……心臓外科手術の時間です」
私たちは馬車を降り、魔法省の裏口――
一般職員用の通用門へと向かった。
正面突破は陽動(囮として放った私のビットたちが派手に暴れている)。
本命は、この静かな潜入ルートだ。
薄暗い通路。アルフォンスが先導し、私はその背中に守られるように進む。
彼は時折、指を鳴らして監視カメラや魔法センサーを無力化していく。
「……ねえ、アルフォンス」
「はい」
「さっきの人……躊躇なかったわね」
私は歩きながら、先ほどの暗殺者のことを思い出した。
顔色一つ変えず、髪を梳きながら人を殺した彼。
その手際の良さが、彼がかつて「掃除屋」と呼ばれていた事実を突きつけてくる。
「怖かったですか?」
彼が立ち止まり、振り返った。
薄暗がりの中で、アイスブルーの瞳が不安げに揺れている。
「……私が、殺人人形のように見えましたか?」
「ううん」
私は首を振って、彼に近づいた。
そして、彼の手を取り、自分の頬に押し当てた。
「かっこよかったわよ。……私のために、手を汚してくれたんでしょ?」
彼の手は温かい。
人を殺した手だけど、私を撫でる時はいつだって優しい。その矛盾が、私にはたまらなく愛おしい。
「……汚れてなどいません」
私は彼の手袋を外し、素手の指に口づけをした。
「あんたの手は、世界で一番綺麗よ。私が保証する」
「エルカ様……」
アルフォンスが目を見開き、やがて泣きそうな顔で微笑んだ。
「……貴女は、本当に……私の救いだ」
彼は私の腰を引き寄せ、深いキスをした。
血の味はしない。
紅茶と、蜜蝋の甘い味がした。
ふと、彼の体に触れた時、違和感があった。
熱い。
服の上からでも分かるほど、彼の体温が上がっている。
「アルフォンス? あんた、熱くない?」
「……お気になさらず。少々、魔力回路をフル稼働させているだけです」
彼は平然と言ったが、額には脂汗が滲んでいた。
塔での儀式、ケラウノスの迎撃、そして絶え間ない結界の維持。
私の魔力を供給されているとはいえ、彼の肉体にかかる負担は限界近いはずだ。
それに、あの「刻印」の影響も……。
「……無理しないでよ」
「無理などしておりません。……貴女を守るためなら、この身が燃え尽きようと本望です」
彼は強がりを言い、私の手を引いて歩き出した。
その背中が、以前よりも少しだけ小さく見えた。
無敵の執事。
でも、本当は傷だらけの人間。
(……待ってて。もうすぐだから)
私は心の中で誓った。
ルシウスを倒す前に、やらなきゃいけないことがある。 彼を縛る呪い。
あの胸の刻印を、私の手で消し去ること。
その時が近づいている予感がした。
「ここです。……地下への入り口」
アルフォンスが隠し扉を開けた。
冷たく、澱んだ空気が吹き上げてくる。
ルシウスの待つ、奈落の底。
私たちは互いの手を強く握りしめ、闇の中へと足を踏み入れた。
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