第80話「不潔な世界の終焉を願って」
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窓の外が、燃えていた。
朝日ではない。
昨夜、眠りに落ちる直前に見た、あの不吉な赤い光――魔法省の最終兵器『神の鉄槌』が、ついに本格的な起動を開始したのだ。
上空に展開された巨大な魔法陣から、断続的に降り注ぐ熱線。
それはまだ威嚇射撃の段階らしいけれど、塔を取り囲む霧の森を焼き払うには十分すぎた。
パチパチという音。焦げた木々の匂い。
そして、肌を刺すような大気の振動。
「おはようございます、エルカ様」
寝室の扉が開いた。アルフォンスが入ってくる。
いつもの完璧な燕尾服姿。
けれど、その手には銀のトレイではなく、一冊の古びた魔導書と、数本の魔力結晶が握られていた。
「……アルフォンス。外……」
「ええ。少々、騒がしくなってまいりました」
彼は窓に近づき、燃え盛る森を冷ややかな目で見下ろした。
「ルシウスも、随分と焦っているようです。なりふり構わず、この一帯を地図から消し去るつもりのようですね」
彼の声には、焦りも恐怖もない。
あるのは、散らかった部屋を見た時のような、
静かな呆れと軽蔑だけ。
「……逃げるの?」
私が尋ねると、彼は振り返り、美しく微笑んだ。
「いいえ。……『大掃除』に出かけるのです」
彼は私のベッドサイドに膝をついた。
「この塔は、もはや安全ではありません。ケラウノスの本照射が来れば、私の防御結界ごと蒸発します。ですから、ここを捨て、元凶である魔法省へ直接クレームを入れに行きます」
ここを、捨てる。短い間だったけれど、私たちを隠し、守ってくれた「第二の檻」。
最初の塔を追われ、傷ついた私たちが羽を休め、そして互いの愛を確かめ合った、束の間の聖域。
「……寂しい?」
「……少しね。せっかく綺麗にしたのに」
私が正直に答えると、アルフォンスは愛おしそうに私の手を取った。
「私もです。……ですが、場所など関係ありません。貴女がいる場所こそが、私にとっての『聖域』ですから」
彼は魔導書を開き、床に魔力結晶を並べ始めた。幾何学的な配置。
それは、ただの転移魔法の準備ではないようだった。もっと根源的で、重々しい儀式の気配。
「……何をする気?」
「引っ越しの準備です」
アルフォンスは手袋を外し、素手で結晶に触れた。
「この『忘れられた塔』には、数百年分の古代の魔力が蓄積されています。……これをただ捨てていくのは勿体ない。全て回収し、私たちの『旅の糧』とします」
彼は私の左足首――アンクレットに触れた。
そして、左手の薬指――不可視の指輪にも。
「エルカ様。……これから行うのは、『魂の固定』の儀式です」
彼の瞳が、アイスブルーの光を強く宿す。
「この塔の全魔力を、貴女のアンクレットと指輪に圧縮して封入します。……そして同時に、私と貴女の魂のパスを、物理的・魔術的に完全に融合させます」
「……融合?」
「はい。これまでのような『魔力の貸し借り』ではありません。……私の命を貴女の命に、貴女の魔力を私の魂に、不可分な状態で縫い合わせるのです」
彼は真剣な眼差しで私を見上げた。
「これを行えば、二度と離れることはできません。私が死ねば貴女も死に、貴女が傷つけば私も血を流す。……文字通り、一蓮托生の運命共同体となります」
それは、結婚なんて生ぬるい契約ではなかった。
個としての自分を捨て、二人で一つの「概念」になるということ。
もし私が拒めば、彼は一人で外へ出て、私を守るために死ぬつもりだろう。
「……怖いですか?」
アルフォンスが問いかける。
外では爆発音が響き、窓ガラスがガタガタと震えている。
世界が終わろうとしている。
でも、彼の手のひらは温かい。
「ううん」
私は首を横に振った。怖いわけがない。
だって、私はとっくに彼なしでは生きられない体にされているのだから。
「やるわ。……あんたの全部、私に頂戴」
「……!」
「その代わり、私の全部もあげる。骨の髄まで、あんたのものにしていいわよ」
私は彼の手を強く握り返した。
アルフォンスが、息を呑む。
そして、泣きそうなほど嬉しそうに、顔を歪めた。
「……あぁ、貴女という方は……」
彼は私の手に額を押し付けた。
「感謝します。……私の、慈悲深き女王」
「始めます」
アルフォンスが詠唱を開始する。
低い、地を這うようなバリトンボイス。
ブォン……ッ!
部屋の空気が変わった。
床に置かれた魔力結晶が砕け散り、光の粒子となって舞い上がる。
同時に、塔全体が唸りを上げた。
壁から、床から、天井から、青白い光が染み出してくる。
それは、この古びた塔が数百年かけて吸い込んできた大気の魔力だ。
「……う、あ……っ」
光の奔流が、私とアルフォンスの体に流れ込んでくる。熱い。
アンクレットが焼き切れるほど熱くなり、指輪が脈動する。
痛いけれど、不快じゃない。
私の体の中に、アルフォンスという存在が、質量を持って流れ込んでくる感覚。
「受け入れてください、エルカ様……!私の全てを……!」
「んっ……!ある、ふぉんす……ッ!」
私たちは抱き合った。物理的な距離が消滅する。
彼の心臓の音が、私の胸の中で鳴っている。
私の呼吸が、彼の肺を満たしている。
境界線が溶け、混ざり合い、一つに固まっていく。
ドクン!!
強烈な衝撃と共に、光が収束した。
塔の魔力が空っぽになり、全ての輝きが私たちの「鎖」と「指輪」に吸い込まれたのだ。
「……はぁ、はぁ、はぁ……」
儀式が終わった時、私たちはベッドの上で重なり合っていた。汗だくだった。
まるで、一晩中愛し合った後のような倦怠感と、満ち足りた高揚感。
「……成功、ですね」
アルフォンスが顔を上げた。
その瞳の色が変わっていた。
元のアイスブルーの中に、私のアメジスト色が混ざり合い、妖しく輝くオッドアイのような色彩を帯びている。そして私の瞳にも、彼の氷の色が宿っているはずだ。
「……うん。分かるわ」
私は彼の方に手を伸ばした。
触れなくても分かる。
彼が今、何を考え、何を感じているか。
彼の胸の奥にある、ルシウスへの激しい憎悪。
そして、それ以上に巨大な、私への愛と執着。
「あんた、本当に私のことしか考えてないのね」
「当然です。……貴女の脳内も、随分と私一色に染まっているようですが?」
彼は悪戯っぽく微笑み、私の鼻先をつついた。
バレた。
今の私は、どうやって彼に甘えようか、それしか考えていなかった。
ズズズズズ……。
再び地響き。窓の外が、カッと赤く染まる。
ケラウノスの次弾装填が完了しつつあるのだ。
「……行きましょうか、エルカ様」
アルフォンスは私を抱き上げ、床に立たせた。
そして、手早く私の着替え――旅装束ではなく、いつも通りの豪奢なドレスを用意し始めた。
「待って。逃げるなら、もっと動きやすい服の方が……」
「いいえ。これは『逃走』ではありません」
彼はドレスの紐を締め上げながら、鏡越しに私を見つめた。
「『凱旋』です。……新世界の女王となる貴女が、みすぼらしい格好で泥道を歩くなど許されません」
彼は仕上げに、私の髪にリボンを結んだ。
「それに、道がどれほど険しかろうと、貴女の足が汚れることはありません。……私が、貴女を抱いて歩きますから」
完璧な自信。
外では世界が滅びようとしているのに、彼はまるで舞踏会にエスコートするかのように優雅だ。
「……分かったわ。じゃあ、連れてって」
私は彼に向き直り、手を差し出した。
「あのゴミ溜めみたいな魔法省を掃除して……もっと綺麗な世界を作るのよ」
「御意」
アルフォンスは恭しく跪き、私の手を取った。
「あんたのいない綺麗な世界より、あんたと一緒のゴミ溜めの方がマシよ。……だから、どこまでも一緒に行ってあげる」
私の言葉に、アルフォンスが一瞬目を見開き、
そして破顔した。
それは今までで一番、人間らしく、そして幸せそうな笑顔だった。
「……ああ、やはり貴女は最高だ」
彼は立ち上がり、私を強く抱きしめた。
「参りましょう。……不潔な世界の終焉を願い、私たちだけの美しい楽園を築くために」
塔を出ると、そこは地獄だった。
かつて緑豊かだった霧の森は、赤い炎に包まれ、黒い灰が雪のように舞っている。
熱風が頬を叩く。
頭上には、巨大な赤い瞳が、
今にも瞬きをして全てを消し去ろうとしていた。
けれど、怖くはなかった。
私の左手はアルフォンスの手と繋がれ、魔力のパスが煌々と輝いている。
私たちが歩く場所だけ、炎が道を開けるように退いていく。
「……少し、大きな掃除になりますね」
アルフォンスが眼鏡を押し上げ、ニヤリと笑った。
その背後で、役目を終えた「忘れられた塔」が、炎に包まれて崩れ落ちていく。
束の間の隠れ家が燃えていく。
でも、振り返らなかった。私たちの家は、もう
「建物」ではなく、互いの腕の中なのだから。
私たちは灰の舞う道を進み始めた。目指すは北。
諸悪の根源、魔法省のある王都へ。
これは逃避行ではない。
世界で一番迷惑で、世界で一番愛し合う二人による、国崩しの行軍の始まりだった。
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