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第79話「眠れる塔の魔女」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

深夜二時。 世界が最も深く沈黙する刻。  

霧の森の奥深く、外界から隔絶された塔の最上階にある寝室は、完全なる静寂に包まれていた。


私は、最高級の魔鳥の羽毛で作られたキングサイズのベッドの中で、もう何度目か分からない寝返りを打っていた。


「……んぅ」


眠れない。

環境は完璧だ。枕の高さはミリ単位で私の首にフィットし、シーツは最高級のシルクで、まるで水面のように滑らかに肌に吸い付く。

室温も湿度も、私が最も快適に感じる数値に、

アルフォンスの魔法で固定されている。

それなのに、目が冴えてしまって仕方がない。


胸の奥がざわざわする。何かが足りない。  

私の安眠を保証する、決定的な「部品」が欠けているのだ。


(……喉が乾いたわけじゃないし)


私は天井を見上げた。

無意識のうちに、指先が自分の唇に触れる。

熱い。  

昼間の「毒味」という名の、あの濃厚な口づけ。  

アルフォンスの唾液と、彼の噛み砕いた食事が、

私の喉を通って胃に落ちていく感覚。

その余韻が、何時間経っても消えないのだ。  

まるで、体内に彼の熱が残響エコーのように木霊こだましていて、私の神経を内側から愛撫し続けているみたい。


左手の薬指にある「不可視の指輪」が、ドクンドクンと脈打ち、私の魔力を吸い上げている。  

その喪失感が、逆に快感となって脳を刺激する。

繋がっている。  

離れていても、私の命は彼に吸われている。


「……はぁ。アルフォンス」


ため息と共に、彼の名前を呼んでしまった。

その瞬間。音もなく、寝室の扉が開いた。


「……お呼びでしょうか、マイ・ロード」


暗闇の中に、銀色の髪が月光のようにぼんやりと浮かび上がる。  

アルフォンスだ。彼は夜着ナイトウェアではなく、いつもの完璧な燕尾服姿だった。

この男はいつ寝ているのだろうか。

あるいは、私が起きている限り、彼は執事として機能し続けているのかもしれない。


「……ごめんなさい。目が冴えちゃって」


「謝る必要はありません。……ですが、これは私の不手際ですね」


彼は音もなくベッドサイドに近づき、サイドランプを最小光量で灯した。  

薄暗いオレンジ色の光が、彼の憂いを含んだ、

しかしどこか妖艶な表情を照らし出す。

彼は手袋を外した素手で、私の熱っぽい頬に触れた。


「……少し熱いですね。日中の『栄養補給』が激しすぎたため、貴女の交感神経が高ぶったままになっているようです」


彼の冷たい指先が気持ちいい。

私は猫のように、その掌に頬を擦り寄せた。


「……あんたのせいよ。あんなに、何回もキスするから」


「否定はしません。……私の唾液に含まれる魔力成分が、貴女にとっては興奮剤ドラッグとして作用してしまった可能性があります」


さらりと恥ずかしいことを言う。  

やっぱり、あれは食事じゃなくて「興奮剤」だったのか。


「どうすればいいの?このままだと朝になっちゃう」


「ご安心ください。強制シャットダウン(入眠儀式)を行います」


彼は静かに燕尾服の上着を脱ぎ、椅子の背にかけた。そして、ベストのボタンを一つ外し、ネクタイを緩める。  

その仕草だけで、心臓が跳ねる。

執事モード解除。

そこにあるのは、ただの一人の「男」の姿だ。


「少し、失礼しますよ」


彼は掛け布団をめくり、そのままベッドの中に滑り込んできた。


「えっ!?ち、ちょっと!」


「10メートル以内とはいえ、ベッドの外では遠すぎます。……貴女の心拍数と呼吸を、私の生体リズムに同調シンクロさせて、強制的に睡眠レベルまで落とします」


彼は抵抗する私を背後から抱きすくめ、いわゆる「スプーン」の体勢になった。  

背中に密着する彼の広い胸板。  

硬い筋肉の感触と、トクン、トクン、という規則正しい心音が、私の背骨を通して直接伝わってくる。


「……近すぎない?あたるんだけど」


「これくらいでなければ、管理できません。さあ、力を抜いて」


彼の大きな手が、私のパジャマの中に滑り込んでくる。直接、肌に触れる指。  

いやらしい手つきではない。  

けれど、お腹を優しく撫でられ、みぞおちのあたりをゆっくりとさすられると、体の芯が溶けていくような感覚に襲われる。


「ここの筋肉が緊張しています。……リラックスしてください」


耳元で囁かれる彼の声。

その吐息がうなじにかかり、ぞくぞくする。


「深呼吸してください。私の匂いを吸い込んで」


言われるままに息を吸う。

蜜蝋とレモン、そして彼自身の雄の匂い。  

私の細胞の一つ一つが記憶している、絶対的な「安全」と「支配」の香り。


(……あ、これだ)


私は気づいた。

足りなかったのは、これだったのだ。  

完璧なベッドも、快適な室温も関係ない。  

私はもう、この男の体温と匂いに包まれていないと、安心して眠ることすらできなくなっていたのだ。昼間の食事と同じ。  

彼というフィルターを通さないと、休息さえ取れない体に改造されてしまっている。


「……アルフォンス、あったかい」


「ええ。貴女の魔力が私を燃やしていますから」


「……んぅ……」


私は彼の腕の中で、甘えるように身をよじった。もっと触れてほしい。  

もっと私を縛ってほしい。

そんな欲求が、言葉にならずに漏れる。


「……甘えん坊ですね、エルカ様」


彼は愛おしそうに呟くと、私の髪を指で梳き、首筋に唇を寄せた。  

チュッ。 優しいキス。 それがスイッチになった。


「いい子だ。何も考えなくていい。明日も、明後日も、私が全て管理します」


彼の言葉が、低周波のマッサージのように脳を揺らす。  

心地よい痺れ。

張り詰めていた神経が、ぷつりと切れる音がした。


「……ん……」


急激な睡魔が襲ってくる。

泥のように重く、蜂蜜のように甘い眠りの沼。  

彼に抱かれている安心感が、私を意識の底へと引きずり込んでいく。


「おやすみなさい、私の愛しいお姫様。……貴女が目覚めるその瞬間まで、私が夢の番人となりましょう」


薄れゆく意識の中で、彼が私をさらに強く抱きしめるのが分かった。  

まるで、私がどこにも行かないように。  

あるいは、世界から私を隠すように。  

世界で一番安全な「檻」の中で、私は完全に無防備な肉塊となり、彼に命を預けた。


エルカの寝息が、規則正しいリズムに変わったのを確認し、アルフォンスは静かに目を開けた。

腕の中には、完全に脱力した主人がいる。  

無防備な寝顔。少し開いた唇。  

その全てが、アルフォンスの所有欲を刺激し、

同時に満たしていく。


「……愛していますよ、エルカ様」


彼は彼女の髪に顔を埋め、その匂いを深く吸い込んだ。花の蜜のような、甘い香り。  

彼女は気づいていない。

自分がどれほど、彼に依存させられているか。  

食事、排泄、移動、そして睡眠。  

生命維持に必要な全ての行為に、アルフォンスという介助者がいなければ成立しないように、彼が一年かけて入念に「調律」してきたのだ。


「貴女はもう、私なしでは生きられない。……そして私も、貴女なしでは」


彼は自分の左胸に手を当てた。  

指輪から送られてくる彼女の魔力が、彼の枯渇した心臓を動かしている。  

この甘美な共依存。 誰にも邪魔はさせない。  

例え、世界が滅びようとも、この塔だけは――。


ピクリ。


アルフォンスの眉が動いた。

腕の中のエルカではない。

窓の外。遥か上空の大気が、不快な音を立てて軋み始めたのだ。


「……チッ」


彼は舌打ちをし、眠るエルカを起こさないように、そっと腕を解いた。  

名残惜しいが、彼女の眠りを守るためには、

やらなければならないことがある。  

ベッドから音もなく降り、窓際へ立つ。  

カーテンの隙間から、夜空を見上げる。


そこには、異様な光景が広がっていた。


星が、消えている。


塔の真上の空だけが、不自然なほど真っ黒に塗りつぶされていた。 雲ではない。  

超高高度に展開された、とてつもなく巨大な魔法陣が、星の光を遮断しているのだ。


「……魔法省の『神の鉄槌ケラウノス』ですか」


アルフォンスは冷静に呟いた。驚きはない。  

セドリックを消した時点で、ルシウスが本気で動き出すことは予測済みだった。  

だが、その手口があまりにも品がない。


「個人の捕獲に、戦略級魔法の照準ロックを向けるとは。……なりふり構っていられませんか、ルシウス」


彼が眼鏡の位置を直した瞬間。

遮断された黒い空の中心に、赤黒い光が灯った。  

それはまるで、天空に開いた「血走った目」のように、この塔を見下ろしている。


ジジジジジ……。


大気が帯電し、窓ガラスが微かに共鳴する。

起動アクティベーションが始まったのだ。  

おそらく、夜明けと共に、この森一帯を更地にするほどの閃光が降り注ぐだろう。


「……エルカ様を起こすべきか?」


アルフォンスは振り返り、ベッドの上の主人を見た。  

彼女は幸せそうな寝息を立てている。  

彼の匂いに包まれ、彼の腕の中だと思って、無防備に眠っている。  

その頬はバラ色に染まり、どんな夢を見ているのか、口元が緩んでいる。


「……いいえ。まだ早い」


彼はカーテンを閉めた。  

不吉な赤い光を遮断し、部屋の中を再び安らかな闇に戻す。


「今夜は、ゆっくりお休みください。……明日になれば、嫌でも世界は終わる」


アルフォンスはベッドに戻り、再びエルカを抱きしめた。  

今、叩き起こして逃げることもできる。

だが、彼はそうしなかった。  

逃げたところで、この衛星軌道上の「目」からは逃れられない。  

それに、彼女の安眠を妨害することこそが、

彼にとっては最大の罪なのだ。


ならば、迎撃するしかない。

明日、この世界を「掃除」する。  

そのためのエネルギーを蓄えるためにも、今夜は彼女を深く、甘く眠らせておく必要があった。


「おやすみなさい。……最後の、静かな夜を」


彼はエルカの額に、祈るようにキスをした。  

その左手の薬指――エルカと繋がった指輪が、

来るべき決戦を予感するように、暗闇の中で青白く点滅していた。外では世界が終わろうとしている。  

けれど、この布団の中だけは、とろけるような熱と愛に満ちていた。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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