第79話「眠れる塔の魔女」
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深夜二時。 世界が最も深く沈黙する刻。
霧の森の奥深く、外界から隔絶された塔の最上階にある寝室は、完全なる静寂に包まれていた。
私は、最高級の魔鳥の羽毛で作られたキングサイズのベッドの中で、もう何度目か分からない寝返りを打っていた。
「……んぅ」
眠れない。
環境は完璧だ。枕の高さはミリ単位で私の首にフィットし、シーツは最高級のシルクで、まるで水面のように滑らかに肌に吸い付く。
室温も湿度も、私が最も快適に感じる数値に、
アルフォンスの魔法で固定されている。
それなのに、目が冴えてしまって仕方がない。
胸の奥がざわざわする。何かが足りない。
私の安眠を保証する、決定的な「部品」が欠けているのだ。
(……喉が乾いたわけじゃないし)
私は天井を見上げた。
無意識のうちに、指先が自分の唇に触れる。
熱い。
昼間の「毒味」という名の、あの濃厚な口づけ。
アルフォンスの唾液と、彼の噛み砕いた食事が、
私の喉を通って胃に落ちていく感覚。
その余韻が、何時間経っても消えないのだ。
まるで、体内に彼の熱が残響のように木霊していて、私の神経を内側から愛撫し続けているみたい。
左手の薬指にある「不可視の指輪」が、ドクンドクンと脈打ち、私の魔力を吸い上げている。
その喪失感が、逆に快感となって脳を刺激する。
繋がっている。
離れていても、私の命は彼に吸われている。
「……はぁ。アルフォンス」
ため息と共に、彼の名前を呼んでしまった。
その瞬間。音もなく、寝室の扉が開いた。
「……お呼びでしょうか、マイ・ロード」
暗闇の中に、銀色の髪が月光のようにぼんやりと浮かび上がる。
アルフォンスだ。彼は夜着ではなく、いつもの完璧な燕尾服姿だった。
この男はいつ寝ているのだろうか。
あるいは、私が起きている限り、彼は執事として機能し続けているのかもしれない。
「……ごめんなさい。目が冴えちゃって」
「謝る必要はありません。……ですが、これは私の不手際ですね」
彼は音もなくベッドサイドに近づき、サイドランプを最小光量で灯した。
薄暗いオレンジ色の光が、彼の憂いを含んだ、
しかしどこか妖艶な表情を照らし出す。
彼は手袋を外した素手で、私の熱っぽい頬に触れた。
「……少し熱いですね。日中の『栄養補給』が激しすぎたため、貴女の交感神経が高ぶったままになっているようです」
彼の冷たい指先が気持ちいい。
私は猫のように、その掌に頬を擦り寄せた。
「……あんたのせいよ。あんなに、何回もキスするから」
「否定はしません。……私の唾液に含まれる魔力成分が、貴女にとっては興奮剤として作用してしまった可能性があります」
さらりと恥ずかしいことを言う。
やっぱり、あれは食事じゃなくて「興奮剤」だったのか。
「どうすればいいの?このままだと朝になっちゃう」
「ご安心ください。強制シャットダウン(入眠儀式)を行います」
彼は静かに燕尾服の上着を脱ぎ、椅子の背にかけた。そして、ベストのボタンを一つ外し、ネクタイを緩める。
その仕草だけで、心臓が跳ねる。
執事モード解除。
そこにあるのは、ただの一人の「男」の姿だ。
「少し、失礼しますよ」
彼は掛け布団をめくり、そのままベッドの中に滑り込んできた。
「えっ!?ち、ちょっと!」
「10メートル以内とはいえ、ベッドの外では遠すぎます。……貴女の心拍数と呼吸を、私の生体リズムに同調させて、強制的に睡眠レベルまで落とします」
彼は抵抗する私を背後から抱きすくめ、いわゆる「スプーン」の体勢になった。
背中に密着する彼の広い胸板。
硬い筋肉の感触と、トクン、トクン、という規則正しい心音が、私の背骨を通して直接伝わってくる。
「……近すぎない?あたるんだけど」
「これくらいでなければ、管理できません。さあ、力を抜いて」
彼の大きな手が、私のパジャマの中に滑り込んでくる。直接、肌に触れる指。
いやらしい手つきではない。
けれど、お腹を優しく撫でられ、みぞおちのあたりをゆっくりとさすられると、体の芯が溶けていくような感覚に襲われる。
「ここの筋肉が緊張しています。……リラックスしてください」
耳元で囁かれる彼の声。
その吐息がうなじにかかり、ぞくぞくする。
「深呼吸してください。私の匂いを吸い込んで」
言われるままに息を吸う。
蜜蝋とレモン、そして彼自身の雄の匂い。
私の細胞の一つ一つが記憶している、絶対的な「安全」と「支配」の香り。
(……あ、これだ)
私は気づいた。
足りなかったのは、これだったのだ。
完璧なベッドも、快適な室温も関係ない。
私はもう、この男の体温と匂いに包まれていないと、安心して眠ることすらできなくなっていたのだ。昼間の食事と同じ。
彼というフィルターを通さないと、休息さえ取れない体に改造されてしまっている。
「……アルフォンス、あったかい」
「ええ。貴女の魔力が私を燃やしていますから」
「……んぅ……」
私は彼の腕の中で、甘えるように身をよじった。もっと触れてほしい。
もっと私を縛ってほしい。
そんな欲求が、言葉にならずに漏れる。
「……甘えん坊ですね、エルカ様」
彼は愛おしそうに呟くと、私の髪を指で梳き、首筋に唇を寄せた。
チュッ。 優しいキス。 それがスイッチになった。
「いい子だ。何も考えなくていい。明日も、明後日も、私が全て管理します」
彼の言葉が、低周波のマッサージのように脳を揺らす。
心地よい痺れ。
張り詰めていた神経が、ぷつりと切れる音がした。
「……ん……」
急激な睡魔が襲ってくる。
泥のように重く、蜂蜜のように甘い眠りの沼。
彼に抱かれている安心感が、私を意識の底へと引きずり込んでいく。
「おやすみなさい、私の愛しいお姫様。……貴女が目覚めるその瞬間まで、私が夢の番人となりましょう」
薄れゆく意識の中で、彼が私をさらに強く抱きしめるのが分かった。
まるで、私がどこにも行かないように。
あるいは、世界から私を隠すように。
世界で一番安全な「檻」の中で、私は完全に無防備な肉塊となり、彼に命を預けた。
エルカの寝息が、規則正しいリズムに変わったのを確認し、アルフォンスは静かに目を開けた。
腕の中には、完全に脱力した主人がいる。
無防備な寝顔。少し開いた唇。
その全てが、アルフォンスの所有欲を刺激し、
同時に満たしていく。
「……愛していますよ、エルカ様」
彼は彼女の髪に顔を埋め、その匂いを深く吸い込んだ。花の蜜のような、甘い香り。
彼女は気づいていない。
自分がどれほど、彼に依存させられているか。
食事、排泄、移動、そして睡眠。
生命維持に必要な全ての行為に、アルフォンスという介助者がいなければ成立しないように、彼が一年かけて入念に「調律」してきたのだ。
「貴女はもう、私なしでは生きられない。……そして私も、貴女なしでは」
彼は自分の左胸に手を当てた。
指輪から送られてくる彼女の魔力が、彼の枯渇した心臓を動かしている。
この甘美な共依存。 誰にも邪魔はさせない。
例え、世界が滅びようとも、この塔だけは――。
ピクリ。
アルフォンスの眉が動いた。
腕の中のエルカではない。
窓の外。遥か上空の大気が、不快な音を立てて軋み始めたのだ。
「……チッ」
彼は舌打ちをし、眠るエルカを起こさないように、そっと腕を解いた。
名残惜しいが、彼女の眠りを守るためには、
やらなければならないことがある。
ベッドから音もなく降り、窓際へ立つ。
カーテンの隙間から、夜空を見上げる。
そこには、異様な光景が広がっていた。
星が、消えている。
塔の真上の空だけが、不自然なほど真っ黒に塗りつぶされていた。 雲ではない。
超高高度に展開された、とてつもなく巨大な魔法陣が、星の光を遮断しているのだ。
「……魔法省の『神の鉄槌』ですか」
アルフォンスは冷静に呟いた。驚きはない。
セドリックを消した時点で、ルシウスが本気で動き出すことは予測済みだった。
だが、その手口があまりにも品がない。
「個人の捕獲に、戦略級魔法の照準を向けるとは。……なりふり構っていられませんか、ルシウス」
彼が眼鏡の位置を直した瞬間。
遮断された黒い空の中心に、赤黒い光が灯った。
それはまるで、天空に開いた「血走った目」のように、この塔を見下ろしている。
ジジジジジ……。
大気が帯電し、窓ガラスが微かに共鳴する。
起動が始まったのだ。
おそらく、夜明けと共に、この森一帯を更地にするほどの閃光が降り注ぐだろう。
「……エルカ様を起こすべきか?」
アルフォンスは振り返り、ベッドの上の主人を見た。
彼女は幸せそうな寝息を立てている。
彼の匂いに包まれ、彼の腕の中だと思って、無防備に眠っている。
その頬はバラ色に染まり、どんな夢を見ているのか、口元が緩んでいる。
「……いいえ。まだ早い」
彼はカーテンを閉めた。
不吉な赤い光を遮断し、部屋の中を再び安らかな闇に戻す。
「今夜は、ゆっくりお休みください。……明日になれば、嫌でも世界は終わる」
アルフォンスはベッドに戻り、再びエルカを抱きしめた。
今、叩き起こして逃げることもできる。
だが、彼はそうしなかった。
逃げたところで、この衛星軌道上の「目」からは逃れられない。
それに、彼女の安眠を妨害することこそが、
彼にとっては最大の罪なのだ。
ならば、迎撃するしかない。
明日、この世界を「掃除」する。
そのためのエネルギーを蓄えるためにも、今夜は彼女を深く、甘く眠らせておく必要があった。
「おやすみなさい。……最後の、静かな夜を」
彼はエルカの額に、祈るようにキスをした。
その左手の薬指――エルカと繋がった指輪が、
来るべき決戦を予感するように、暗闇の中で青白く点滅していた。外では世界が終わろうとしている。
けれど、この布団の中だけは、とろけるような熱と愛に満ちていた。
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