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第78話「毒味という名の「あーん」」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

深い霧に閉ざされた「忘れられた塔」の朝は、

甘美なスープの香りで始まった。  

キッチンから漂う、野菜と肉がじっくりと煮込まれた匂い。  

それに混じって、焼きたてのパンの香ばしさと、

淹れたてのハーブティーの香りが鼻腔をくすぐる。


「……んぅ」


私はベッド(これもアルフォンスが魔物の羽毛で作り直した最高級品だ)から起き上がり、大きく伸びをした。  

体中に、昨夜の「消毒」の痕跡が残っている。  

首筋、二の腕、胸元。 鏡を見なくても分かる。

そこには彼がつけた無数の赤い花が咲いているはずだ。


左手薬指の「不可視の指輪」が、微かに熱を帯びている。  

私の魔力が彼に吸い出され、彼を生かす糧となっている感覚。  

体が少し重いけれど、それは不快な重さではなかった。  

彼と繋がっている証拠だから。


「エルカ様、お目覚めですか」


タイミングを見計らったように、寝室の扉が開いた。  

そこには、完璧に整えられた燕尾服姿のアルフォンスが立っていた。  

昨夜の獣のような男はどこへやら。  

爽やかな朝の光を背負った彼は、まさに「完璧な執事」そのものだった。


「おはよう、アルフォンス」


「おはようございます、マイ・ロード。顔色がよろしいようで安心いたしました」


彼はベッドサイドに近づき、私の額に恭しく口づけを落とした。


「朝食の準備が整っております。本日は、森で採取した香草と猪肉のポトフです」


「わぁ、美味しそう。お腹ペコペコよ」


私はベッドから降りようとした。すると、チャリ、と足首の鎖が鳴った。  

半径10メートルの移動制限。  

私は苦笑しながら、彼に手を伸ばした。


「……連れてってくれるんでしょ?」


「勿論です。貴女の足が床の冷たさに触れるなど、あってはなりません」


彼は私を軽々と抱き上げ、ダイニングルームへと運んでいった。



ダイニングテーブルには、湯気を立てるポトフと、黄金色のパン、そして彩り豊かなサラダが並べられていた。どれも絶品に見える。  

昨夜の激しい運動(?)のせいで、私の胃袋は限界を訴えていた。


アルフォンスが私を椅子に座らせ、ナプキンを首にかけてくれる。  

至れり尽くせりだ。


「いただきます」


私は早速、スプーンを手に取り、ポトフをすくおうとした。しかし。


ガシッ。


私の手首が、アルフォンスの白い手袋に掴まれた。


「……え?」


「お待ちください、エルカ様」


アルフォンスの表情が、真剣そのものだった。  

まるで、スープの中に猛毒の魔物でも潜んでいるかのような緊迫感。


「な、なに?熱いの?」


「いいえ。『毒味』がまだです」


毒味。私は瞬きをした。


「……は?毒味って、これ作ったのあんたでしょ?」


「はい。ですが、ここは未知の植生を持つ森の中です。食材に微量な毒素が含まれていないとも限りません。あるいは、調理中に空気中の雑菌が混入した可能性もゼロではない」


彼は大真面目な顔で言った。雑菌て。

あんたの結界の中で、菌なんて生きられるわけないじゃない。


「それに……昨日のセドリックの件があります。魔法省の放った極小の使い魔が、スープに毒を垂らした可能性も考慮すべきです」


「考えすぎよ。……早く食べたいんだけど」


「いけません。万が一、貴女の美しい内臓が傷ついたら……私は死んでも死にきれません」


彼は私の手からスプーンを取り上げた。  

そして、ポトフを一口すくい、自分の口へと運んだ。


パクッ。


彼は優雅な動作でスープを含み、目を閉じて味わった。  

喉仏がゴクリと上下する。  

その仕草だけで、妙に色っぽい。


「…………ふむ」


彼は目を開き、小さく頷いた。


「安全です。非常に美味しく仕上がっています」


「よかった。じゃあ返して……」


「いいえ。全ての具材、全てのスープの一滴まで、私が確認します」


彼はスプーンを私に返さなかった。  

代わりに、再びスープをすくい、フーフーと息を吹きかけて冷ました後、私の口元へと差し出した。


「はい、どうぞ。……あーん」


「……え」


「口を開けてください、エルカ様。安全が確認されたものだけを、貴女の体に入れたいのです」


彼はニッコリと微笑んだ。 拒否権はない。

その笑顔は「食べるまで動きません」と告げている。


「……今更ながら恥ずかしいんだけど」


「誰も見ていませんよ。私と貴女だけです」


私は観念して、小さく口を開けた。


「……あーん」


パクッ。

口の中に、野菜の甘みと肉の旨味が広がる。

美味しい。  

悔しいけれど、彼がフーフーしてくれたおかげで、温度も完璧だ。


「……美味しい?」


「……うん。美味しい」


「それは何よりです。……では、次はお肉を」


アルフォンスはナイフとフォークを使い、

肉を一口大に切り分けた。  

そして、それを自分の口に入れた。


モグモグ……ゴクリ。


「……よし。筋もなく、柔らかい。毒素反応なし」


彼は再び肉を切り、今度は私に差し出す。


「はい、あーん」


「……んぐ」


これを繰り返すの? 全部?

私は赤面しながら、彼の手から肉を食べた。  

確かに楽だ。自分で手を動かさなくていいし、

火傷もしない。  

まるで、雛鳥が親鳥から餌をもらっているみたい。


「……ねえ、アルフォンス。自分で食べるわよ。これじゃ日が暮れちゃう」


「急ぐ必要はありません。時間は無限にあります」


彼は涼しい顔でパンをちぎった。  

そして、あろうことか、そのパンを自分の口に含んだ。半分だけ。  

残りの半分が、彼の唇から突き出している。


「……は?」


彼はそのまま、私に顔を近づけてきた。


「ん……(どうぞ)」


「ちょ、ちょっと!口移し!?」


「手が塞がっていますので」


塞がってないでしょ!左手空いてるじゃない!

でも、彼の顔はどんどん近づいてくる。

アイスブルーの瞳が、至近距離で私を捕らえて離さない。


「……毒味が、必要ですから」


「パンに毒なんて……!」


「私の唾液には、強力な解毒作用と抗菌作用のある魔力が含まれています。……これを混ぜることで、貴女の体内をコーティングし、あらゆる病魔から守ることができるのです」


滅茶苦茶な理屈だ。でも、彼の瞳は本気だった。  

彼は本気で、自分の体液で私の中を「消毒」しようとしているのだ。


「……んっ」


逃げられない。

私は諦めて、彼が口にくわえたパンの端を齧った。


その瞬間。

アルフォンスがさらに顔を寄せ、パンごと私の唇を塞いだ。


「んぐっ!?」


パンが押し込まれる。

それと同時に、彼の舌が侵入してきた。  

口の中に、パンの香ばしさと、彼の唾液の味が混ざり合う。  

ねっとりとした舌が、私の舌に絡みつき、咀嚼したパンを喉の奥へと流し込んでいく。


「ん……ぁ……っ、んむ……」


これは食事じゃない。

濃厚なキスだ。いや、それ以上だ。  

彼が噛み砕き、彼の唾液でふやかされた食事が、

私の食道を通って胃に落ちていく。  

彼の「一部」が、私の栄養になっていく感覚。


「……ぷはっ」


ようやく唇が離れた時、パンは跡形もなく消えていた。  

私の口の周りは、彼の唾液で濡れて光っている。


「よくできました。いい飲みっぷりです」


アルフォンスは親指で私の唇を拭い、その指を舐めた。その目はとろりと濁り、恍惚としていた。


「貴女の胃袋が、私の与えたもので満たされていく……。ああ、なんて素晴らしいんでしょう」


「……やっぱり変態」


「最高の褒め言葉です」


彼は次に、サラダのプチトマトを口に含んだ。

そしてまた、顔を寄せてくる。


「さあ、ビタミンも摂らなくては。口を開けてください、私の可愛いお人形」


「……もう、バカ……」


私は抵抗するのをやめた。

むしろ、自分から口を開き、彼の唇を求めた。    

悔しいけれど、美味しいのだ。  

彼が毒味をして、彼の魔力(唾液)が混ざった食事は、どんな高級料理よりも甘く、私の体に染み渡る。 普通の食事じゃ、もう満足できない。  

彼のエキスが入っていないと、味がしない体にされてしまったのだ。


「んっ……ちゅ……ぁ……」


トマトの酸味と、彼の舌の甘さが弾ける。  

食事はいつしか、終わりのない口愛へと変わっていた。  

スープが冷めても、パンが乾燥しても、私たちは気にならなかった。  

互いの唇を貪り合い、互いの命を啜り合う。  

それが、私たちにとっての「食事」であり「生存本能」だった。


「……ごちそうさまでした」


一時間後。ようやく食事が終わった。  

皿は空っぽだが、私の口は腫れ上がり、体は熱く火照っていた。  

満腹感と共に、脳が痺れるような充足感がある。


「お粗末さまでした」


アルフォンスは満足げにナプキンで口を拭いた。  

彼もまた、私を「食べた」かのように、精気に満ち溢れた顔をしている。


「……これ、毎食やるの?」


「当然です。貴女の健康管理は私の最重要任務ですから」


彼は食器を片付けながら、鼻歌交じりに言った。


「朝も、昼も、夜も。……おやつの時間も。貴女が口にする全てのものは、私の検閲キスを通過していただきます」


「……太りそう」


「構いません。少しふっくらされた方が、抱き心地が良いですから」


彼は私を再び抱き上げ、リビングのソファへと運んだ。  

足首のアンクレットがチャリと鳴る。  

10メートルの檻の中で、私は完全に餌付けされたペットだった。  

でも、この檻の中なら、外の毒(悪意)に触れることなく、彼の愛だけでお腹いっぱいになれる。それは、堕落した私にとって、何よりの幸福だった。


――しかし。  

私たちの甘い時間は、外界の無慈悲な歯車によって、刻一刻と削り取られていた。


塔の最上階。

窓の外、遥か上空の空の色が、不気味に変色し始めていた。  

青い空ではない。  

どす黒い雲が渦巻き、その中心で、禍々しい赤い光が明滅している。


チリチリ……。

大気が悲鳴を上げるような、微かなノイズ。

それは雷ではない。  

遥か成層圏に展開された、魔法省の最終兵器――戦略級広域殲滅魔法『神の鉄槌ケラウノス》』の照準合わせの光だった。


毒味に夢中になっていた私たちは、まだ気づかない。  

頭上の空が、この「聖域」ごと私たちを消し去るための、巨大な処刑台に変わろうとしていることに。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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