第78話「毒味という名の「あーん」」
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深い霧に閉ざされた「忘れられた塔」の朝は、
甘美なスープの香りで始まった。
キッチンから漂う、野菜と肉がじっくりと煮込まれた匂い。
それに混じって、焼きたてのパンの香ばしさと、
淹れたてのハーブティーの香りが鼻腔をくすぐる。
「……んぅ」
私はベッド(これもアルフォンスが魔物の羽毛で作り直した最高級品だ)から起き上がり、大きく伸びをした。
体中に、昨夜の「消毒」の痕跡が残っている。
首筋、二の腕、胸元。 鏡を見なくても分かる。
そこには彼がつけた無数の赤い花が咲いているはずだ。
左手薬指の「不可視の指輪」が、微かに熱を帯びている。
私の魔力が彼に吸い出され、彼を生かす糧となっている感覚。
体が少し重いけれど、それは不快な重さではなかった。
彼と繋がっている証拠だから。
「エルカ様、お目覚めですか」
タイミングを見計らったように、寝室の扉が開いた。
そこには、完璧に整えられた燕尾服姿のアルフォンスが立っていた。
昨夜の獣のような男はどこへやら。
爽やかな朝の光を背負った彼は、まさに「完璧な執事」そのものだった。
「おはよう、アルフォンス」
「おはようございます、マイ・ロード。顔色がよろしいようで安心いたしました」
彼はベッドサイドに近づき、私の額に恭しく口づけを落とした。
「朝食の準備が整っております。本日は、森で採取した香草と猪肉のポトフです」
「わぁ、美味しそう。お腹ペコペコよ」
私はベッドから降りようとした。すると、チャリ、と足首の鎖が鳴った。
半径10メートルの移動制限。
私は苦笑しながら、彼に手を伸ばした。
「……連れてってくれるんでしょ?」
「勿論です。貴女の足が床の冷たさに触れるなど、あってはなりません」
彼は私を軽々と抱き上げ、ダイニングルームへと運んでいった。
ダイニングテーブルには、湯気を立てるポトフと、黄金色のパン、そして彩り豊かなサラダが並べられていた。どれも絶品に見える。
昨夜の激しい運動(?)のせいで、私の胃袋は限界を訴えていた。
アルフォンスが私を椅子に座らせ、ナプキンを首にかけてくれる。
至れり尽くせりだ。
「いただきます」
私は早速、スプーンを手に取り、ポトフをすくおうとした。しかし。
ガシッ。
私の手首が、アルフォンスの白い手袋に掴まれた。
「……え?」
「お待ちください、エルカ様」
アルフォンスの表情が、真剣そのものだった。
まるで、スープの中に猛毒の魔物でも潜んでいるかのような緊迫感。
「な、なに?熱いの?」
「いいえ。『毒味』がまだです」
毒味。私は瞬きをした。
「……は?毒味って、これ作ったのあんたでしょ?」
「はい。ですが、ここは未知の植生を持つ森の中です。食材に微量な毒素が含まれていないとも限りません。あるいは、調理中に空気中の雑菌が混入した可能性もゼロではない」
彼は大真面目な顔で言った。雑菌て。
あんたの結界の中で、菌なんて生きられるわけないじゃない。
「それに……昨日のセドリックの件があります。魔法省の放った極小の使い魔が、スープに毒を垂らした可能性も考慮すべきです」
「考えすぎよ。……早く食べたいんだけど」
「いけません。万が一、貴女の美しい内臓が傷ついたら……私は死んでも死にきれません」
彼は私の手からスプーンを取り上げた。
そして、ポトフを一口すくい、自分の口へと運んだ。
パクッ。
彼は優雅な動作でスープを含み、目を閉じて味わった。
喉仏がゴクリと上下する。
その仕草だけで、妙に色っぽい。
「…………ふむ」
彼は目を開き、小さく頷いた。
「安全です。非常に美味しく仕上がっています」
「よかった。じゃあ返して……」
「いいえ。全ての具材、全てのスープの一滴まで、私が確認します」
彼はスプーンを私に返さなかった。
代わりに、再びスープをすくい、フーフーと息を吹きかけて冷ました後、私の口元へと差し出した。
「はい、どうぞ。……あーん」
「……え」
「口を開けてください、エルカ様。安全が確認されたものだけを、貴女の体に入れたいのです」
彼はニッコリと微笑んだ。 拒否権はない。
その笑顔は「食べるまで動きません」と告げている。
「……今更ながら恥ずかしいんだけど」
「誰も見ていませんよ。私と貴女だけです」
私は観念して、小さく口を開けた。
「……あーん」
パクッ。
口の中に、野菜の甘みと肉の旨味が広がる。
美味しい。
悔しいけれど、彼がフーフーしてくれたおかげで、温度も完璧だ。
「……美味しい?」
「……うん。美味しい」
「それは何よりです。……では、次はお肉を」
アルフォンスはナイフとフォークを使い、
肉を一口大に切り分けた。
そして、それを自分の口に入れた。
モグモグ……ゴクリ。
「……よし。筋もなく、柔らかい。毒素反応なし」
彼は再び肉を切り、今度は私に差し出す。
「はい、あーん」
「……んぐ」
これを繰り返すの? 全部?
私は赤面しながら、彼の手から肉を食べた。
確かに楽だ。自分で手を動かさなくていいし、
火傷もしない。
まるで、雛鳥が親鳥から餌をもらっているみたい。
「……ねえ、アルフォンス。自分で食べるわよ。これじゃ日が暮れちゃう」
「急ぐ必要はありません。時間は無限にあります」
彼は涼しい顔でパンをちぎった。
そして、あろうことか、そのパンを自分の口に含んだ。半分だけ。
残りの半分が、彼の唇から突き出している。
「……は?」
彼はそのまま、私に顔を近づけてきた。
「ん……(どうぞ)」
「ちょ、ちょっと!口移し!?」
「手が塞がっていますので」
塞がってないでしょ!左手空いてるじゃない!
でも、彼の顔はどんどん近づいてくる。
アイスブルーの瞳が、至近距離で私を捕らえて離さない。
「……毒味が、必要ですから」
「パンに毒なんて……!」
「私の唾液には、強力な解毒作用と抗菌作用のある魔力が含まれています。……これを混ぜることで、貴女の体内をコーティングし、あらゆる病魔から守ることができるのです」
滅茶苦茶な理屈だ。でも、彼の瞳は本気だった。
彼は本気で、自分の体液で私の中を「消毒」しようとしているのだ。
「……んっ」
逃げられない。
私は諦めて、彼が口にくわえたパンの端を齧った。
その瞬間。
アルフォンスがさらに顔を寄せ、パンごと私の唇を塞いだ。
「んぐっ!?」
パンが押し込まれる。
それと同時に、彼の舌が侵入してきた。
口の中に、パンの香ばしさと、彼の唾液の味が混ざり合う。
ねっとりとした舌が、私の舌に絡みつき、咀嚼したパンを喉の奥へと流し込んでいく。
「ん……ぁ……っ、んむ……」
これは食事じゃない。
濃厚なキスだ。いや、それ以上だ。
彼が噛み砕き、彼の唾液でふやかされた食事が、
私の食道を通って胃に落ちていく。
彼の「一部」が、私の栄養になっていく感覚。
「……ぷはっ」
ようやく唇が離れた時、パンは跡形もなく消えていた。
私の口の周りは、彼の唾液で濡れて光っている。
「よくできました。いい飲みっぷりです」
アルフォンスは親指で私の唇を拭い、その指を舐めた。その目はとろりと濁り、恍惚としていた。
「貴女の胃袋が、私の与えたもので満たされていく……。ああ、なんて素晴らしいんでしょう」
「……やっぱり変態」
「最高の褒め言葉です」
彼は次に、サラダのプチトマトを口に含んだ。
そしてまた、顔を寄せてくる。
「さあ、ビタミンも摂らなくては。口を開けてください、私の可愛いお人形」
「……もう、バカ……」
私は抵抗するのをやめた。
むしろ、自分から口を開き、彼の唇を求めた。
悔しいけれど、美味しいのだ。
彼が毒味をして、彼の魔力(唾液)が混ざった食事は、どんな高級料理よりも甘く、私の体に染み渡る。 普通の食事じゃ、もう満足できない。
彼のエキスが入っていないと、味がしない体にされてしまったのだ。
「んっ……ちゅ……ぁ……」
トマトの酸味と、彼の舌の甘さが弾ける。
食事はいつしか、終わりのない口愛へと変わっていた。
スープが冷めても、パンが乾燥しても、私たちは気にならなかった。
互いの唇を貪り合い、互いの命を啜り合う。
それが、私たちにとっての「食事」であり「生存本能」だった。
「……ごちそうさまでした」
一時間後。ようやく食事が終わった。
皿は空っぽだが、私の口は腫れ上がり、体は熱く火照っていた。
満腹感と共に、脳が痺れるような充足感がある。
「お粗末さまでした」
アルフォンスは満足げにナプキンで口を拭いた。
彼もまた、私を「食べた」かのように、精気に満ち溢れた顔をしている。
「……これ、毎食やるの?」
「当然です。貴女の健康管理は私の最重要任務ですから」
彼は食器を片付けながら、鼻歌交じりに言った。
「朝も、昼も、夜も。……おやつの時間も。貴女が口にする全てのものは、私の検閲を通過していただきます」
「……太りそう」
「構いません。少しふっくらされた方が、抱き心地が良いですから」
彼は私を再び抱き上げ、リビングのソファへと運んだ。
足首のアンクレットがチャリと鳴る。
10メートルの檻の中で、私は完全に餌付けされたペットだった。
でも、この檻の中なら、外の毒(悪意)に触れることなく、彼の愛だけでお腹いっぱいになれる。それは、堕落した私にとって、何よりの幸福だった。
――しかし。
私たちの甘い時間は、外界の無慈悲な歯車によって、刻一刻と削り取られていた。
塔の最上階。
窓の外、遥か上空の空の色が、不気味に変色し始めていた。
青い空ではない。
どす黒い雲が渦巻き、その中心で、禍々しい赤い光が明滅している。
チリチリ……。
大気が悲鳴を上げるような、微かなノイズ。
それは雷ではない。
遥か成層圏に展開された、魔法省の最終兵器――戦略級広域殲滅魔法『神の鉄槌》』の照準合わせの光だった。
毒味に夢中になっていた私たちは、まだ気づかない。
頭上の空が、この「聖域」ごと私たちを消し去るための、巨大な処刑台に変わろうとしていることに。
読んでくださってありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
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