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第77話「嫉妬は蜜蝋の香りを変える」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

重厚な扉が閉まり、錠が落ちる音が、やけに大きく響いた。カチャリ。  

それは、外敵を締め出す音であると同時に、私たちが再び「二人だけの世界」に閉じ込められた合図でもあった。


塔の中は、相変わらず静寂と清潔な空気に満ちていた。  

レモンと蜜蝋の香り。  

いつもの安らぎの匂いのはずなのに、今の私には、その空気がどこか張り詰めているように感じられた。


「……アルフォンス?」


私は、前を歩く執事の背中に声をかけた。

彼は無言だった。  

セドリックを「ゴミ捨て場」へ廃棄し、凱旋した直後だというのに、彼の背中からは勝利の余韻など微塵も感じられない。  

代わりに立ち昇っているのは、黒いタールのような、粘着質な感情の揺らぎ。


「お風呂、沸かすんでしょう?着替え、用意するわね」


私が努めて明るく振る舞い、寝室へ向かおうとした時だった。


「……いいえ」


低く、抑揚のない声。

次の瞬間、私の腕が強い力で引かれた。


「きゃっ……!?」


世界が反転する。背中に冷たい石壁の感触。  

目の前には、見下ろすようなアルフォンスの顔があった。


「あ、アルフォンス……?」


「お風呂では、落ちません」


彼は私の顔の横に手をつき、逃げ場を塞いだ。  

けれど、そこにときめきはない。

あるのは、氷点下の瞳の奥で燃え盛る、青白い嫉妬の炎だけ。


「あの男の視線……。あの不潔で、欲望に濁った眼球が、貴女の姿を捉えた。網膜に焼き付けた。……それだけで、私は吐き気がするほど不愉快なのです」


彼は苦しげに顔を歪めた。  

セドリックが私に向けた「可哀想な被害者」を見る目。  

そして「助けてあげる」という独善的な言葉。  

それらが、潔癖症の彼にとっては、泥水をかけられたのと同じくらい耐え難い「汚染」だったのだ。


「水で洗った程度では、あの視線の感触は消えません。もっと深く、繊維の奥まで染み込ませて『上書き』しなければ」


「上書きって……何を……」


アルフォンスは懐から、小さな小瓶を取り出した。  

クリスタルガラスの美しい瓶。

中には、琥珀色の液体が入っている。


「これは、私が普段愛用している香油です。蜜蝋とレモン、そして私の魔力を調合した特製品」


彼は瓶の蓋を開けた。

ふわりと、彼自身の匂いが濃厚に広がる。  

いつもの爽やかな香りではない。

もっと重く、甘く、脳髄を痺れさせるような濃密な香り。


「これを、貴女に直接塗り込みます」


「えっ……ちょ、ちょっと待って!そんなのベタベタするし……」


「拒否権はありません」


彼は私の言葉を遮り、香油を自分の指先にたっぷりと垂らした。  

そして、その濡れた指を、私の首筋に押し当てた。


「ひゃぅっ!?」


冷たい液体と、熱い指先。

相反する感触が、敏感な首筋を滑る。  

彼は私の耳の下から鎖骨にかけて、ゆっくりと、

円を描くように指を這わせた。


「ここです。……あの男が、最初に貴女を見た場所」


ヌラリ、とした感触。 香油が体温で温められ、

香りが爆発的に広がる。  

それはまるで、見えない首輪を描かれているようだった。


「アルフォンス、くすぐったい……」


「我慢してください。……まだ足りない」


彼はさらに香油を足し、今度は私の二の腕を強く握った。ギュッ、と食い込む指の跡。  

その跡に沿って、マッサージするように香油を塗り込んでいく。


「ここもです。……貴女の肌の白さが、あの男の劣情を煽った。……許せない。貴女の肌は、私だけのキャンバスなのに」


彼の呼吸が荒くなっている。  

冷静沈着な執事の仮面が剥がれ落ち、独占欲の塊となった「雄」が顔を出している。


「ねえ、アルフォンス。あんた、嫉妬してるの?」


私が上目遣いで尋ねると、彼の動きが一瞬止まった。アイスブルーの瞳が揺れる。  

彼は観念したように、私の肩に額を押し付けた。


「……ええ。嫉妬していますよ。狂いそうなほどに」


耳元で、彼の掠れた声が響く。


「貴女が魅力的すぎるのがいけないのです。あのような害虫ごときに目をつけられ、あまつさえ『助ける』などという世迷言を言われる。……私がどれだけ貴女を大切に閉じ込めていても、世界は貴女を放っておかない」


彼は顔を上げ、切なげな表情で私を見つめた。  

その瞳は潤んでいて、捨てられた子犬のようであり、同時に獲物を狙う狼のようでもあった。


「怖くなるのです。いつか、私の掃除が追いつかないほど汚されたら……あるいは、私よりも綺麗な世界を見せる男が現れたら……貴女がいなくなってしまうのではないかと」


なんて、重くて、面倒くさくて、愛おしい男なのだろう。  

世界最強の執事が、たかが男1人の視線ひとつで、こんなにも乱されているなんて。


「……バカね」


私は香油で濡れた彼の手を取り、自分の頬に当てた。彼の指についた甘い香りが、私の鼻腔をくすぐる。


「言ったでしょ。私はあんたのものだって。……セドリックなんて、最初から眼中にないわよ」


「言葉だけでは足りません。……今の私は、疑心暗鬼に陥った見苦しい男です」


彼は私の手を握り潰さんばかりに力を込めた。


「形にしてください、エルカ様。……私が貴女を汚すことを、許してください」


「……許すも何も」


私は背伸びをして、彼の首に腕を回した。  

彼の匂いが、私の全身を包み込む。  

蜜蝋の甘さと、焦げ付くような嫉妬の香り。  

それが、どうしようもなく私を昂らせた。


「あんたの色に染まるなら、本望よ。中途半端はやめて。私が誰のものか、骨の髄まで分からせてみなさいよ」


私の挑発に、アルフォンスの中の何かが弾けた音がした。


「……仰せのままに、マイ・ロード」


彼は私の腰を抱き寄せ、唇を塞いだ。


「んっ……!」


今までで一番、乱暴で、深い口づけ。

唇を噛まれるような強さ。  

口の中に、彼の香油の匂いと、鉄の味が広がる。

息ができない。  

酸素の代わりに、彼の魔力と執着が肺を満たしていく。


「はぁ、っ……んむ……ぅ……!」


彼の手が、ドレスの背中のファスナーを一気に引き下ろした。  

はらりと布が落ち、私の肌が露わになる。  

彼はそこに、香油をたっぷりとつけた掌を這わせた。


「あっ、冷た……い……っ」


「すぐに熱くなりますよ。……私の熱で」


彼の大きな手が、背骨に沿って滑り降りる。

ヌルリとした感触。  

香油が摩擦熱で温まり、肌に吸い付くような粘り気を帯びていく。  

彼はただ塗るだけではない。  

指先で肌を押し、こねるように、自分の匂いを私の細胞の一つ一つに擦り込んでいく。


「ここも……ここも……全て私の領土だ」


彼は私の首筋に顔を埋め、舌で香油を舐め取った。ザラリとした舌の感触。  

そして、強く吸い付く。  

チュウゥゥゥ……ッ。甘い痺れが走る。


「ひぁっ……!あ、とがついちゃう……!」


「つけるんです。……誰が見ても分かるように。貴女が誰に愛され、誰に汚されたか、一目で分かるように」


彼は狂ったように、首筋、鎖骨、胸元へと、赤い花を咲かせていく。  

痛みと快感が混ざり合い、頭が真っ白になる。  

私の肌はもう、白いキャンバスではない。  

彼の執着という絵の具で塗りたくられた、

彼だけの作品だ。


「アルフォンス……っ、好き……おかしくなる……っ」


「おかしくなってください。私だけを感じて、私だけで満たされて……」


彼は私を抱き上げ、そのままソファに押し倒した。覆いかぶさる彼の体温。  

眼鏡の奥の瞳が、とろりと濁っている。

それは執事の目ではない。  

私を喰らい尽くそうとする、美しい獣の目だ。


ドクン、ドクン、ドクン。


指輪とアンクレットが激しく共鳴する。

私の魔力が彼に流れ込み、彼の激情が私に流れ込む。境界線が溶ける。  

私はもう、自分がどこにいるのかも分からなかった。  

ただ、この重くて甘い泥沼の中で、彼と共に堕ちていく感覚だけが鮮明だった。


その時だった。  

私たちの激情に呼応するように、塔全体を覆う結界が、大きく脈動した。


ブォン……ッ!!


空気が震える。  

アルフォンスの制御が乱れ、隠蔽魔法の一角に、ほんの数秒だけ「綻び」が生じたのだ。

普段の彼ならあり得ないミス。けれど、今の彼は嫉妬に狂い、私のことしか見えていない。


「……あ、るフォンス……!魔力が……漏れて……」


「構いません……。世界など、どうでもいい……」


彼は私の警告を聞き流し、私の唇を再び塞いだ。ねっとりと絡みつく舌。  

塔の外、霧の向こうへ、膨大な魔力の波紋が広がっていくことも知らずに、私たちは貪り合った。



――同時刻。魔法省本庁、長官室。


窓の外の赤い月を見上げていたルシウス・ヴァイゼは、手元のワイングラスをピタリと止めた。


「……おや?」


彼は鼻を鳴らし、夜風に含まれる微かな「香り」を嗅ぎ取った。  

それは物理的な匂いではない。魔力の残滓に含まれる、特有の波長。


「見つけたよ、アルフォンス君」


ルシウスは愉しげに唇を歪めた。


「あんな完璧主義の君が、信号ノイズを垂れ流すなんてね。……よほど、感情を乱されていると見える」


彼はデスクの上の地図に、ピンを突き立てた。  

そこは「空白地帯」と呼ばれる、誰も立ち入らない霧の森の最深部。


「『愛』というのは、時に最高の目隠しになる。……君のその甘さが、君自身の首を絞めることになるんだよ」


ルシウスは通信用の魔導具を起動した。


「全騎士団に通達。ターゲットの座標を特定した。……最終兵器『神の鉄槌ケラウノス』の準備を始めろ。今度こそ、あのゴミ溜めごと消し去ってやる」


そんなこととは露知らず。  

私たちはリビングの絨毯の上で、もつれ合うように抱き合っていた。


「……はぁ、はぁ……」


長い、本当に長い情事が終わり、ようやく唇が離れる。  

私の全身は、彼の香油の匂いでベトベトに満たされていた。  

蜜蝋とレモン、そして彼の雄の匂い。  

セドリックの気配など、もうどこにも残っていない。  

私は完全に、上から下まで「アルフォンスのもの」に塗り替えられていた。


「……気が済みましたか……私の『ご主人様』?」


私が乱れた息で、わざと皮肉っぽく――でも、甘えるように尋ねると、アルフォンスは一瞬きょとんとして、それから蕩けるように目を細めた。  

彼は満足げに、しかしどこか申し訳なさそうに私の頬を撫でた。


「……いいえ。一生かけても足りません」


彼は私の首筋に残る無数の赤いキスマーク――

香油と共に刻まれた独占の証を指でなぞった。


「ですが、ひとまずはこれで『消毒』完了といたします。……痛くしませんでしたか?」


「……痛いわよ。唇、腫れちゃったじゃない」


「申し訳ありません。後で冷やします」


彼は反省したように眉を下げたが、その目尻は下がっていた。  

自分の匂いに染まった私を見て、どうしようもなく安心しているのだ。可愛い人。  

世界一強くて怖い執事の、唯一の弱点が私なのだと思うと、征服感が胸を満たす。


「いいわ。……これくらい、されてあげてもいい」


私は彼の胸に顔を埋めた。


「その代わり、明日からはまた美味しいご飯を作ってよね。……あと、お風呂も」


「もちろんです。最高のサービスをお約束します、マイ・ロード」


私たちは抱き合ったまま、深い眠りに落ちていった。  

窓の外の霧が、不吉な赤色に染まり始めていることにも気づかずに。  

嫉妬という甘い毒は、私たちの感覚を麻痺させ、迫り来る破滅の足音さえも遠ざけてしまっていた。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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