第77話「嫉妬は蜜蝋の香りを変える」
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重厚な扉が閉まり、錠が落ちる音が、やけに大きく響いた。カチャリ。
それは、外敵を締め出す音であると同時に、私たちが再び「二人だけの世界」に閉じ込められた合図でもあった。
塔の中は、相変わらず静寂と清潔な空気に満ちていた。
レモンと蜜蝋の香り。
いつもの安らぎの匂いのはずなのに、今の私には、その空気がどこか張り詰めているように感じられた。
「……アルフォンス?」
私は、前を歩く執事の背中に声をかけた。
彼は無言だった。
セドリックを「ゴミ捨て場」へ廃棄し、凱旋した直後だというのに、彼の背中からは勝利の余韻など微塵も感じられない。
代わりに立ち昇っているのは、黒いタールのような、粘着質な感情の揺らぎ。
「お風呂、沸かすんでしょう?着替え、用意するわね」
私が努めて明るく振る舞い、寝室へ向かおうとした時だった。
「……いいえ」
低く、抑揚のない声。
次の瞬間、私の腕が強い力で引かれた。
「きゃっ……!?」
世界が反転する。背中に冷たい石壁の感触。
目の前には、見下ろすようなアルフォンスの顔があった。
「あ、アルフォンス……?」
「お風呂では、落ちません」
彼は私の顔の横に手をつき、逃げ場を塞いだ。
けれど、そこにときめきはない。
あるのは、氷点下の瞳の奥で燃え盛る、青白い嫉妬の炎だけ。
「あの男の視線……。あの不潔で、欲望に濁った眼球が、貴女の姿を捉えた。網膜に焼き付けた。……それだけで、私は吐き気がするほど不愉快なのです」
彼は苦しげに顔を歪めた。
セドリックが私に向けた「可哀想な被害者」を見る目。
そして「助けてあげる」という独善的な言葉。
それらが、潔癖症の彼にとっては、泥水をかけられたのと同じくらい耐え難い「汚染」だったのだ。
「水で洗った程度では、あの視線の感触は消えません。もっと深く、繊維の奥まで染み込ませて『上書き』しなければ」
「上書きって……何を……」
アルフォンスは懐から、小さな小瓶を取り出した。
クリスタルガラスの美しい瓶。
中には、琥珀色の液体が入っている。
「これは、私が普段愛用している香油です。蜜蝋とレモン、そして私の魔力を調合した特製品」
彼は瓶の蓋を開けた。
ふわりと、彼自身の匂いが濃厚に広がる。
いつもの爽やかな香りではない。
もっと重く、甘く、脳髄を痺れさせるような濃密な香り。
「これを、貴女に直接塗り込みます」
「えっ……ちょ、ちょっと待って!そんなのベタベタするし……」
「拒否権はありません」
彼は私の言葉を遮り、香油を自分の指先にたっぷりと垂らした。
そして、その濡れた指を、私の首筋に押し当てた。
「ひゃぅっ!?」
冷たい液体と、熱い指先。
相反する感触が、敏感な首筋を滑る。
彼は私の耳の下から鎖骨にかけて、ゆっくりと、
円を描くように指を這わせた。
「ここです。……あの男が、最初に貴女を見た場所」
ヌラリ、とした感触。 香油が体温で温められ、
香りが爆発的に広がる。
それはまるで、見えない首輪を描かれているようだった。
「アルフォンス、くすぐったい……」
「我慢してください。……まだ足りない」
彼はさらに香油を足し、今度は私の二の腕を強く握った。ギュッ、と食い込む指の跡。
その跡に沿って、マッサージするように香油を塗り込んでいく。
「ここもです。……貴女の肌の白さが、あの男の劣情を煽った。……許せない。貴女の肌は、私だけのキャンバスなのに」
彼の呼吸が荒くなっている。
冷静沈着な執事の仮面が剥がれ落ち、独占欲の塊となった「雄」が顔を出している。
「ねえ、アルフォンス。あんた、嫉妬してるの?」
私が上目遣いで尋ねると、彼の動きが一瞬止まった。アイスブルーの瞳が揺れる。
彼は観念したように、私の肩に額を押し付けた。
「……ええ。嫉妬していますよ。狂いそうなほどに」
耳元で、彼の掠れた声が響く。
「貴女が魅力的すぎるのがいけないのです。あのような害虫ごときに目をつけられ、あまつさえ『助ける』などという世迷言を言われる。……私がどれだけ貴女を大切に閉じ込めていても、世界は貴女を放っておかない」
彼は顔を上げ、切なげな表情で私を見つめた。
その瞳は潤んでいて、捨てられた子犬のようであり、同時に獲物を狙う狼のようでもあった。
「怖くなるのです。いつか、私の掃除が追いつかないほど汚されたら……あるいは、私よりも綺麗な世界を見せる男が現れたら……貴女がいなくなってしまうのではないかと」
なんて、重くて、面倒くさくて、愛おしい男なのだろう。
世界最強の執事が、たかが男1人の視線ひとつで、こんなにも乱されているなんて。
「……バカね」
私は香油で濡れた彼の手を取り、自分の頬に当てた。彼の指についた甘い香りが、私の鼻腔をくすぐる。
「言ったでしょ。私はあんたのものだって。……セドリックなんて、最初から眼中にないわよ」
「言葉だけでは足りません。……今の私は、疑心暗鬼に陥った見苦しい男です」
彼は私の手を握り潰さんばかりに力を込めた。
「形にしてください、エルカ様。……私が貴女を汚すことを、許してください」
「……許すも何も」
私は背伸びをして、彼の首に腕を回した。
彼の匂いが、私の全身を包み込む。
蜜蝋の甘さと、焦げ付くような嫉妬の香り。
それが、どうしようもなく私を昂らせた。
「あんたの色に染まるなら、本望よ。中途半端はやめて。私が誰のものか、骨の髄まで分からせてみなさいよ」
私の挑発に、アルフォンスの中の何かが弾けた音がした。
「……仰せのままに、マイ・ロード」
彼は私の腰を抱き寄せ、唇を塞いだ。
「んっ……!」
今までで一番、乱暴で、深い口づけ。
唇を噛まれるような強さ。
口の中に、彼の香油の匂いと、鉄の味が広がる。
息ができない。
酸素の代わりに、彼の魔力と執着が肺を満たしていく。
「はぁ、っ……んむ……ぅ……!」
彼の手が、ドレスの背中のファスナーを一気に引き下ろした。
はらりと布が落ち、私の肌が露わになる。
彼はそこに、香油をたっぷりとつけた掌を這わせた。
「あっ、冷た……い……っ」
「すぐに熱くなりますよ。……私の熱で」
彼の大きな手が、背骨に沿って滑り降りる。
ヌルリとした感触。
香油が摩擦熱で温まり、肌に吸い付くような粘り気を帯びていく。
彼はただ塗るだけではない。
指先で肌を押し、こねるように、自分の匂いを私の細胞の一つ一つに擦り込んでいく。
「ここも……ここも……全て私の領土だ」
彼は私の首筋に顔を埋め、舌で香油を舐め取った。ザラリとした舌の感触。
そして、強く吸い付く。
チュウゥゥゥ……ッ。甘い痺れが走る。
「ひぁっ……!あ、とがついちゃう……!」
「つけるんです。……誰が見ても分かるように。貴女が誰に愛され、誰に汚されたか、一目で分かるように」
彼は狂ったように、首筋、鎖骨、胸元へと、赤い花を咲かせていく。
痛みと快感が混ざり合い、頭が真っ白になる。
私の肌はもう、白いキャンバスではない。
彼の執着という絵の具で塗りたくられた、
彼だけの作品だ。
「アルフォンス……っ、好き……おかしくなる……っ」
「おかしくなってください。私だけを感じて、私だけで満たされて……」
彼は私を抱き上げ、そのままソファに押し倒した。覆いかぶさる彼の体温。
眼鏡の奥の瞳が、とろりと濁っている。
それは執事の目ではない。
私を喰らい尽くそうとする、美しい獣の目だ。
ドクン、ドクン、ドクン。
指輪とアンクレットが激しく共鳴する。
私の魔力が彼に流れ込み、彼の激情が私に流れ込む。境界線が溶ける。
私はもう、自分がどこにいるのかも分からなかった。
ただ、この重くて甘い泥沼の中で、彼と共に堕ちていく感覚だけが鮮明だった。
その時だった。
私たちの激情に呼応するように、塔全体を覆う結界が、大きく脈動した。
ブォン……ッ!!
空気が震える。
アルフォンスの制御が乱れ、隠蔽魔法の一角に、ほんの数秒だけ「綻び」が生じたのだ。
普段の彼ならあり得ないミス。けれど、今の彼は嫉妬に狂い、私のことしか見えていない。
「……あ、るフォンス……!魔力が……漏れて……」
「構いません……。世界など、どうでもいい……」
彼は私の警告を聞き流し、私の唇を再び塞いだ。ねっとりと絡みつく舌。
塔の外、霧の向こうへ、膨大な魔力の波紋が広がっていくことも知らずに、私たちは貪り合った。
――同時刻。魔法省本庁、長官室。
窓の外の赤い月を見上げていたルシウス・ヴァイゼは、手元のワイングラスをピタリと止めた。
「……おや?」
彼は鼻を鳴らし、夜風に含まれる微かな「香り」を嗅ぎ取った。
それは物理的な匂いではない。魔力の残滓に含まれる、特有の波長。
「見つけたよ、アルフォンス君」
ルシウスは愉しげに唇を歪めた。
「あんな完璧主義の君が、信号を垂れ流すなんてね。……よほど、感情を乱されていると見える」
彼はデスクの上の地図に、ピンを突き立てた。
そこは「空白地帯」と呼ばれる、誰も立ち入らない霧の森の最深部。
「『愛』というのは、時に最高の目隠しになる。……君のその甘さが、君自身の首を絞めることになるんだよ」
ルシウスは通信用の魔導具を起動した。
「全騎士団に通達。ターゲットの座標を特定した。……最終兵器『神の鉄槌』の準備を始めろ。今度こそ、あのゴミ溜めごと消し去ってやる」
そんなこととは露知らず。
私たちはリビングの絨毯の上で、もつれ合うように抱き合っていた。
「……はぁ、はぁ……」
長い、本当に長い情事が終わり、ようやく唇が離れる。
私の全身は、彼の香油の匂いでベトベトに満たされていた。
蜜蝋とレモン、そして彼の雄の匂い。
セドリックの気配など、もうどこにも残っていない。
私は完全に、上から下まで「アルフォンスのもの」に塗り替えられていた。
「……気が済みましたか……私の『ご主人様』?」
私が乱れた息で、わざと皮肉っぽく――でも、甘えるように尋ねると、アルフォンスは一瞬きょとんとして、それから蕩けるように目を細めた。
彼は満足げに、しかしどこか申し訳なさそうに私の頬を撫でた。
「……いいえ。一生かけても足りません」
彼は私の首筋に残る無数の赤いキスマーク――
香油と共に刻まれた独占の証を指でなぞった。
「ですが、ひとまずはこれで『消毒』完了といたします。……痛くしませんでしたか?」
「……痛いわよ。唇、腫れちゃったじゃない」
「申し訳ありません。後で冷やします」
彼は反省したように眉を下げたが、その目尻は下がっていた。
自分の匂いに染まった私を見て、どうしようもなく安心しているのだ。可愛い人。
世界一強くて怖い執事の、唯一の弱点が私なのだと思うと、征服感が胸を満たす。
「いいわ。……これくらい、されてあげてもいい」
私は彼の胸に顔を埋めた。
「その代わり、明日からはまた美味しいご飯を作ってよね。……あと、お風呂も」
「もちろんです。最高のサービスをお約束します、マイ・ロード」
私たちは抱き合ったまま、深い眠りに落ちていった。
窓の外の霧が、不吉な赤色に染まり始めていることにも気づかずに。
嫉妬という甘い毒は、私たちの感覚を麻痺させ、迫り来る破滅の足音さえも遠ざけてしまっていた。
読んでくださってありがとうございます。
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