第72話「逃亡生活も「完璧」でなければ」
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白湯を飲み終えた私は、アルフォンスにエスコートされ、磨き上げられた岩のドレッサーの前に座っていた。 鏡に映る自分を見る。
昨夜の情事の余韻で少し上気した頬。
首筋には、彼がつけた赤い所有の印。
そして、その背後には、どう見ても洞窟とは思えない、最高級ホテルのような空間が広がっている。
「……ねえ、アルフォンス。一つ聞いていい?」
私は、テーブルに並べられた朝食――焼きたてのパン、新鮮なバター、フルーツ、そして湯気を立てる珈琲――を指差した。
「この食材、どこから湧いてきたの?ここは人里離れた森の洞窟でしょ?」
昨夜の彼は手ぶらだった。ドレスを修復する魔法はあっても、無からパンや珈琲豆を作り出すのは創造魔法の領域だ。
「おや、ご存じありませんでしたか?」
背後で私の髪を梳かしていたアルフォンスは、
事もなげに答えた。彼は自分の影にスッと手を沈めると、そこから新しいヘアオイルの瓶を取り出した。
「執事たるもの、いつ何時、主人が『優雅なお茶会』を所望されても対応できるよう、緊急用の備蓄庫(影収納)を常備しております」
影収納。高度な空間魔法の一種だ。
彼はそこに、掃除道具一式だけでなく、最高級の茶葉、食器、保存食、着替え、さらには簡易ベッドの素材まで詰め込んでいたらしい。
「パンは生地の状態で冷凍保存していたものを焼き上げ、フルーツは今朝がた森で採取できる安全なものを厳選しました。オムレツの卵は……少々、近隣の鳥の巣から徴収させていただきましたが」
徴収。さらりと言ったけれど、この森の生態系を脅かさない範囲でやってくれていると信じたい。
「……あんたの準備の良さには呆れるわね。これじゃあ、遭難ごっこもできないわ」
「遭難などさせません。世界中を敵に回そうとも、私の管理下にある限り、貴女の生活水準は王族と同等でなければなりませんから」
彼はニッコリと微笑み、櫛を置いた。
そして、白い手袋をキュッと嵌め直す。
その目が、スッと細められた。執事モードから、検品者モードへの切り替えだ。
「さて。髪のセットが終わりました。……次は、朝の定例検品を行います」
「……検品?昨夜、あんなに全身洗ったのに?」
「昨夜は『消毒』と『マーキング』です。今行うのは、貴女の魔力残量と身体ダメージのチェックです」
彼は椅子を回転させ、私を正面から見据えた。
そして片膝をつき、私の手を恭しく取る。
「……魔力回路、スキャン開始」
彼の手袋越しに、微弱な探査魔力が流れてくる。 今の私は、昨日の暴走(塔の破壊と奈落の壊滅)で、一年分の貯金をすべて使い果たし、すっからかんの状態だ。
「……やはり、魔力タンクは空に近いですね。自然回復には数週間かかるでしょう」
「うん……。体が鉛みたいに重いもの」
私は自分の手を見つめた。
昨日はあれだけの力で世界をねじ伏せたのに、
今はコップ一つ持ち上げるのも億劫だ。
最強の魔女から、ただの無力な魔女への転落。
普通なら不安で押し潰されそうになるはずだ。
「ご安心ください」
アルフォンスが、私の不安を見透かしたように掌にキスを落とした。
「貴女が魔法を使えない間は、私が貴女の杖となり、盾となります。……いいえ、むしろ好都合ですね」
「好都合?」
「ええ。貴女が一人では何もできないということは、私が貴女の全てをお世話できるということです。……食事も、着替えも、移動も、全て私に依存していただける」
彼は恍惚とした表情で、私の指先を甘噛みした。
「その重さこそが、私の至上の喜びなのです」
……重い。 物理的にも精神的にも重い。
でも、その重さが、今の私には何よりも心地よい命綱だった。
「……はいはい。じゃあ、期待してるわよ、私の完璧な執事さん」
私は苦笑し、彼にエスコートされて朝食の席に着いた。
優雅な朝食の時間が流れる。
キノコと香草のオムレツは絶品で、岩の洞窟の中にいるとは思えない穏やかな時間。
しかし、その静寂は唐突に破られようとしていた。
ザッ、ザッ、ザッ……。
洞窟の外から、複数の足音が近づいてくる。
規則正しい、軍靴の音。
枯れ葉を踏みしめる音と共に、微かに漂う金属と殺気の臭い。
「……アルフォンス」
私はフォークを止めた。背筋が凍る。
魔法省の追手だ。
昨夜の今日で、もうここまで嗅ぎつけてきたのか。 今の私は魔力が空っぽだ。戦えない。
「おや、手が止まっていますよ、エルカ様」
アルフォンスは涼しい顔で、私のカップに紅茶を継ぎ足した。外の気配に気づいていないはずがない。なのに、彼は眉一つ動かさない。
「来てる……! 外に、誰か……!」
「ああ、あの『害虫』どものことですか?」
害虫。彼は武装した追跡部隊を、そう呼んだ。
「気にすることはありません。……ただの不潔な埃です。すぐに掃除されますから」
「でも、私、今は魔法が……」
私は立ち上がろうとした。
丸腰で座っている場合じゃない。
「座っていてください」
アルフォンスの声が、少しだけ低くなった。
命令口調。でもそれは威圧ではなく、絶対的な自信に裏打ちされた「安心しなさい」というメッセージだった。
「食事中に席を立つのはマナー違反です。……それに、貴女の美しい瞳に、あのような汚物を映す必要はありません」
彼はナプキンで私の口元を優しく拭うと、洞窟の入り口の方へ視線だけを向けた。
その眼鏡の奥で、アイスブルーの瞳が冷酷に光る。
外の気配が、洞窟の入り口に到達した。
「発見したぞ!この洞窟だ!」
「突入せよ!抵抗する場合は即時抹殺しても構わん!」
荒々しい怒号。
そして、数人の兵士が洞窟の中に踏み込もうとした――その瞬間。
ヒュンッ。
風を切るような音がした。それだけだった。
悲鳴も、爆発音も、魔力の衝突音もしない。
ただ、入り口付近の空気が一瞬歪み、踏み込んできた兵士たちの体が、足元からサラサラと崩れ落ちたのだ。
まるで、最初から砂で作られた像だったかのように。 鎧も、剣も、肉体も。
すべてが均一な、灰色の粒子となって崩壊した。
「……え?」
私は目を見開いた。
何が起きたのか理解できなかった。
一瞬前まで生きていた人間が、音もなく「灰」になった。あまりにも静かで、あまりにも綺麗な死。
「な、なんだ!? 何が起きた!?」
「ひぃッ! 隊長が……隊長が砂に……!」
後続の兵士たちが恐慌をきたす声が聞こえる。
だが、アルフォンスは興味なさそうに視線を戻し、自分の皿のオムレツを切り分けた。
「騒がしいですね。……防音結界の強度を上げておくべきでした」
彼はパンをちぎり、バターを塗る。
外では、パニックになった兵士たちが、次々と「見えない境界線」に触れ、灰へと変わっていく音が聞こえる。 ザラッ……ザラッ……。
砂が積もるような、乾いた音。
それが人の命の消える音だなんて、誰が信じるだろうか。
「アルフォンス……あれ、なに?」
「簡単な防衛魔法ですよ」
彼は優雅に微笑んだ。
「この洞窟の半径5メートル以内に、私と貴女以外の『敵意を持つ有機物』が侵入した場合、強制的に分子レベルまで分解し、土へ還す術式です」
分子レベルの分解。
それを「簡単な魔法」と言ってのける。
しかも、昨夜私を寝かしつけた後、内装のリフォームと並行して、こんな凶悪なトラップを仕掛けていたなんて。
「……肥料にもなりますし、森のためにも良いでしょう。エコですね」
「えげつないわね……」
「お褒めに預かり光栄です」
彼は平然と言ってのけた。
外の気配が完全に消えた。
数十人はいたはずの追跡部隊が、ものの数分で「静かな土」に変わってしまったのだ。
私は震える手でカップを持ち上げた。怖い。
この男は、本当に化け物だ。
でも、その化け物が、今は私のためだけにパンを焼き、紅茶を淹れ、髪を梳かしてくれている。
今の無力な私にとって、この狂気こそが唯一の安全地帯なのだ。
「……さあ、エルカ様。デザートのフルーツです」
アルフォンスが、綺麗にカットされた桃を差し出した。外には死の灰が積もっているのに、ここには甘い香りが満ちている。
「……ん。美味しい」
私は桃を口に含んだ。甘い。
この異常な状況が、麻痺した私の感覚には心地よかった。彼がいる限り、どんな地獄も天国になる。
「そうですか。……貴女のその笑顔が見られれば、私はそれだけで十分です」
アルフォンスは満足げに目を細め、私の指についた果汁をハンカチで拭った。
「食べ終わったら、出発の準備をしましょう。……この場所も汚れてしまいましたから」
彼は「汚れ(追手の灰)」を嫌悪するように眉をひそめた。
「次はもっと景色の良い、清潔な場所へご案内します。……私にお任せください、マイ・ロード」
完璧な執事の、完璧な逃亡計画。
私は彼の手を取り、その冷たい指先にキスをした。
「ええ、頼りにしてるわ。私の完璧な執事さん」
私たちは微笑み合った。
魔力がなくても関係ない。
この男がいる限り、私たちの「完璧な日常」は誰にも壊せないのだ。
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