第71話「再会の消毒、雨滴の愛撫」
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豪雨だった。
魔法省の地下「奈落」を脱出した私たちを待っていたのは、世界を洗い流すような土砂降りの雨だった。雷鳴が轟き、稲妻が夜空を引き裂く。
でも、その激しささえも、今の私たちには心地よい凱旋のファンファーレに聞こえた。
「……はぁ、はぁ……っ」
泥濘に足を取られながら、私は森の中を走っていた。
隣にはアルフォンス。彼は私の腰を支え、まるでダンスをリードするかのように、障害物を避けながら並走している。
ボロボロのシャツ、泥だらけの頬。
けれど、その瞳の輝きだけは、かつての「完璧な執事」のそれに戻っていた。
「エルカ様、あちらに洞窟があります。……一時的な避難所としましょう」
「……うん、分かった」
私たちは岩肌に口を開けた小さな洞窟へと滑り込んだ。
外の轟音が、少しだけ遠ざかる。
冷たい雨から解放され、私は壁に背中を預けて座り込んだ。
「……あー、疲れた。まさか魔法省をぶっ壊して逃げることになるなんてね」
私は濡れた前髪をかき上げ、隣に座るアルフォンスを見て笑った。
彼もまた、濡れた銀髪を雫が伝い、鎖骨へと落ちていく。
なんて色っぽいんだろう。
血と泥に塗れていても、彼はやっぱり私の最高傑作だ。
「アルフォンス、こっち来て。……寒いわ」
私は彼に両手を伸ばした。抱きしめてほしい。
あの地下牢での再会の続きを。
もっと体温を感じて、生きてここにいることを確かめ合いたい。
しかし。アルフォンスは動かなかった。
それどころか、彼は私の伸ばした手を見つめ、
眉間に深い皺を寄せたのだ。
まるで、這い回る害虫を見つけた時のような、
険しい表情で。
「……エルカ様」
「な、なに?」
「……今の貴女は、私が知る限り、過去最高に不潔です」
洞窟の中に、冷たい沈黙が流れた。
「……は?」
私は耳を疑った。感動の脱出劇の直後よ?
命からがら逃げてきたのよ?
第一声が「不潔」ってどういうこと?
「見てください、そのドレスを。……泥、血、煤。さらに最悪なことに、あの地下牢特有のカビの胞子と、下水のような湿気が繊維の奥まで染み込んでいます」
アルフォンスは私のドレスの裾を摘み上げ、汚物を見る目で言った。
「肌もです。……雨で表面の汚れは落ちましたが、毛穴の奥に、あの管理官どもの不潔な魔力の残滓がこびりついている。ああ、許せない。私のエルカ様が、こんな……こんな汚染物質まみれで……ッ!」
彼はブツブツと呟きながら、自分の爪を噛み始めた。 出た。潔癖症の発作だ。
さらに悪いことに、今回は「私への独占欲」と「他者への嫉妬」が混ざり合い、拗らせ方が半端ではない。
「……緊急事態です。直ちに、徹底的な洗浄が必要です」
彼はバッと顔を上げ、ギラギラと光るアイスブルーの瞳で私を射抜いた。
「……脱いでください、エルカ様」
「えっ、ここで!?」
「はい。一秒でも早く、その汚れた布切れを焼却処分し、貴女の肌を無菌状態に戻さなければ……私が発狂してしまいそうです」
彼は本気だ。狂気じみた執着。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
彼がそこまで私の「汚れ」を気にするのは、
それだけ私を大切に思ってくれている裏返しだから。
「……分かったわよ。好きにしなさい、変態執事」
私は苦笑しながら、立ち上がった。
洞窟の一角に、淡い光の結界が張られる。
その中だけ、外の嵐が嘘のように静かで、温かい空気が満ちた。
さらに彼は、空気中の水分を凝縮させ、私たちの目の前に巨大な「水の球体」を作り出した。
適温に温められた、完全なる純水の湯船だ。
「さあ、どうぞ」
促されるまま、私は泥だらけのドレスを脱ぎ捨てた。
濡れた布が肌から剥がれる音。
冷たい空気に晒された肌が、粟立つ。
下着も、靴下も、すべて脱ぎ捨て、私は生まれたままの姿になった。
「……失礼します」
アルフォンスが私を抱き上げ、水の球体の中へと運んだ。ふわりと浮遊感。
温かいお湯が全身を包み込む。
冷え切った手足の先まで血が巡り、凝り固まった筋肉が解けていく。
「んぅ……気持ちいい……」
「まだです。ここからが本番です」
アルフォンスもまた、汚れたシャツを脱ぎ捨てて中に入ってきた。
引き締まった上半身。あちこちに残る拷問の傷跡は、先ほどの生命共有で塞がっているものの、
まだ赤々として痛々しい。
私は思わず、その傷跡に指を伸ばした。
「アルフォンス、傷が……」
「お気になさらず。それより……今は貴女の洗浄が最優先です」
彼は私の手を優しく掴み、自分の唇に押し当てた後、私の背後に回り込んだ。
「……消毒を開始します」
彼の手が、私の肩に触れた。白い手袋はしていない。素手だ。
お湯の中でも分かるほど熱い掌が、私の肌を滑る。
「……っ」
強い。いつもの優しいマッサージとは違う。
汚れを削ぎ落とすような、強い摩擦。
彼の指が、首筋から鎖骨、そして二の腕へと這う。
「ここ……。あの管理官が触れた場所ですね」
彼は私の右腕を掴み、低い声で言った。
そこは、注射針を何度も刺された場所だ。
「他人の魔力が染み付いている。……不愉快だ。汚らわしい」
ゴシゴシと、親指の腹でその場所を擦る。痛い。皮膚が赤くなるほどだ。
「あ、痛いよアルフォンス……」
「我慢してください。……汚れが落ちないんです」
彼の目は据わっていた。
物理的な汚れはとっくに落ちている。
彼が落とそうとしているのは、私が彼以外の男に管理され、傷つけられたという「事実」そのものだ。
「上書きします。私の痕跡で、塗りつぶします」
彼は私の腕に唇を押し当て、強く吸い付いた。
チュウゥゥ……ッ。甘い痺れが走る。
唇を離すと、そこには鮮やかな赤いキスマークが残されていた。
「……これでよし」
彼は満足げに呟くと、今度は背中へ、腰へと手を滑らせた。石鹸などない。
あるのは、魔法で生成された純水と、彼の指先だけ。
それなのに、どんな高級なスパよりも濃密な時間だった。
彼の指が、私の背骨を一本一本なぞる。
脇腹を、太ももを、膝の裏を。
彼の手が通った場所から、他人の気配が消え、
代わりに「アルフォンスのもの」という見えないタグが付けられていく。
「エルカ様。こっちを向いて」
彼に肩を引かれ、私は水の中で向き直った。
目の前には、欲望と独占欲で潤んだアイスブルーの瞳。
いつもの冷徹な執事はどこにもいない。
ただ、私を愛してやまない一人の男がそこにいた。
「綺麗になった?」
「いいえ。まだ足りません」
彼は私の腰を引き寄せ、密着した。
肌と肌が触れ合う。熱い。
彼の鼓動が、私の胸に直接響いてくる。
「もっと深く……貴女の芯まで、私で満たさないと」
アルフォンスの唇が、私の唇を塞いだ。
奈落での血の味のキスとは違う。
甘く、蕩けるような、そしてどこまでも深い口づけ。舌の裏の刻印が熱く疼き、魂が震える。
「んっ……ふぁ……」
水の中で、彼の手が私の体を愛撫する。
優しく、けれど所有権を主張するように強く。
私は彼の首に腕を回し、しがみついた。
「……アルフォンス、好き……大好き……」
「存じております。……私も、貴女を愛しています。私の命、私の女王」
言葉は、すぐに熱い吐息にかき消された。
洗浄という名目は、いつしか濃厚な愛の営みへと変わっていた。
外の世界では嵐が吹き荒れているけれど、この狭い洞窟の中だけは、世界一温かくて、甘い時間が流れていた。
私たちは何度も名前を呼び合い、確かめ合った。失いかけた温もりを。
二度と離れないという誓いを、言葉ではなく、
体温で刻み込むように。
翌朝。
私が目を覚ますと、そこは洞窟の中……のはずだった。
「……え?」
私は目をぱちくりさせた。
昨夜、ゴツゴツしていたはずの岩肌は、鏡のようにツルツルに磨き上げられ、天井には発光苔を加工したシャンデリアが吊るされている。
床には、どこから調達したのか、ふかふかの絨毯のような苔の加工品が敷き詰められ、部屋の隅には野花が生けられた即席の花瓶まである。
まるで、高級ホテルのスイートルームだ。
「お目覚めですか、エルカ様」
爽やかな声と共に、アルフォンスが現れた。
彼の服も魔法で修復・洗浄されており、いつものパリッとした燕尾服姿に戻っている。
手には、湯気の立つカップ。
「洞窟とはいえ、生活水準を下げるのは執事の恥ですから。……徹夜でリフォームしておきました」
「……あんたって、本当にぶっ飛んでるわね」
私は呆れながらも、差し出された白湯を受け取った。温かい。
昨夜の愛撫の余韻で、体は少し気だるいけれど、
心は羽根のように軽かった。
「……ありがとう、アルフォンス」
「お礼には及びません。さあ、今日は忙しくなりますよ。髪を乾かしたら、朝食にして、それから……」
彼はいつものようにテキパキと私の世話を焼き始めた。
指名手配犯としての逃亡生活。
前途は多難かもしれないけれど、この過保護で完璧な執事がいる限り、私の生活は変な方向に守られ続けるのだろう。
私は磨き上げられた岩壁に映る、少し大人びた自分の顔を見て、小さく微笑んだ。
首筋には、昨夜彼がつけた赤いマークが、勲章のように残っていた。
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