第70話「奈落の再会、血塗れの抱」
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魔法省の最深部、通称「奈落」。
そこは、国家に対する重篤な反逆者や、制御不能な危険生物を幽閉するための、地図に存在しない闇の底だ。常に冷たい湿気が漂い、カビと錆、
そして乾いた血の臭いが染み付いた絶望の空間。
だが今、その静寂は轟音と共に破られていた。
ズドォォォォォン!! バチバチバチッ!!
「ひ、ひぃぃッ!化け物だ!退避、退避せよぉぉッ!」
「魔法障壁が紙切れみたいに……! ぐあぁぁぁっ!」
警報音が鳴り響く中、重厚なミスリル合金製の隔壁が、飴細工のように捻じ切れ、吹き飛んだ。
爆風と共に現れたのは、漆黒のドレスを靡かせた一人の女。
「……うるさい」
私がコツンとヒールを鳴らして歩を進めると、
通路の床が瞬時に凍りつき、氷の華が咲き乱れた。行く手を阻もうとした機動魔導兵たちは、
私の周囲に渦巻く黒い雷に触れた瞬間、氷像となって砕け散っていく。
「どいつもこいつも、私の道を塞ぐなんて……掃除が大変じゃない」
私は冷ややかに呟き、アメジスト色の瞳を細めた。
体の中では、一年分の圧縮魔力が暴れ回りたくてうずうずしている。
アルフォンスの氷の魔力と、私の魔力が混ざり合った「絶対零度の黒雷」。
その威力は、自分でも引くほどだった。
ドクン。舌の裏が熱い。
刻印が激しく脈動し、愛しい人の場所を指し示している。
(……近い。そこにいるのね、アルフォンス)
最下層の突き当たり。
厳重な封印術式が施された、特別独房エリア。
そこから、微かだが、確実に彼の気配がする。
「……待たせたわね」
私は右手をかざした。指輪がプラチナの輝きを放ち、膨大な魔力を収束させる。
「――邪魔よ」
一閃。
放たれた黒雷の奔流が、何重にも施された結界ごと、分厚い鉄扉を消し飛ばした。
土煙が晴れると、そこには狭く、薄暗い石造りの独房があった。
窓もなく、空調もない、じめじめとした不衛生な空間。
その中央に、彼はいた。
「……っ」
息を呑んだ。彼は、壁に打ち込まれた杭に、
太い鎖で両手首を吊るされていた。
かつて塵一つなかった燕尾服はズタズタに引き裂かれ、下の白いシャツは赤黒い血で染まっている。銀色の髪は泥と汗で汚れ、頬には鞭で打たれたような裂傷が走り、トレードマークの眼鏡は片方のレンズが割れて床に落ちていた。
潔癖症の彼にとって、これ以上の地獄はないだろう。
拷問による痛みよりも、この「不潔さ」こそが、
彼の精神を削り取っていたに違いない。
「……あ、ある……ふぉんす……?」
私が震える声で呼ぶと、吊るされた彼がピクリと反応した。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、彼が顔を上げる。
焦点が合っていないアイスブルーの瞳が、私を捉え、そして大きく見開かれた。
「……幻覚、ですか……?」
カサカサに乾いた唇から、掠れた声が漏れる。
「美しい……。女神のような……エルカ様……」
彼はうわ言のように呟き、すぐに力なく首を横に振った。
「いいえ……見てはいけません……。今の私は……汚い……ゴミです……」
彼は顔を背け、身を縮こまらせようとした。
自分の惨めな姿を、崇拝する主人に見られることへの耐え難い羞恥。
それが痛いほど伝わってきて、私の胸は張り裂けそうになった。
「……バカ」
私は独房の中に足を踏み入れた。
ドレスの裾が、汚れた床を擦るのも構わずに。
彼に近づく。
血と膿、そしてカビの臭いが鼻をつく。
でも、その奥に微かに残る、レモンと蜜蝋の香りを感じ取った瞬間、涙が溢れ出した。
「ゴミなわけ、ないでしょ……!」
私は彼に駆け寄り、その血塗れの体に抱きついた。
「ッ!?エルカ、様……ッ!?」
アルフォンスが悲鳴のような声を上げる。
「いけません……!離れてください……!私の血が……汚れが……貴女の美しいドレスを汚してしまいますッ!」
彼は鎖に繋がれたまま、必死に私を引き剥がそうと身をよじった。
自分が傷つくことより、私が汚れることを恐れる。
どこまでも、救いようのない執事だ。
「うるさい!黙って抱かれなさいよ!」
私は彼の胸に顔を埋めた。冷たい。
彼の体温が、死人のように冷え切っている。
魔力を封じられ、拷問を受け、生命力が尽きかけているのだ。
「あんたが私を綺麗にしてくれたんでしょ……?だったら、私が汚れたって、あんたがまた綺麗にしてくれればいいじゃない……!」
「ですが……今の私には……掃除道具も……魔力も……」
アルフォンスの声が震える。
私は顔を上げ、彼の瞳を覗き込んだ。
割れた眼鏡の奥で、彼の瞳が揺れている。
「あるわよ。……私が持ってきた」
私は彼の手首を拘束している「対魔術師用拘束錠」を掴んだ。
ルシウスによって上書きされ、幾重にも呪いがかけられた絶対の枷。
普通なら、解除キーがなければ外せない代物だ。
「こんなもの……ッ!!」
私は魔力を練り上げた。
体内で圧縮された一年分の魔力が、指先から爆発的に放出される。
バチバチバチッ!!
黒い雷が手錠に絡みつき、ルシウスの術式を食い破っていく。
私の魔力は「破壊」だけじゃない。
アルフォンスと一つになるための「融合」の力だ。
「壊れろぉぉぉッ!!」
ガキンッ!!
金属音が響き、決して壊れないはずのミスリル製の枷が、飴のように捻じ切れ、弾け飛んだ。
「……あ……」
支えを失ったアルフォンスの体が崩れ落ちる。
私はそれを正面から受け止めた。
重い。成人男性の重み。
そして、ドロドロとした血の感触。
私の綺麗な黒いドレスが、彼の血で汚れていく。肌に、彼の汚れが付着する。
本来なら不快でたまらないはずのその感触が、
今は愛おしくてたまらない。
「……申し訳、ありません……。貴女を……汚してしまいました……」
私の腕の中で、アルフォンスが今にも泣き出しそうな顔で謝罪する。
私は首を振った。
そして、彼の手を取り、自分の頬に押し当てた。
血と泥に塗れた手袋。
でも、そこには確かな温もりが戻り始めていた。
「いいのよ。……これは、あんたが私のために戦った勲章でしょ?」
「エルカ様……」
「それにね、アルフォンス。……私、気づいたの」
私は彼の乱れた銀髪を、汚れた指で優しく梳いた。
「あんたがいないと、部屋が広すぎて寒いの。……ご飯も味がしないし、お風呂も面倒くさい。……私、あんたがいないと、息をするのも忘れちゃいそうなのよ」
それは、完全なる敗北宣言であり、この上ない愛の告白だった。
私は彼なしでは生きられない。
彼に管理され、世話を焼かれ、愛されることでしか、私は私でいられない。
「だから……責任取りなさいよ。勝手にいなくなって、私を一人にした罪を、一生かけて償いなさい」
アルフォンスの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは血と泥を洗い流し、頬に綺麗な筋を作る。
「……はい。……仰せのままに、マイ・ロード」
彼は震える手で、私の背中に腕を回した。
私は彼の顔を両手で包み込んだ。
唇が、目の前にある。
ひび割れ、血が滲んだ、痛々しい唇。
「……アルフォンス」
「っ、いけません……口の中が切れて……血の味がします……不潔です……」
彼は顔を背けようとした。
最後まで、彼は自分の汚れを気にする。
そんな彼の「清廉な拒絶」が、私の理性を焼き切った。
「うるさい」
私は強引に彼の唇を奪った。
「んっ……!?」
柔らかい感触と共に、鉄錆のような血の味が口いっぱいに広がる。
不味い。生臭い。でも、それは彼が流した血の味だ。彼が生きている証の味だ。
私はその味を確かめるように、深く、貪るように舌を絡ませた。
「んぅ……っ、ぁ……」
アルフォンスの体が大きく跳ねた。
最初は躊躇っていた彼も、私の熱に溶かされるように力を抜き、やがて飢えた獣のように私の舌を求め返し始めた。
絡み合う舌先。混ざり合う唾液と血。
彼が刻んだ舌の裏の刻印が、カッと熱く発光する。
ドクン、ドクン、ドクン。
口づけを通して、私の魔力が奔流となって彼の中へ流れ込んでいく。
私の溢れんばかりの生命力が、彼の中の枯渇した寿命を補填し、傷ついた細胞の一つ一つを修復していく。生命共有。これはキスなんて可愛いものじゃない。
お互いの命を啜り合い、溶け合わせる、魂の融合儀式だ。
「……はぁ、っ……ぷはっ……」
長い、長い口づけの後、私たちはようやく唇を離した。
銀色の糸が引き、プツリと切れる。
アルフォンスの顔色は、先ほどまでの土気色が嘘のように、紅潮し、生気に満ち溢れていた。
「……血の味が、したでしょう?」
彼が潤んだ瞳で、恥ずかしそうに呟く。
私は彼の唇についた血を、親指で愛おしげに拭った。
「ええ。……世界で一番、美味しい味だったわ」
「……貴女という方は……」
彼は泣き笑いのような表情を浮かべ、再び私を強く抱きしめた。
その力強さは、もう死にかけの囚人のものではない。
私を守り抜くことを誓った、最強の執事の腕力だった。
「……温かい。貴女の魔力が……貴女の命が、私の中に満ちていく……」
「さあ、帰りましょう、アルフォンス」
私は彼の体を支えて立ち上がった。周りは瓦礫と死体だらけの地獄絵図。
でも、二人でいれば、ここも悪くない。
「おうちに帰って……お風呂に入りましょう? あんたが私を洗って。私が、あんたを洗ってあげる」
「……ええ。そうです、ね……」
アルフォンスは割れた眼鏡を外し、懐に入れた。
そして、素顔のまま、私を見つめて微笑んだ。
執事の仮面も、掃除屋の仮面もない。
ただ一人の、私を愛する男の顔。
「徹底的に、洗いましょう。……今の私たちは、世界一不潔で……そして、世界一幸福ですから」
私たちは互いに支え合いながら、崩壊した奈落の回廊を歩き始めた。
行く手を阻む敵はもういない。
いたとしても、今の私たちに触れれば、塵も残さず消滅するだろう。
出口から差し込む光が見えてくる。
外は嵐だ。雨音が激しく響いている。
でも、怖くない。
私の左手には、彼の手の感触がある。
泥と血でベトベトだけど、世界で一番安心できる、私の聖域。
「ねえ、アルフォンス」
「はい」
「帰ったら、まず何する?」
「……そうですね」
彼は少し考え、真剣な顔で言った。
「まずは、この独房の清掃費を魔法省に請求しましょう。……それから、貴女のドレスの染み抜きです。血液の汚れは時間が経つと落ちにくくなりますから」
ブレない。
この期に及んで、まだ掃除のことを考えている。
私は吹き出した。
「ふふっ……あんたって、本当にバカね」
「貴女の執事ですから」
雨の中に飛び出す。
冷たい雨が、私たちの血と泥を洗い流していく。
それは、新しい日々の始まりを告げる、祝福の雨のようだった。
読んでくださってありがとうございます。
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