第68話「灰色の塔、新しい「普通の」執事」
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朝が来た。
カーテンの隙間から差し込む光が、私の瞼を刺す。
いつもなら、このタイミングで心地よい紅茶の香りと、「おはようございます、エルカ様」という甘い声が降ってくるはずだった。
けれど、今日は無音だ。寒々しいほどの静寂。
空気中の塵が舞う音さえ聞こえそうなほどの孤独が、この広い寝室を支配している。
「……アルフォンス」
私は掠れた声で名を呼んだ。 返事はない。
分かっている。彼はもういない。
昨日、私の目の前で手錠をかけられ、黒い馬車で連れ去られてしまった。
それでも、私の体は「彼がいること」を前提に作られている。 喉が渇いた。
でも、水差しに手は届かない。 肌寒い。
でも、毛布を引き寄せる筋力が入らない。
私はベッドの上で、糸の切れた操り人形のように横たわっていた。
(……そうだ。私には、これがある)
ふと、左手の薬指を見る。
そこには、彼がくれたプラチナの指輪――
『永遠の服従の環』が嵌まっている。 彼が言った言葉を思い出す。
『貴女が世界のどこにいようとも……私の魔力を辿って、私の元へ強制的に転移させる術式です』
『私が壊れても、この指輪だけは、貴女を守り続ける』
そうだ。
これを使えば、彼の元へ行けるかもしれない。
あるいは、この絶対防御が私を守ってくれるはずだ。
私は震える右手を、左手の指輪に重ねた。
祈るように。縋るように。
「……お願い。連れて行って。アルフォンスのところへ……!」
魔力を込める。
本来なら、指輪がカッと輝き、空間をねじ曲げて私を転移させるはずだ。
しかし。
シーン……。
指輪は沈黙していた。
光るどころか、まるで死んだ魚の目のように白濁し、氷のように冷たいままだ。
「……嘘、でしょ……?」
私は指輪を擦った。爪を立てた。
でも、何の反応もない。
そこにあるのは、ただの冷たい金属の輪っかだけ。
(どうして……?アルフォンスの心臓の一部なんでしょ……?)
理由はすぐに思い当たった。魔力切れだ。
この指輪は、アルフォンス本体からの魔力供給があって初めて機能する。
今、彼は「対魔術師用拘束錠」をかけられ、魔力を封じられている。
大元の電源が切断された端末なんて、ただのガラクタだ。
「……あぁ……」
絶望が胸に広がる。
なら、足は? 私は左足首のアンクレットに触れた。いつもならドクン、ドクンと聞こえるはずの、彼の心音。
それも、今は聞こえない。
ただ重い。鉛のように重い鎖が、私をこのベッドに縫い止めているだけだ。
「……嫌。いやよ……」
私は最後の手段に出た。
口を開け、舌の裏側を指で触れる。
彼が刻み込んだ、『魂の共鳴』の刻印。
『助けてと念じるだけで、私の脳髄に響く』と言った、直通回線。
私は目を閉じ、全身全霊で叫んだ。
声には出さない。魂の絶叫だ。
(アルフォンス!助けて!怖い!寂しい!アルフォンス、アルフォンス、アルフォンス!!)
……ザザッ……。
脳裏に、砂嵐のようなノイズが走った。
繋がらない。
まるで、深い海の底か、あるいは世界の果てにある「奈落」という名の結界に阻まれているかのように。 私の声は、誰にも届かず、虚空に吸い込まれて消えた。
「……う、あぁぁぁ……ッ!」
私はシーツを噛んで慟哭した。
全てのライフラインが切断された。
物理的にも、魔術的にも、精神的にも。
私は今、宇宙の真ん中に放り出されたような、
完全なる孤独の中にいた。
ガチャリ。不意に、部屋の扉が開いた。
「……アルフォンス!?」
私は弾かれたように顔を上げた。
戻ってきてくれたのかもしれない。
あのスーパー執事なら、手錠を引きちぎって帰ってくるかもしれない。
そんな淡い期待は、一瞬で踏みにじられた。
「……おはようございます、被検体E-01」
入ってきたのは、見知らぬ男だった。
魔法省の制服を着た、神経質そうな眼鏡の男。
ルシウスが送り込んだ、新しい「執事」――
いや、管理官だ。
「な、誰よあんた……出て行って……!」
「自己紹介は省略します。本日より、貴女の管理を担当します」
男は私の拒絶など聞こえていないかのように、
ツカツカとベッドに近づいてきた。
手には、無機質な銀色のトレイ。
そこには湯気の立つ紅茶も、焼き立てのパンもない。
あるのは、灰色のペースト状の流動食と、数本の注射器だけ。
「本日の朝食です。栄養剤と、魔力抽出促進剤を混合してあります」
「……いらない。食べたくない」
「拒否権はありません」
男は無表情に言うと、指を鳴らした。
見えない力に顎をこじ開けられ、無理やり口の中にスプーンを突っ込まれる。
「んぐっ……!?ごほッ……!」
灰色のペーストが喉に流し込まれる。 不味い。
泥と薬品を混ぜたような、吐き気を催す味。
アルフォンスの料理とは雲泥の差だ。
彼の料理は、一口食べるだけで心が溶けるような、魔法の味がしたのに。
「……オエッ……」
「吐き出さないでください。カロリー計算が狂います」
男は冷淡に私の口元を拭った。
その手つきは乱暴で、ただ汚れを落とすだけの作業だ。
アルフォンスのような、肌を慈しむような愛撫はそこにはない。
「次は魔力の抽出です」
男は注射器を構え、私の腕を掴んだ。
消毒もせず、乱暴に針を突き立てる。
「あッ……痛い……!」
「動かないでください。血管が逃げます」
赤い血と共に、キラキラとした青い液体――
私の魔力が吸い出されていく。
寒い。 体の中から熱が奪われていく。
アルフォンスが一年かけて大切に育み、磨き上げてくれた私の魔力が、ただの資源として消費されていく。
「……素晴らしい量だ。さすがは『ゴミ屋敷の魔女』。これなら長官も喜ぶ」
男は満足げに注射器をトレイに戻した。
私は腕を押さえてうずくまった。
涙も出なかった。ただ、惨めだった。
私はお姫様じゃなかった。
アルフォンスがいなければ、ただの実験動物。
使い捨ての電池。
(……助けて、アルフォンス……)
心の中で呼んでも、アンクレットも指輪も沈黙したままだ。
彼がいない世界は、こんなにも灰色で、痛くて、冷たい。
それから数日が過ぎた。私の生活は崩壊した。
新しい執事は、最低限の生命維持と魔力抽出しかしなかった。
お風呂?入っていない。
着替え?数日前のパジャマのままだ。
髪を梳かすことさえされないので、私の自慢だった黒髪は再び鳥の巣のように絡まり、艶を失っていた。
鏡に映る自分を見る。頬はこけ、目の下に隈ができ、肌はカサカサに乾いている。
あんなに綺麗だった「磁器人形」は、見る影もなく薄汚れていた。
「……汚い」
私は呟いた。アルフォンスが見たら、卒倒するだろうか。
それとも、「不潔です」と怒ってくれるだろうか。 怒ってほしい。
どんなに厳しくてもいいから、あのアイスブルーの瞳で私を見てほしい。
男が去った後の静寂。
私はベッドから這い出した。足がふらつく。
アンクレットが重い。
でも、どうしても確認したいものがあった。
這うようにして辿り着いたのは、部屋の隅。
そこには、あの日のまま放置された「掃除ワゴン」があった。
新しい執事は、ここには触れなかったようだ。
埃を被った銀のトレイ。使い込まれたはたき。
「……アルフォンスの、匂い」
はたきに顔を埋める。
微かに残る、レモンと蜜蝋の香り。
それだけで、枯れ果てていた涙腺が再び決壊した。
「会いたいよぉ……うっ、ぐすっ……」
私は子供のように泣きながら、ワゴンの下段をまさぐった。
何か、彼の痕跡が欲しかった。
彼がここにいた証拠が。
すると、指先が何かに触れた。
雑巾の山の下に隠されるようにして置かれた、一冊の分厚い革張りのノート。
「……これ」
表紙には、几帳面な文字でこう書かれていた。
『エルカ様・管理日誌 Vol.12(最終章)』。
彼の日誌だ。
毎日、私の体調や食事内容、髪のツヤ具合まで細かく記録していた、変態的な観察記録。
震える手でページを開く。そこには、彼の几帳面な文字がびっしりと並んでいた。
『○月×日 晴れ。 本日のエルカ様は、苺のタルトを食べて至福の表情を浮かべておられた。その笑顔だけで、私は向こう百年は生きられる気がする。口元についたクリームを拭う際の、少し恥じらう仕草が国宝級に可愛い。』
『○月△日 雨。 雷を怖がって私のベッドに潜り込んでこられた。不潔なので追い返すべきだが、震える子猫のような姿に理性が敗北した。朝まで腕の中で眠る彼女の寝顔は、天使そのものだった。この温もりを守るためなら、私は悪魔に魂を売っても構わない。』
ページを捲るたびに、彼の愛が溢れ出してくる。
読んでいたのは「管理記録」じゃない。
これは、私への「ラブレター」だ。
彼はこんなにも、私を愛してくれていた。
業務でも、任務でもない。
ただ一人の男として、私という存在に救われ、
私を愛していたのだ。
そして、最後のページ。
日付は、彼が連行される当日になっていた。
文字が少し乱れている。時間がなかったのだろう。
『エルカ様へ。
もし貴女がこれを読んでいるなら、私はもうおそばにはいないでしょう。
約束を守れず、申し訳ありません。貴女を残していくことだけが、私の唯一の心残りです。
ですが、私は信じています。
貴女は、私が磨き上げた最高の女性です。
貴女の中には、誰にも負けない気高い魂と、
強大な魔力が眠っています。
貴女は人形などではない。自分の足で立ち、
運命を切り開くことができる魔女です。
……最後に、一つだけ訂正と、秘密をお教えします。
あの日、塔が霧に包まれた時、私は貴女にこう言いましたね。
『抑制剤は魔力を溜めるダムであり、一週間分の魔力を使って霧を作った』と。
あれは嘘ではありません。
ですが、『全て』ではありませんでした。
あの時、放出スイッチとして機能した指輪が引き出したのは、貴女の魔力のほんの『上澄み』……直近の一週間分に過ぎないのです。
私が毎日貴女に飲ませていた『特製紅茶(魔力圧縮保存剤)』の真価は、そんなものではありません。
貴女の体内深層には、まだ手付かずの『一年分』に濃縮された、核兵器にも匹敵する魔力が眠っています。
新しい執事に少々魔力を抜かれた程度で、へばっている場合ではありませんよ?
今の貴女は、世界で一番巨大な魔力タンクそのものなのですから。
もし、貴女が自分の意志で立ち上がり、運命と戦うと決めた時。
この言葉を唱えてください。
それこそが、深層の魔力を解き放つ、最初で最後の『鍵』です。』
ページの下に、大きく、太い文字で、その言葉は書かれていた。
それは呪文ではない。
私たちが過ごした日々の中で、彼が一番大切にしていた、あの言葉。
『『――掃除完了』』
ポタリ。涙がページに落ちて、文字を滲ませた。
「……バカ……」
私は日誌を胸に抱きしめた。
「あの日……『全部使い切った』と思わせて、隠してたのね。……私が、もしもの時に一人でも戦えるように……」
底知れない過保護さ。
彼は、自分が連れ去られた後、私が絶望して無気力になることまで計算して、この「切り札」を隠していたのだ。
ドクン。
心臓が大きく跳ねた。体内を巡る血液が、熱く沸騰し始める。
アンクレットでも指輪でもない。
私自身の中心核にある、一年間彼が守り育ててくれた力が、目覚めようとしている。
「……待ってて、アルフォンス」
私は涙を拭った。
カサカサだった肌に、魔力の輝きが戻り始める。
ボサボサの髪が、ふわりと浮き上がる。
「あんたがいないと、部屋も汚いし、ご飯も不味いし、お風呂も入れない」
私はよろめきながら立ち上がった。
足首の鎖は、もう重くない。
「だから……迎えに行ってあげる。私の執事を、取り戻しに」
私の瞳が、アメジスト色の怪しい光を放ち始めた。絶望は終わりだ。
ここからは、魔女の逆襲の時間だ。
手始めに、あの気に入らない新しい執事を「掃除」してやろう。
私は日誌を固く握りしめ、扉を睨みつけた。
その背後で、窓の外の空が、不穏な黒い雷雲に覆われ始めていた。
読んでくださってありがとうございます。
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