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第67話「白き手袋の投降」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

塔の最上階。  

私は厚いガラス窓に額を押し付け、眼下を見下ろしていた。  

そこには、灰色の荒れ地に似つかわしくない、

漆黒の馬車が停まっている。  

その周囲を固めるのは、無機質な仮面をつけた武装監査官たち。


そして、その中心を歩く一人の男。  

銀色の髪を風になびかせ、塵一つない燕尾服を纏った背中。  

アルフォンスだ。


「……待って」


私の唇から、空気の漏れるような音が漏れた。  

ガラスを叩く。拳が痛い。

でも、強化された魔法ガラスは微動だにしない。


「行かないで……アルフォンスッ!!」


叫び声は、部屋の中に虚しく反響するだけだった。  

彼は振り返らない。  

その歩みには迷いがなかった。

いつも私に紅茶を運んでくる時と同じ、優雅で、

完璧に制御されたリズム。  

それが余計に、私を絶望させた。  

彼はもう、「私の執事」ではなく、「ルシウスの道具」に戻ってしまったのだと、その背中が語っているようで。


(……一生そばにいるって言ったのに…)


涙で視界が歪む。  

彼が遠ざかるたびに、私の心臓の一部が引きちぎられていくようだ。  

アンクレットからの脈動も、彼が心を閉ざしたせいで、遠い海の底の鼓動のように微かになっていた。


彼は馬車のステップに足をかけた。  

もう終わりだ。彼が乗り込めば、二度と会えない。


その時だった。


「……?」


アルフォンスの動きが止まった。  

先に馬車に乗り込もうとしていたルシウスが、

怪訝そうに振り返るのが見えた。  

アルフォンスは、ゆっくりと、本当にゆっくりと顔を上げた。 空を見るように。  

いいえ――塔の最上階にいる、私を見るために。


距離が離れすぎていて、表情までは見えない。  

眼鏡のレンズが、冷たい陽光を反射して白く光っているだけだ。  

けれど、視線が合った瞬間。


ジジッ……!


左足首のアンクレットが、焼き切れるほどの熱を持った。痛い。でも、離したくない。

その熱と共に、頭の中に直接、彼の声が響いてきた。


『……エルカ様』


それは、聴覚を通さない「シグナル」だった。  

普段の彼の、慇懃無礼いんぎんぶれいで甘い声ではない。  

ノイズ混じりの、けれど魂を削って紡ぎ出された、切実な祈りのような響き。


『お部屋を汚さずに待っていてください』


その言葉に、私は息を呑んだ。

こんな時に、掃除の話?  

違う。これは彼なりの、不器用な愛の言葉だ。  

「汚さずに待て」ということは、「自分が戻ってきて掃除をする」という宣言。  

つまり――必ず生きて帰るという、命懸けの約束。


『すぐに掃除を済ませて戻ります。それまで、貴女の肌に埃ひとつ触れさせません』


言葉の最後が、震えていた気がした。

それが彼の精一杯の別れの挨拶だった。  

彼はすぐに視線を外し、再びルシウスに向き直った。


地上。馬車の前。  

アルフォンスは、塔の窓に張り付く小さな人影を網膜に焼き付けた後、無感情な仮面を被り直した。


「……何をしている、アルフォンス。名残惜しいか?」


ルシウスがニヤニヤと笑いながら問いかけてくる。  

アルフォンスは首を横に振った。


「いいえ。……窓ガラスに指紋がついているのが気になっただけです。戻ったら拭き取らなければ」


「ははっ!相変わらずの潔癖症だ。だが、君がそこに戻ることは二度とない」


ルシウスが指を鳴らすと、控えていた監査官が進み出てきた。  

手には、銀色に輝く重厚な手錠――

『対魔術師用拘束錠』が握られている。


「けじめだ。……飼い犬には首輪が必要だろう?」


「……満足ですか、閣下」


「ああ、お似合いだよ。……さあ、手を出せ」


ルシウスが満足げに頷き、監査官に顎でしゃくった。  

アルフォンスは眉一つ動かさず、恭しく一礼した。  

そして、両手を差し出す――その直前。


「……おや」


アルフォンスの手が、ふとルシウスのジャケットの袖口に伸びた。


「な、何だ?」


ルシウスが不快そうに身を引こうとするが、アルフォンスの指先は素早く、しかし優雅にその袖を払った。


「失礼いたしました。袖口に……不潔な埃がついておりましたので」


「……チッ。最期まで小賢しい男だ」


ルシウスは鼻を鳴らし、払われた袖をパンパンと叩いた。  

その隙に、監査官がアルフォンスの両手首に冷たい金属の輪を嵌める。


ガチャン。


重い音が荒れ地に響き、強力な魔力封じの術式が発動した。  

もはや、アルフォンスは指先から火花一つ出すことはできない。  

だが――「仕込み」は終わっていた。


(……いつでも居場所は特定できる。首を洗って待っていろ、古狸)


アルフォンスは表情を変えず、手錠をかけられたまま馬車に乗り込んだ。  

先ほど袖を払った際、指先に溜めていた極小の魔術式――「埃」に偽装した発信魔法を、ルシウスの服の繊維の奥深くに植え付けたのだ。  

手錠をかけられるコンマ数秒前の、神業のような早業。  

ルシウスがいかに強力な魔道士であろうと、自分の服についた「ただの埃」までは感知しない。


手錠の鎖がチャリと鳴る。

それは敗北の音ではない。  

反撃へのカウントダウンの音だった。


馬車が動き出した。

車輪が砂利を踏みしめ、遠ざかっていく。  

塔の最上階で、私はその黒い点が霧の中に消えるまで、瞬きもできずに見送っていた。


「……嘘つき」


ガラスに吐息がかかり、白く曇る。

すぐに戻る?掃除をする?  

あんな厳重な手錠をかけられて、どうやって戻ってくる気よ。  

バカ。大バカ者。


「……私のこと、何も分かってない」


私は窓枠を背にして、ずるずると床に座り込んだ。  

部屋は静かだった。 静かすぎて、耳鳴りがする。  

つい昨日まで、ここには彼の足音があり、衣擦れの音があり、紅茶を注ぐ音があった。

それら全てが消え失せた空間は、広すぎて、寒くて、まるで墓場のようだった。


ドクン……ドクン……。


左足首のアンクレットだけが、彼が生きていることを伝えていた。  

でも、その鼓動は遠い。  

物理的な距離が離れるにつれて、繋がりが細くなっていくような錯覚に襲われる。


「……一人にしないでよ」


私は膝を抱えた。もう、服を着替える気力もない。  

お腹が空いたのかどうかも分からない。  

アルフォンスがいなければ、私は自分が「生きている」のかどうかさえ判断できない。


視線の端に、部屋の隅に置かれたワゴンが入った。  

そこには、彼がいつも使っていた銀のトレイと、

磨き上げられたティーセット。  

そして、下段には彼専用の掃除道具セットが整然と並べられている。


はたき。雑巾。ワックス。  

どれも使い込まれ、丁寧に手入れされている。  

彼が毎日、この部屋を磨いてくれた証。


「……アルフォンス」


私は這うようにしてワゴンに近づき、彼が使っていたはたきを手に取った。  

柄の部分に残る、彼の手の感触。  

レモンと蜜蝋の残り香。


私はそれを抱きしめ、子供のように泣きじゃくった。  

プライドも、魔女としての意地も、どうでもよかった。  

ただ、彼に会いたい。  

その願いだけが、空っぽになった心の中で暴れ回っていた。


揺れる馬車の中。  

アルフォンスはルシウスの対面に座らされ、冷徹な視線を受けていた。


「大人しいな。もっと吠えるかと思ったが」


「無駄なエネルギー消費は好みません」


アルフォンスは淡々と答えた。  

その視線は、ルシウスの袖口――先ほどマーキングした一点に注がれているが、ルシウスは気づいていない。


「それに、貴方の言う通りです。……私はただの道具。持ち主が変われば、それに従うまで」


「殊勝な心がけだ。その調子で頼むよ」


ルシウスは上機嫌でワインを開けた。  

アルフォンスは静かに目を閉じた。


(……エルカ様)


瞼の裏に浮かぶのは、泣き濡れた主人の顔。

胸が張り裂けそうだ。  

今すぐにここを飛び出し、彼女の涙を拭いに行きたい。  

だが、今動けば、塔に仕掛けられた「壊死魔法」が発動してしまう。


(耐えてください。……必ず、迎えに行きます)


彼は手錠をかけられた拳を、見えないように強く握りしめた。  

白い手袋の下で、爪が皮膚に食い込み、血が滲む。その痛みが、彼を正気に保っていた。


馬車は王都へ、魔法省の闇の底「奈落」へと向かっていく。  

そこはかつて彼が生まれ、絶望し、捨てられた場所。  

だが、今の彼は昔の「ゴミ」ではない。  

「エルカ・シュヴァルツの執事」という誇りを胸に秘めた、復讐の鬼だ。


白き手袋の投降。 それは、終わりではない。  

主人の敵を内側から食い破るための、最も危険な潜入工作の始まりだった。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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