第67話「白き手袋の投降」
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塔の最上階。
私は厚いガラス窓に額を押し付け、眼下を見下ろしていた。
そこには、灰色の荒れ地に似つかわしくない、
漆黒の馬車が停まっている。
その周囲を固めるのは、無機質な仮面をつけた武装監査官たち。
そして、その中心を歩く一人の男。
銀色の髪を風になびかせ、塵一つない燕尾服を纏った背中。
アルフォンスだ。
「……待って」
私の唇から、空気の漏れるような音が漏れた。
ガラスを叩く。拳が痛い。
でも、強化された魔法ガラスは微動だにしない。
「行かないで……アルフォンスッ!!」
叫び声は、部屋の中に虚しく反響するだけだった。
彼は振り返らない。
その歩みには迷いがなかった。
いつも私に紅茶を運んでくる時と同じ、優雅で、
完璧に制御されたリズム。
それが余計に、私を絶望させた。
彼はもう、「私の執事」ではなく、「ルシウスの道具」に戻ってしまったのだと、その背中が語っているようで。
(……一生そばにいるって言ったのに…)
涙で視界が歪む。
彼が遠ざかるたびに、私の心臓の一部が引きちぎられていくようだ。
アンクレットからの脈動も、彼が心を閉ざしたせいで、遠い海の底の鼓動のように微かになっていた。
彼は馬車のステップに足をかけた。
もう終わりだ。彼が乗り込めば、二度と会えない。
その時だった。
「……?」
アルフォンスの動きが止まった。
先に馬車に乗り込もうとしていたルシウスが、
怪訝そうに振り返るのが見えた。
アルフォンスは、ゆっくりと、本当にゆっくりと顔を上げた。 空を見るように。
いいえ――塔の最上階にいる、私を見るために。
距離が離れすぎていて、表情までは見えない。
眼鏡のレンズが、冷たい陽光を反射して白く光っているだけだ。
けれど、視線が合った瞬間。
ジジッ……!
左足首のアンクレットが、焼き切れるほどの熱を持った。痛い。でも、離したくない。
その熱と共に、頭の中に直接、彼の声が響いてきた。
『……エルカ様』
それは、聴覚を通さない「念」だった。
普段の彼の、慇懃無礼で甘い声ではない。
ノイズ混じりの、けれど魂を削って紡ぎ出された、切実な祈りのような響き。
『お部屋を汚さずに待っていてください』
その言葉に、私は息を呑んだ。
こんな時に、掃除の話?
違う。これは彼なりの、不器用な愛の言葉だ。
「汚さずに待て」ということは、「自分が戻ってきて掃除をする」という宣言。
つまり――必ず生きて帰るという、命懸けの約束。
『すぐに掃除を済ませて戻ります。それまで、貴女の肌に埃ひとつ触れさせません』
言葉の最後が、震えていた気がした。
それが彼の精一杯の別れの挨拶だった。
彼はすぐに視線を外し、再びルシウスに向き直った。
地上。馬車の前。
アルフォンスは、塔の窓に張り付く小さな人影を網膜に焼き付けた後、無感情な仮面を被り直した。
「……何をしている、アルフォンス。名残惜しいか?」
ルシウスがニヤニヤと笑いながら問いかけてくる。
アルフォンスは首を横に振った。
「いいえ。……窓ガラスに指紋がついているのが気になっただけです。戻ったら拭き取らなければ」
「ははっ!相変わらずの潔癖症だ。だが、君がそこに戻ることは二度とない」
ルシウスが指を鳴らすと、控えていた監査官が進み出てきた。
手には、銀色に輝く重厚な手錠――
『対魔術師用拘束錠』が握られている。
「けじめだ。……飼い犬には首輪が必要だろう?」
「……満足ですか、閣下」
「ああ、お似合いだよ。……さあ、手を出せ」
ルシウスが満足げに頷き、監査官に顎でしゃくった。
アルフォンスは眉一つ動かさず、恭しく一礼した。
そして、両手を差し出す――その直前。
「……おや」
アルフォンスの手が、ふとルシウスのジャケットの袖口に伸びた。
「な、何だ?」
ルシウスが不快そうに身を引こうとするが、アルフォンスの指先は素早く、しかし優雅にその袖を払った。
「失礼いたしました。袖口に……不潔な埃がついておりましたので」
「……チッ。最期まで小賢しい男だ」
ルシウスは鼻を鳴らし、払われた袖をパンパンと叩いた。
その隙に、監査官がアルフォンスの両手首に冷たい金属の輪を嵌める。
ガチャン。
重い音が荒れ地に響き、強力な魔力封じの術式が発動した。
もはや、アルフォンスは指先から火花一つ出すことはできない。
だが――「仕込み」は終わっていた。
(……いつでも居場所は特定できる。首を洗って待っていろ、古狸)
アルフォンスは表情を変えず、手錠をかけられたまま馬車に乗り込んだ。
先ほど袖を払った際、指先に溜めていた極小の魔術式――「埃」に偽装した発信魔法を、ルシウスの服の繊維の奥深くに植え付けたのだ。
手錠をかけられるコンマ数秒前の、神業のような早業。
ルシウスがいかに強力な魔道士であろうと、自分の服についた「ただの埃」までは感知しない。
手錠の鎖がチャリと鳴る。
それは敗北の音ではない。
反撃へのカウントダウンの音だった。
馬車が動き出した。
車輪が砂利を踏みしめ、遠ざかっていく。
塔の最上階で、私はその黒い点が霧の中に消えるまで、瞬きもできずに見送っていた。
「……嘘つき」
ガラスに吐息がかかり、白く曇る。
すぐに戻る?掃除をする?
あんな厳重な手錠をかけられて、どうやって戻ってくる気よ。
バカ。大バカ者。
「……私のこと、何も分かってない」
私は窓枠を背にして、ずるずると床に座り込んだ。
部屋は静かだった。 静かすぎて、耳鳴りがする。
つい昨日まで、ここには彼の足音があり、衣擦れの音があり、紅茶を注ぐ音があった。
それら全てが消え失せた空間は、広すぎて、寒くて、まるで墓場のようだった。
ドクン……ドクン……。
左足首のアンクレットだけが、彼が生きていることを伝えていた。
でも、その鼓動は遠い。
物理的な距離が離れるにつれて、繋がりが細くなっていくような錯覚に襲われる。
「……一人にしないでよ」
私は膝を抱えた。もう、服を着替える気力もない。
お腹が空いたのかどうかも分からない。
アルフォンスがいなければ、私は自分が「生きている」のかどうかさえ判断できない。
視線の端に、部屋の隅に置かれたワゴンが入った。
そこには、彼がいつも使っていた銀のトレイと、
磨き上げられたティーセット。
そして、下段には彼専用の掃除道具セットが整然と並べられている。
はたき。雑巾。ワックス。
どれも使い込まれ、丁寧に手入れされている。
彼が毎日、この部屋を磨いてくれた証。
「……アルフォンス」
私は這うようにしてワゴンに近づき、彼が使っていたはたきを手に取った。
柄の部分に残る、彼の手の感触。
レモンと蜜蝋の残り香。
私はそれを抱きしめ、子供のように泣きじゃくった。
プライドも、魔女としての意地も、どうでもよかった。
ただ、彼に会いたい。
その願いだけが、空っぽになった心の中で暴れ回っていた。
揺れる馬車の中。
アルフォンスはルシウスの対面に座らされ、冷徹な視線を受けていた。
「大人しいな。もっと吠えるかと思ったが」
「無駄なエネルギー消費は好みません」
アルフォンスは淡々と答えた。
その視線は、ルシウスの袖口――先ほどマーキングした一点に注がれているが、ルシウスは気づいていない。
「それに、貴方の言う通りです。……私はただの道具。持ち主が変われば、それに従うまで」
「殊勝な心がけだ。その調子で頼むよ」
ルシウスは上機嫌でワインを開けた。
アルフォンスは静かに目を閉じた。
(……エルカ様)
瞼の裏に浮かぶのは、泣き濡れた主人の顔。
胸が張り裂けそうだ。
今すぐにここを飛び出し、彼女の涙を拭いに行きたい。
だが、今動けば、塔に仕掛けられた「壊死魔法」が発動してしまう。
(耐えてください。……必ず、迎えに行きます)
彼は手錠をかけられた拳を、見えないように強く握りしめた。
白い手袋の下で、爪が皮膚に食い込み、血が滲む。その痛みが、彼を正気に保っていた。
馬車は王都へ、魔法省の闇の底「奈落」へと向かっていく。
そこはかつて彼が生まれ、絶望し、捨てられた場所。
だが、今の彼は昔の「ゴミ」ではない。
「エルカ・シュヴァルツの執事」という誇りを胸に秘めた、復讐の鬼だ。
白き手袋の投降。 それは、終わりではない。
主人の敵を内側から食い破るための、最も危険な潜入工作の始まりだった。
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