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第65話「禁断症状:触れられない夜」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

アルフォンスが引きずり出された後、私は寝室に軟禁された。  

扉には重厚な魔法鍵がかけられ、窓の外には監査官たちの監視の目が光っている。


夜が来た。

この塔に来て一年、初めて一人で迎える夜だ。


「……寒い」


私はベッドの上で、膝を抱えて震えていた。  

空調は完璧なはずだ。

室温は常に私が最も快適に感じる二十四度に保たれている。

それなのに、歯の根が合わないほど寒い。  

骨の髄から凍えるような、絶対的な熱の欠落。


(アルフォンスが……いない)


いつもなら、この時間は彼がそばにいる。  

髪を乾かし、ホットミルクを淹れ、私が眠りに落ちるまで、その大きな手で背中をトントンと一定のリズムで叩いてくれる。レモンと蜜蝋の香り。  

彼の低い声の子守唄。  

それら全てが、今の私を構成する生命維持装置だったのだと、失って初めて気づいた。


「……はぁ、っ……息が……」


過呼吸気味に肩が上下する。

酸素が薄いわけではない。

ただ、彼というフィルターを通していない空気が、異物のように喉に引っかかるのだ。


ドクン、ドクン、ドクン。


唯一の救いは、左足首のアンクレットから伝わる脈動だけだった。  

アルフォンスの心音。 少し速い。乱れている。  

彼もまた、どこかで苦しんでいる。


「……アルフォンス……」


私はアンクレットを両手で握りしめ、額を押し当てた。 冷たい銀の感触。  

そこから伝わる微かな熱だけが、私が世界と繋がっている唯一のロープだった。  

もし、この音が止まったら? そう考えただけで、視界が暗転しそうになる。


私は、彼なしでは呼吸もできない「欠陥品」になってしまっていた。  

ルシウスの言った通りだ。

でも、不思議と後悔はなかった。  

欠陥品でいい。

彼の一部になれるなら、私は喜んで壊れたままでいる。


一方、地下牢。

かつて食料庫として使われていた湿った石造りの部屋に、アルフォンスは繋がれていた。

両手両足を、魔力封じの枷で壁に固定されている。  

胸元の呪印が、断続的に赤い光を放ち、彼に激痛を与え続けていた。


「……ッ、ぐぅ……」


脂汗が頬を伝う。

心臓を熱した鉄串で刺されるような痛み。  

だが、アルフォンスの表情は、苦痛に歪んでいるわけではなかった。  

彼の目は、虚空を見つめ、どこか恍惚としてさえいた。


「……汚い」


彼が呟いた。

拘束された手の指先が、壁の石材をカリカリと引っ掻いている。


「この壁……カビの胞子が、3200個……。床の埃……厚さ0.5ミリ……。不潔だ……不衛生だ……」


彼は狂ったように呟き続けていた。  

潔癖症の彼にとって、掃除されていない空間に放置されることは、肉体的な拷問以上のストレスだ。 だが、彼が本当に気に病んでいるのは、環境の汚れではなかった。


(……エルカ様の髪、ちゃんと乾かしただろうか)


思考は、常に主人の元へと飛ぶ。


(今頃、一人で泣いていないだろうか。布団は蹴飛ばしていないか。水分補給は?爪の伸び具合は?……ああ、心配だ。心配で肺が破裂しそうだ)


彼にとって、エルカの管理ケアを奪われることは、呼吸を止められるに等しい。禁断症状。

指先が震える。 彼女の肌に触れたい。

彼女の匂いを嗅ぎたい。

彼女の世話を焼きたい。


「……申し訳ありません、エルカ様。……私の不手際で、貴女に寂しい思いを……」


彼は壁に額を打ち付けた。 ゴン、ゴン、ゴン。

痛みで意識を保つ。  

そうでもしなければ、怒りで我を忘れ、この地下牢ごと塔を爆破してしまいそうだったからだ。


「……殺す。……私の聖域を汚したゴミども……一匹残らず……消毒してやる……」


眼鏡の奥の瞳に、蒼い殺意の炎が揺らめく。

その時、地下牢の扉が開いた。


「少しは頭が冷えたか?」


現れたのはルシウスではなく、彼の部下の監査官だった。手には水と、粗末なパンを持っている。


「食事だ。……長官からの慈悲だ」


「……いりません」


アルフォンスは一瞥もくれずに拒絶した。


「貴様らが用意した餌など、汚らわしくて口にできません。……私の胃袋に入れる価値があるのは、エルカ様が食べ残したパンの耳だけです」


「……気味の悪い男だ」


監査官は気味悪そうに食事を床に置き、足早に去っていった。  

アルフォンスは再び一人、暗闇の中で愛する主人の名前を呼び続けた。  

アンクレットのパスを通じて、自分の命の音を彼女に送り続けることだけが、今の彼にできる唯一の「奉仕」だった。



深夜。 私の寝室の鍵が、カチャリと開いた。  

アルフォンスが帰ってきたのかと期待して顔を上げた私は、そこに立つ人影を見て凍りついた。


「こんばんは。眠れないようだね」


ルシウス・ヴァイゼ。  

彼は音もなく部屋に入り込み、私のベッドサイドに立った。手には、小さな小瓶を持っている。


「……何しに来たの。出て行って」


「つれないな。可愛い『孫』の様子を見に来ただけだよ」


ルシウスは椅子に腰掛け、足を組んだ。  

その仕草は優雅だが、醸し出す気配は猛毒の蛇そのものだ。


「君は誤解しているよ、エルカ君。……私は君を助けに来たんだ」


「助ける?笑わせないで」


「本当さ。君は騙されているんだ。……あの執事にね」


ルシウスは小瓶を弄びながら、憐れむような目で私を見た。


「アルフォンス君は、君を愛してなどいない。……彼はただ、君という『魔力タンク』を管理し、太らせて、最終的に自分のために利用しようとしていただけだ」


「……嘘よ」


「嘘じゃない。彼は元々、そういう任務を帯びた『工作員』だからね。……君を依存させ、思考力を奪い、自分の言いなりになる人形に育て上げる。それが彼の仕事だ」


ルシウスの言葉が、呪いのように耳にこびりつく。  

確かに、アルフォンスは私を甘やかし、何もできないようにした。それは事実だ。

でも、その裏にある感情が「業務」だなんて、信じたくない。


「君は賢い子だ。……自分の今の姿を見てごらん。一人では服も着られない。食事もできない。それは『愛』じゃない。『飼育』だ」


ルシウスは小瓶を差し出した。  

中には、透き通った青い液体が入っている。


「これを飲みなさい。……『解毒剤』だよ。これを飲めば、彼が君にかけていた洗脳魔法が解ける。本来の聡明な君に戻れるはずだ」


甘い誘惑。  

この男の言うことが真実なら、私はこの薬を飲んで、自由を取り戻すべきなのかもしれない。でも。


ドクン。


足首のアンクレットが、熱く脈打った。  

アルフォンスの心音が、私に訴えかけてくる。  

『信じて』と。


私は、鏡の中で見た彼の涙を思い出した。  

自分の過去を恥じ、震えていた彼の姿を。  

あれが演技だとしたら、彼は世界一の名優だ。  

そして、もし演技だとしても――。


「……いらないわ」


私はルシウスの手を払いのけた。

小瓶が床に落ち、音を立てて転がる。


「彼の愛が『飼育』だとしても……それがどうしたっていうの?」


「……何?」


ルシウスの眉がピクリと動いた。


「私は、彼に飼われることを選んだの。……彼が私を人形にするなら、私は世界一美しい人形になって、彼を一生離さない」


私はキッとルシウスを睨みつけた。

震えは止まっていた。  

体の中の魔力が、怒りと共に渦を巻き始める。


「それに、あんたの言う『解毒剤』なんて、胡散臭いもの飲めるわけないでしょ。……私の体はね、アルフォンスが選んだ最高級の茶葉と、オーガニックな食事で出来てるの。不純物は受け付けないのよ」


「……ふふ。言うようになったね」


ルシウスは立ち上がった。

その目から、温厚な仮面が剥がれ落ちる。


「だが、それは強がりだ。……君の体は正直だよ。見なさい、その震えを」


彼は私の手を掴んだ。 冷たい。  

アルフォンスの手とは違う、生命力を吸い取るような冷たさ。


「彼がいなくて寂しいのだろう?苦しいのだろう?私がその苦しみを取り除いてあげようと言っているんだ」


ルシウスの指先から、黒い霧のような魔力が滲み出し、私の肌を侵食しようとする。  

精神干渉魔法。

無理やり記憶を書き換え、私を従順にさせるつもりだ。


その時。


バチッ!!


私の体から、眩い光が弾けた。  

ルシウスの手が弾き飛ばされる。  


「……ッ!?」


ルシウスが驚愕に目を見開いた。

私の全身が、淡い浄化の光に包まれている。  

それは、アルフォンスが毎日飲ませてくれていた紅茶の成分――彼が「毒」だと信じていたものが、私の魔力と反応して作り出した、絶対的な「抗体」だった。


「……言ったでしょ」


私はベッドの上に立ち上がり、ルシウスを見下ろした。アンクレットの鎖が、チャリと音を立てる。


「アルフォンスの淹れるお茶には、彼自身の愛という名の『毒』がたっぷり入ってるの。……だから、あんたの安っぽい毒なんて、もう私には効かないわ」


私はニヤリと笑ってみせた。


「あいつの毒なら、喜んで飲むわ。……でも、あんたのは味が悪そうだからお断りよ。とっとと出て行って、おじいさん」


ルシウスはしばし呆気にとられた顔をしていたが、やがて低く笑い出した。


「……ははっ、傑作だ。まさか、毒を盛っていたつもりが、最強の耐性をつけてしまっていたとはね」


彼はステッキを突き、踵を返した。


「いいだろう。今のところは引き下がってやる。……だが覚えておきたまえ。君のその『強がり』がいつまで持つか楽しみにしているよ」


ルシウスは部屋を出て行った。 重い扉が閉まる。  

私はその場にへたり込んだ。


「……はぁ、はぁ……怖かった……」


強がりだった。足はガクガク震えているし、

心臓は破裂しそうだ。でも、勝った。

アルフォンスとの絆が、あの怪物を退けたのだ。


ドクン、ドクン。

アンクレットが、褒めるように温かく脈打った。  

私はそれを握りしめ、冷たいベッドの中で、

遠く離れた彼に想いを馳せた。


(待ってて、アルフォンス。……私、絶対に負けないから)


触れられない夜。  

けれど、私たちの心は、かつてないほど強く結びついていた。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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