第63話「監査官の宣戦布告」
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その日の午後、塔の空気は妙に静まり返っていた。
嵐の前の静けさ、という陳腐な表現では足りない。まるで世界そのものが息を潜め、来るべき「捕食者」の足音に怯えているような、重苦しい沈黙。
私は、相変わらずアルフォンスの膝の上にいた。
リビングのソファに深く腰掛けた彼が、私を赤子のように抱きかかえ、ゆっくりと髪を梳いている。
「……アルフォンス。手が止まってるわよ」
「おや、失礼しました。……少々、外の埃が気になりまして」
アルフォンスの声は平坦だったが、私の髪に触れる指先は、微かに、けれど確実に緊張で強張っていた。 足首のアンクレットが、チリチリと焼けるように熱い。
私の鼓動と、彼の鼓動が、警鐘のように重なり合って高鳴っている。
「……来るのね」
「ええ。結界の第3層および第4層が、正規の手順によって解除されました。不法侵入ではなく、正当な権限を持つ者による『訪問』です」
彼が眼鏡の位置を直し、私を抱きしめる腕に力を込めた。
その瞬間。
ギィィィィィ……。
塔の最下層にあるはずの重厚な正門が、まるで紙細工のように軽々と開かれる音が、建物の躯体を伝って響いてきた。
続いて、カツ、カツ、カツ、と、優雅で規則正しい足音が階段を上ってくる。
その足音は、一つではない。 複数の、軍靴のような重い足音が追従している。
「……お出迎えしましょうか」
アルフォンスは私を抱いたまま立ち上がった。
リビングの扉が開く。
そこには、レモンと蜜蝋の香りとは異質の、冷たく、人工的な香水の匂いを纏った一団が立っていた。
「やあ。……相変わらず、ここは空気が澄んでいるね。君の潔癖症も、ここまで来れば芸術だ」
先頭に立っていたのは、一人の老紳士だった。
仕立ての良いチャコールグレーのスーツ。
銀のステッキ。
白髪交じりの髪をオールバックにし、その顔には穏やかな笑みを浮かべている。
一見すれば、知的な大学教授か、温厚な資産家に見えるだろう。
だが、その瞳だけが違った。
爬虫類のような、感情のない黄金色の瞳。
私たちが鏡の中の過去で見た、あの冷酷な男の成れの果て。
「……魔法省長官、ルシウス・ヴァイゼ閣下」
アルフォンスが、氷点下の声でその名を呼んだ。
ルシウスは楽しげに目を細め、部屋の中を見回した。
「招待状を送ったのに、返事がないからね。……迎えに来てあげたよ、アルフォンス君」
「……お心遣い、痛み入ります。ですが、我々は出発の準備を進めていたところです。わざわざ長官自らご足労いただくまでもありません」
「ははっ、嘘はいけないな。君たちのことだ、怖くて動けずに震えていたのだろう?」
ルシウスはステッキの先で、アルフォンスが磨き上げた床をコツンと叩いた。
その一撃で、床に泥の染みが広がるような錯覚を覚える。
「だから私が直々に、『焼却処分』の前の『最終資産価値評価(監査)』をしに来てやったんだ。感謝してくれたまえ」
彼の背後には、無表情な仮面をつけた監査官たちが控えていた。
彼らは手にしたバインダーと計測機器を構え、
まるで屠殺場の家畜を品定めするような目で私たちを見ている。
「……監査、ですか」
「ああ。この塔を燃やす前に、回収すべき『有益な資産』と、廃棄すべき『無価値なゴミ』を、私の目で選別する必要があるからね」
ルシウスの視線が、アルフォンスの腕の中にいる私へと滑った。粘着質な視線。
ナメクジが肌を這うような不快感に、私は思わず身震いし、アルフォンスの胸に顔を埋めた。
「……ほう。それが、あの『ゴミ屋敷の魔女』かい?久しいね」
ルシウスは興味深そうに近づいてきた。
その黄金色の瞳が、私の全身を値踏みするように舐め回す。
「夜会の時も驚いたが……今の君は、あの時とは比べ物にならないほど『仕上がって』いるな」
彼は感嘆の息を漏らした。
「あの時はまだ、着飾っただけの『人間』だった。……だが今はどうだ。髪の一筋、爪の先まで、完璧に管理された『高級な磁器人形』そのものではないか。……君がここまで磨き上げたのかい、アルフォンス?」
「……私の主人は、元より宝石の原石でした。私はただ、その輝きを曇らせる埃を払ったに過ぎません」
「謙遜するなよ。『素材』の個性を殺し、ここまで自分好みの『作品』に作り変える手腕……。君の『掃除屋』としての狂気的な几帳面さは、私が一番よく知っている」
ルシウスは、私の足首に見える銀のアンクレットに目を留めた。
そして、ニヤリと口角を吊り上げた。
「……なるほど。首輪に、足枷か。随分と趣味の良い『管理』をしているじゃないか。……10年前、廃棄処分に失敗した私が甘かったよ。まさか、あの時の『壊れた道具』が、ここまで優秀な『魔女の番犬』に育つとはね」
その言葉が出た瞬間、アルフォンスの体から殺気が噴き出した。
部屋の空気が凍りつき、窓ガラスがビリビリと振動する。
「……っ!」
私は彼の胸元をギュッと掴んだ。
ダメだ、アルフォンス。
ここでキレたら、相手の思う壺だ。
アルフォンスもそれを理解しているのだろう。
彼はギリギリのところで衝動を抑え込み、能面のような執事の顔を貼り付けた。
「……過分なお褒めの言葉、光栄です」
「ふふ。いい殺気だ。……さて、仕事にかかろうか」
ルシウスが指を鳴らすと、監査官たちが一斉に動き出した。
彼らは無遠慮に部屋の中を歩き回り、魔導書を棚から引きずり出し、家具に計測用の杭を打ち込んでいく。アルフォンスが心血を注いで整えた「聖域」が、土足で踏み荒らされていく。
「やめて……!」
私が小さな声を上げると、一人の監査官がこちらへ近づいてきた。
手には、太い注射器のような魔力採取キットが握られている。
「被検体E-01、魔力濃度測定を行います。……執事、その個体を作業台へ」
「……お断りします」
アルフォンスは私を抱きしめたまま、一歩下がった。
「エルカ様は物ではありません。それに、彼女の肌に触れて良いのは、この世で私だけです」
「命令だ、アルフォンス」
ルシウスが低い声で割り込んだ。彼はソファに腰掛け、優雅に足を組んでいる。
「その女は、魔法省の予算を食い潰しただけの『管理ミスによる欠陥品』だ。本来なら即刻殺処分にしてもいいのだが……君に免じて、最後のチャンスを与えているんだよ」
「チャンス……?」
「ああ。君がそのゴミを捨てて、私の元へ戻ってくるなら、彼女の命だけは助けてやろう」
ルシウスはステッキを突き出し、アルフォンスの胸元――服の下にある呪印の位置を指した。
「君は優秀な掃除道具だ。こんな田舎の塔で、人形遊びに興じているには惜しい。……私の元へ戻れ。そして再び、私のために『掃除』をするんだ」
それは、最悪の取引だった。
私を助ける代わりに、彼は再び血塗れの殺人人形に戻れと言うのだ。
鏡の中で見た、あの地獄の日々へ。
「……断る、と言ったら?」
「簡単だ。この場で彼女を解体する。……脳の前頭葉を切り取れば、魔力供給源としては使えるかもしれないね」
ルシウスは楽しそうに笑った。
本気だ。この男にとって、私は人間ですらない。
ただの資源なのだ。
アルフォンスの腕に力がこもる。痛いほどに。
彼の葛藤が、アンクレットを通じて流れ込んでくる。
怒り。屈辱。恐怖。そして、何よりも深い、私への愛。
(……アルフォンス、お願い。私のために自分を売らないで)
私は必死に目で訴えた。でも、彼は私を見なかった。
彼はルシウスを睨みつけたまま、静かに口を開いた。
「……閣下。一つ、訂正させていただきます」
彼の声は震えていなかった。
澄み渡った冬の空のように、冷たく、冴え渡っていた。
「エルカ様は欠陥品でも、ゴミでもありません。……彼女は、私の世界そのものです」
「……ほう?」
「貴方が私を『道具』と呼ぶのは勝手ですが、今の私は貴方の道具ではありません。……私は、エルカ・シュヴァルツ様の『執事』です」
アルフォンスは、私を抱いたまま、優雅に一礼してみせた。
それはルシウスへの服従ではなく、私への忠誠を示す、完璧なカーテシーだった。
「私の主人の価値を決めるのは、貴方ではありません。……彼女を磨き上げ、その輝きを誰よりも知る、この私だけです」
一瞬の沈黙。
そして、ルシウスが大きなため息をついた。
「……失望したよ。まさか、道具が持ち主に牙を剥くとはね」
「持ち主ではありません。元・持ち主です」
「減らず口を叩くようになったものだ。……いいだろう」
ルシウスが立ち上がった。
その黄金色の瞳から、人間的な感情が完全に消え失せる。
「ならば、監査を続行する。……徹底的に調べろ。この塔の隅々まで、その女の細胞一つに至るまで、完全に分解してな」
彼が合図を送ると、監査官たちが一斉に魔力を解放した。
塔の中に、どす黒い抑圧の魔力が充満する。
「アルフォンス、抵抗は無意味だよ。君の心臓には、まだ私の『飼い主としての印』が刻まれているのだからね」
ルシウスが何かの呪文を呟いた瞬間、アルフォンスが「ぐっ……!」と苦悶の声を漏らし、その場に膝をついた。胸元の呪印が発動したのだ。
激痛が彼を襲う。
それでも、彼は私を放さなかった。
震える腕で、私を守るように抱きしめ続けている。
「アルフォンス……!」
「……お触り、禁止です……。私の主人に……指一本でも触れたら……この塔ごと……貴様らを掃除します……ッ!」
彼は血を吐くように絞り出した。
眼鏡の奥の瞳は、もはや執事のものではない。 愛する者を守るためなら、世界を敵に回すことも厭わない、狂気じみた「男」の目だった。
「ふん、威勢だけはいい。おい、彼を別室へ運べ。少し頭を冷やしてもらう必要がある」
ルシウスの命令で、数人の監査官がアルフォンスを取り押さえにかかる。
私は叫ぼうとしたが、声が出なかった。
ルシウスの視線が、私を射抜いていたからだ。
その目は語っていた。
――さあ、見せてもらおうか。私の最高傑作を狂わせた魔女の価値とやらを。
引き剥がされる私たち。
伸ばした手は届かず、アルフォンスは別室へと引きずられていった。
残されたのは、私と、冷酷な監査官たち。
そして、獲物を前に舌なめずりをする、ルシウス・ヴァイゼ。
本当の地獄が、ここから始まろうとしていた。
読んでくださってありがとうございます。
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