第62話「生活管理能力の完全喪失」
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その日の朝、私はベッドの中で目覚めたが、
目を開けることすらしなかった。
カーテンの隙間から差し込む光を感じる。
鳥のさえずりが聞こえる。
本来なら、伸びをして「あー、よく寝た」とあくびの一つでも漏らすところだ。
けれど、私は指一本動かさなかった。
動かす必要がないのだ。
動かそうという意思さえ、今の私からは綺麗さっぱり欠落していた。
コツ、コツ、コツ。
正確なリズムで近づいてくる足音が、私の唯一の時計だ。
ガチャリとドアが開く音。
ふわりと漂う、レモンと蜜蝋、そして微かに焦げたような紅茶の香り。
「おはようございます、エルカ様」
耳元で甘い声が囁かれる。
私はまぶたを閉じたまま、小さく「ん」と喉を鳴らした。
それが、私の起床の合図だ。
「……素晴らしい寝顔です。天使の休息とは、まさにこのこと」
アルフォンスの気配が近づく。
彼の手が掛け布団をゆっくりと剥がし、私の体を冷気から守るように、温めたタオルですぐさま包み込んだ。その手際は魔法のように滑らかで、
私は不快感を覚える隙すらない。
「さあ、お目覚めの時間ですよ。……今日は素晴らしい天気です。貴女の髪を洗うのに最適な湿度ですね」
彼は私を抱き起こした。
私は脱力したまま、彼の胸に頭を預ける。
首が座っていない赤子のように、ぐらりと頭が揺れるが、すぐに彼の大きな手が支えてくれる。
「……アルフォンス、眠い」
「ええ、存じております。昨夜は少し、夜更かしが過ぎましたからね」
彼はくすりと笑い、私の頬にキスをした。
昨夜、鏡の間で過去を共有し、互いの傷を舐め合った後、私たちは朝まで語り明かした。
いや、語り合ったというよりは、互いの存在を確認し合うように、ひたすら触れ合っていただけかもしれない。
その結果が、これだ。
私は今、かつてないほどの安心感と、底なしの倦怠感の中にいた。
頭の芯が痺れているようで、思考がまとまらない。
ルシウスとの決戦が近い? 招待状の返事?
そんなこと、今の私にはどうでもよかった。
ただ、この心地よい腕の中にいられれば、世界が滅んでも構わない。
(……ああ、楽だなぁ)
私はぼんやりと思った。自分で考えなくていい。自分で動かなくていい。
アルフォンスが全てやってくれる。
彼は私の手足であり、私の脳であり、私の心臓なのだから。
リビングへの移動も、もちろん徒歩ではない。
私は彼に「お姫様抱っこ」をされたまま、運ばれていく。
左足のアンクレットが、チャリ……と微かな音を立てて揺れる。
この銀の鎖がついてから、私は自分の足で地面を踏みしめた記憶がほとんどない。
「……アルフォンス。私、重くない?」
「羽毛のように軽いです。……いえ、訂正しましょう。貴女の命の重みを感じられる、至福の重量です」
彼は真顔でそんなことを言いながら、私をソファにそっと下ろした。
クッションの位置をミリ単位で調整し、私が最もリラックスできる角度を確保する。
そして、サイドテーブルから湯気の立つカップを手に取った。
「まずは水分補給を。白湯に蜂蜜とレモンを数滴垂らしました」
彼がカップを私の口元に運ぶ。
私は口を開けるだけでいい。
温かい液体が流れ込んでくる。
ごくり、と飲み込むと、彼がすかさずハンカチで口元を拭ってくれた。
「……ん、おいしい」
「良かったです。では、朝食にいたしましょう」
彼が指を鳴らすと、キッチンからワゴンが自走してきた。
今日のメニューは、ふわふわのスクランブルエッグと、一口サイズにカットされたフルーツ、そして焼き立てのパン。
どれも、私がフォークを使わなくてもいいように加工されている。
「はい、あーん」
「……あーん」
彼が差し出したパンを、私は雛鳥のようにパクついた。
噛む。 柔らかい。 でも、咀嚼することさえ少し億劫だ。
「……硬い」
「おや、焼きすぎましたか?申し訳ありません」
私が不満げに呟くと、アルフォンスは眉を下げた。
そして、驚くべき行動に出た。
彼は新しいパンをちぎり、自分の口に含んだのだ。
そして、軽く咀嚼して柔らかくしてから、顔を近づけてきた。
「……どうぞ」
「……ん」
私は迷わず、彼に口付けた。口移しで与えられる、ペースト状になったパン。
甘い。 彼の唾液と混じり合ったそれは、背徳的な味がした。
普通なら「汚い」と拒絶するところだろう。
でも、今の私には、これが一番美味しく感じられた。
彼の一部を体内に取り込んでいるという感覚が、空っぽの胃袋だけでなく、満たされない心まで埋めてくれる気がしたからだ。
「……ふふっ、可愛いですね、エルカ様」
アルフォンスは目を細め、私の唇についたパン屑を舐め取った。
「貴女はもう、私なしでは食事もできない。……なんて愛らしい生物なのでしょう」
「……全部、あんたのせいでしょ」
「ええ。私の最高傑作です」
彼は満足げに頷くと、今度はフルーツを口移しで与えてくれた。
私はそれをただ受け入れ、飲み込み、彼にもっと欲しいと瞳で訴える。
言葉はいらない。私の瞳孔の開き具合、呼吸のリズム、体温の変化。
それだけで、彼は私の欲求を全て理解してくれる。
ドクン、ドクン、ドクン。
足首のアンクレットから伝わる、彼の心音。
それが、今の私の心臓を動かすペースメーカーだった。
彼が興奮して脈が速くなれば、私も熱くなる。
彼が穏やかになれば、私も眠くなる。
完全に同期していた。
(……私、壊れちゃったのかな)
ふと、そんな思考が過る。
二十歳を過ぎた大人が、服も着ず、歩きもせず、食事さえ口移しで与えられている。
これは「生活」ではない。「飼育」だ。
魔女としての誇りは? 人間としての尊厳は?
でも、その疑問はすぐに霧の中に消えた。
ルシウスが塔の周囲に散布しているという、微弱な精神干渉波の影響かもしれない。
あるいは、アルフォンスが毎日飲ませてくれる紅茶に含まれる、過剰な愛情という名の毒のせいかもしれない。 どちらにせよ、今の私にとって「自立」という言葉は、遠い異国の言語のように響くだけだった。
「……アルフォンス、もっと」
「はい、マイ・ロード。望むままに」
食事の後、着替えの時間になっても、私はソファから動かなかった。
アルフォンスがクローゼットから選んできたのは、昨日のような拘束具じみたドレスではなく、肌触りの良いシルクのガウンだった。
「今日はリラックスしてお過ごしください。……戦闘に備えて、英気を養う必要がありますから」
彼はそう言って、私にガウンを羽織らせた。
袖を通すことさえ、彼がやってくれる。
私は人形のように手を挙げ、されるがままになっている。
「……ねえ、アルフォンス」
「はい」
「私、このまま立てなくなっちゃうかも」
私は自分の足を見下ろした。
白く、細く、筋肉が落ちて華奢になった足。
アンクレットの銀色が、病的な白さに映えている。
最後に自分の足で走ったのはいつだろう。
もう思い出せない。
「ご心配なく。貴女が歩く必要など、一生ありませんから」
アルフォンスは私の足元に跪き、素足を両手で包み込んだ。温かい掌。
彼の手が触れると、足先の冷えが一瞬で消える。
「貴女が行きたい場所があれば、私が抱えてお連れします。貴女が見たい景色があれば、私が切り取ってきます。……貴女はこの塔の中で、ただ美しく呼吸をしていてくださればいいのです」
彼は崇拝するように、私の足の甲に頬ずりをした。
その目は、狂信者のそれだった。
私が無力であればあるほど、彼の存在価値は高まる。 私が何もできなくなればなるほど、彼の支配欲は満たされる。
「うん。分かった」
私は彼の頭を撫でた。
銀色の髪はサラサラとしていて、指に絡みつく感触が心地いい。
「じゃあ、トイレ」
「喜んでお連れします」
彼は即座に私を抱き上げ、トイレへと向かった。
ドアを開け、便座に座らせ、終わるまで外で待機し(以前は中で見守ろうとしたが、さすがにそれは断固拒否した)、終わればまた抱き上げて、手を洗わせてくれる。徹底している。
ここまでされると、羞恥心すら麻痺してくる。
むしろ、彼がいなければ用も足せないという事実に、倒錯的な興奮すら覚え始めていた。
(……私、もうダメ人間だ)
鏡に映った自分を見る。
髪は艶やかで、肌は発光するように白く、瞳は潤んでいる。
誰もが振り返るような美貌。
けれど、その瞳には「意志」の光がない。
あるのは、所有者に愛されるだけの、空虚な陶酔だけ。
これが、ルシウスの狙いなのだろうか。
精神を脆くし、依存させ、魔女としての牙を抜くこと。
だとしたら、作戦は大成功だ。
今の私は、ルシウスと戦うどころか、アルフォンスがいなければ呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうだから。
でも。
「……アルフォンス」
「はい」
「あんた、幸せ?」
彼に抱かれてリビングに戻る途中、私は問いかけた。
彼は少し驚いたように私を見下ろし、そして破顔した。
「ええ。これ以上の幸福は、地獄にも天国にも存在しません」
その笑顔に、嘘はなかった。
過去のトラウマに苦しみ、汚れた自分を呪っていた彼が、今、私という存在を通して生きる意味を見出している。私がダメになればなるほど、彼は救われるのだ。
(なら、いいか)
私は彼の首に腕を回し、強くしがみついた。
共依存? 破滅的? 知ったことか。
世界中が私たちを異常だと指差しても、この腕の中の温もりだけは真実だ。
「……ずっと、そばにいてね」
「誓います。……死が二人を分かつまで、いいえ、分かたれた後も」
彼は私をソファに戻すと、また甲斐甲斐しく紅茶を淹れ始めた。
その背中を見つめながら、私はゆっくりとまぶたを閉じた。
アンクレットから伝わる彼の鼓動が、子守唄のように響く。
窓の外では、不気味な赤い月が、私たちを見下ろしているとも知らずに。
あるいは、塔の壁に張り付いた無数の「蜘蛛」たちが、この堕落しきった光景を映像として記録し、主人の元へ送信しているとも知らずに。
私の世界は今、半径数メートル――アルフォンスの腕の中だけで完結していた。
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