第61話「秘密の回廊、鏡の中の双子」
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ルシウスからの「招待状」が届いた直後、私の左足首にあるアンクレットが、高熱を帯びたように脈打ち始めた。
ジクン、ジクン、と。
まるで、どこかへ導こうとする羅針盤のように。
「……アルフォンス、足が……熱い」
「恐れることはありません、エルカ様。……どうやら、このアンクレットが『鍵』となって、最後の扉が開くようです」
アルフォンスは割れた窓ガラスを一瞥もしないまま、私を抱き上げた。
彼は迷うことなく、ダイニングルームの奥にある巨大な飾り棚へと歩み寄る。
彼が棚の縁に手を触れると、重厚な木製の家具が音もなくスライドし、その奥に暗い階段が現れた。
「……こんな場所、あったの?」
「塔の最上階、『真実の間』へと続く隠し階段です。本来なら立ち入る必要のない場所でしたが……ルシウスが動いた今、貴女にすべてをお見せする時が来たようです」
彼は静かに階段を上り始めた。
カツ、カツ、カツ。
彼の靴音だけが響く狭い回廊。
空気は冷たく、どこか古い紙と、雨の日の鉄錆のような匂いがした。
「……ねえ、アルフォンス」
「はい」
「あんた、震えてる?」
私の背中に回された彼の手から、微かな振動が伝わってくる。
あの無敵の執事が、怯えている?
いや、違う。これは……「恥」だ。
自分の最も見られたくない汚点、隠し通したかった過去を、最愛の人に晒さなければならないという、強烈な羞恥と葛藤。
「……お見苦しいところを。ですが、どうか目を逸らさないでください」
階段を上りきると、そこには円形の石造りの部屋があった。窓はない。家具もない。
部屋の中央に、巨大な「鏡」だけが鎮座している。
水銀のように波打つその鏡面は、私たちの姿を映していなかった。
「これは『過去視の鏡』。……私の記憶と、貴女の記憶が交差する場所です」
アルフォンスが鏡の前に立ち、私をゆっくりと床に降ろした。
私の足が床についた瞬間、アンクレットが共鳴音を放ち、鏡面が激しく渦巻いた。
ザアアアアア……。
雨の音が聞こえる。
鏡の中に、灰色の景色が広がった。
「……あ」
私は息を呑んだ。そこは、見覚えのある場所だった。
ドレスの試着で見せられた幻影。
そして、写真に写っていたあの場所。
王都のスラム街。ゴミ捨て場の片隅。
そして、泥水の中にうずくまる、銀髪の少年。
『……汚いお兄さんね』
幼い私の声が響く。
鏡の中の私は、無遠慮に少年に近づき、白いハンカチを差し出した。
『……綺麗になりなよ』
少年が顔を上げる。
泥と血にまみれた顔の中で、アイスブルーの瞳だけが、信じられないものを見るように見開かれている。絶望と、諦めと、そして一筋の光を見つけたような縋る目。
「……やっぱり、あんただったんだ」
私は隣に立つアルフォンスを見上げた。
彼は苦痛に顔を歪めながら、直立不動で鏡を見つめている。
「……はい」
彼の声は、血を吐くように掠れていた。
「あの日……ルシウスの支配に抵抗していた私の家族は、『反体制派』として目をつけられました。ルシウスは魔力の高かった私を拉致し、『呪印』の初期実験体として理性を奪ったのです。……そして私は、命じられるままに『反体制派の粛清』を行い……罪のない同志の家族たちを、そして、私自身の両親と妹までをも、この手で焼き殺しました」
「……え」
あまりにも凄惨な事実に、私の呼吸が止まった。
彼は死のうとしていたのではない。
自らの手で全てを奪わされ、絶望の底で「死を待つしかなかった」のだ。
「精神が完全に崩壊した私は、『使い物にならない欠陥品』として全身の骨を砕かれ、ゴミとして廃棄されました。……世界を呪い、自分を呪い、泥の中で腐っていくのがお似合いだと……そう思っていました。貴女が現れるまでは」
鏡の中の私は、少年の顔を拭い、雨を弾く結界を張った。
そして、痛がる少年の肩に手をかざし、淡い光――『回復魔法』をかけた。
ほんの数分間の出来事。
私が去った後、少年は呆然とハンカチを握りしめ、私の背中を見送っていた。
そこで終われば、ただの「いい話」だった。
けれど、鏡の映像は終わらなかった。
「……ここからです、エルカ様。私の本当の地獄が始まったのは」
映像が変わる。私が去った直後。
コツ、コツ、と優雅な足音が近づいてきた。
現れたのは、仕立ての良いスーツを着た男――
ルシウス・ヴァイゼだ。
十年前の彼は、今よりも少し若いが、その爬虫類のような冷たい目は変わらない。
『……おや。まだ生きていたのかい?』
ルシウスは倒れている少年を見下ろし、ゴミを見る目で笑った。
『息の根を止めたはずだったのに。……ん?』
ルシウスが少年の肩に触れた。
そこは、さっき私が回復魔法をかけた場所だ。
砕かれていたはずの骨が繋がり、傷口が塞がっている。
『傷が治っている……?
誰だか知らないが、こんな廃棄物に回復魔法をかける物好きがいたのか』
ルシウスの目が、三日月のように歪んだ。
それは、興味を持った研究者の目だった。
『素晴らしい生命力だ。いや、魔法による強制治癒か。……これなら、「耐えられる」かもしれないな』
「……え?」
私は背筋が凍った。
ルシウスが、少年の胸倉を掴み上げた。
『おめでとう、少年。君はリサイクル決定だ。
これだけの治癒を受けて肉体を保てるなら……私の『完成版の呪印』の負荷にも耐えうる素体になる』
「……っ! やめて!」
私は思わず叫んだ。
ルシウスが、少年の胸元を裂き、真っ赤に焼けたナイフのようなもので、直接肌に紋様を深く刻み込み始めたからだ。
『ギャアアアアアアアッ!!』
少年の絶叫が響く。焼ける肉の音。噴き出す血。それは拷問だった。
ただ痛めつけるためではない。
魂の根幹に、絶対服従の命令を焼き付けるための儀式。
『君は今日から、私の完璧な猟犬だ。……死ぬことは許さない。私のために人を殺し、汚れ仕事をこなし、最後は誰にも知られず野垂れ死になさい』
ルシウスは血まみれの少年の髪を掴み、耳元で囁いた。
『あの通りすがりの魔法使いを恨むんだね。
その余計な慈悲がなければ、君はここで楽に死ねたのに』
映像がブラックアウトする。
後に残ったのは、私の悲鳴と、アルフォンスの荒い呼吸音だけだった。
「……これが、真実です」
アルフォンスが、ゆっくりと自分のシャツのボタンを外した。はだけた胸元。
心臓の真上に、醜く焼け爛れた古傷が浮かびあがった。
それは、二匹の蛇が絡み合う『双蛇』の紋章。
「……皮肉な話です。貴女の優しさが、貴女の魔法が……私を死なせてくれなかった」
彼は自嘲気味に笑った。
その笑顔は、泣いているよりも辛そうだった。
「あの回復魔法のおかげで、私はルシウスに『リサイクル可能なゴミ』と判断された。完成版の呪印を刻まれ、自我を封じられ……今度は本当の『掃除屋』として、何百人もの命を奪うために使われたのです。大人も、子供も……」
彼は胸元の傷を強く握りしめた。
「私は汚れています。……貴女がくれたハンカチで拭っても、拭いきれないほどの鮮血と罪悪感で、私の魂は腐臭を放っているのです」
彼は膝をつき、床に手をついて頭を垂れた。
それは執事としての礼ではない。
罪人が、断罪を待つ姿だった。
「エルカ様。……こんな薄汚い人殺しが、貴女の隣にいる資格などありません。
あの日、私を助けたことが間違いだったのです。
どうぞ、軽蔑してください。罵ってください。……私を、捨ててください」
彼の肩が震えている。ずっと怖かったのだ。
完璧な執事を演じていたのも、潔癖症なまでに掃除をしていたのも、すべてはこの「汚れ」を隠すため。
私に知られて、嫌われることを何よりも恐れていたのだ。
「……バカね」
私は彼に歩み寄った。
そして、跪く彼の頭を、優しく抱きしめた。
「……え?」
「あんたが人殺しだろうと、私が余計なことをしてあんたを地獄に落とした張本人だろうと……関係ないわよ」
私は彼を見下ろした。
眼鏡が少しズレて、涙で滲んだアイスブルーの瞳が、呆然と私を見上げている。
「私だって、ゴミ屋敷の魔女よ? 似たもの同士じゃない」
「……ですが、私は……!」
「黙りなさい。……ルシウスのせいよ。全部、あいつが悪いの」
私は彼の手を取り、自分の左足のアンクレットに触れさせた。ドクン、と二人の脈動が重なる。
私の魔法が彼を生かし、その命が汚されたのなら、それを浄化するのも私の役目だ。
「……アルフォンス。顔を上げて」
私の命令に、彼は吸い寄せられるように顔を上げた。
私は彼の手のひらを、自分の頬に押し当てた。
その手は震えていたけれど、確かに温かかった。
「私があんたを拾ったの。十年前も、一年前も。
……だから、あんたの魂の所有権は私にある。ルシウスなんかに渡さないし、あんたが勝手に捨てることも許さない」
私は強く宣言した。不思議と、力が湧いてきた。
守られているだけのお姫様気分は、もう終わりだ。
彼がこんなにも傷ついて、それでも私に尽くしてくれていたと知って、どうして黙っていられようか。
「その呪い、私が解いてあげる。……あんたが私を磨いてくれたように、今度は私が、あんたのその汚い傷跡を、跡形もなく消してあげるわ」
私の言葉に、アルフォンスの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは宝石のように美しく、床に落ちて弾けた。
「……ああ、私の神様……」
彼は私の腰に腕を回し、縋り付くように顔を埋めた。
「一生、お仕えします。……この命が尽き、魂が砕け散ろうとも、貴女だけが私の主です」
彼の慟哭が、部屋に響く。
鏡の中の過去の映像は、いつの間にか消えていた。
代わりに鏡に映っていたのは、泣きじゃくる銀髪の青年と、それを慈愛に満ちた目で見つめる、黒髪の魔女の姿だった。
これで、すべてのピースが揃った。
彼の異常な献身の理由も、ルシウスとの因縁も。
そして、私たちがこれから為すべきことも。
「……行きましょう、アルフォンス」
私は彼の涙を指で拭った。
「招待状の返事をしなくちゃね。……『ゴミの分別は終わりましたか?』って、あの古狸に教えてあげましょう」
アルフォンスは立ち上がり、眼鏡をかけ直した。
その目にはもう、迷いも恐怖もなかった。
あるのは、主人の敵を殲滅するという、静かで強烈な殺意と忠誠心だけ。
「御意。……最高のお掃除道具を、ご用意いたします」
二人の影が重なり、一つの巨大な影となって、塔の出口へと伸びていった。
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