第60話「一周年記念の「アンクレット」」
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塔のダイニングルームは、今夜、かつてないほど甘美で、どこか背徳的な空気に満たされていた。
豪奢なシャンデリアの輝きを落とし、揺らめくキャンドルの炎だけが、向かい合う二人の影を壁に映し出している。
テーブルには、私の好物をこれでもかと詰め込んだフルコースの残骸。
そして、グラスには最高級のヴィンテージワインが、血のように艶やかに揺れていた。
「……んぅ、おいしかった。もう食べられない……」
私が満足げにほうっと息を吐くと、向かいの席で給仕をしていたアルフォンスが、目を細めて蕩けるように微笑んだ。
今日の彼は、いつもの実務的な燕尾服ではない。
さらに格調高い、夜会用のミッドナイトブルーの礼服を纏っている。
銀髪は完璧に撫で付けられ、普段は冷徹な光を宿す眼鏡の奥の瞳が、今夜は熱を帯びた「男」の色を隠そうともしていない。
「光栄です、エルカ様。貴女の胃袋を満たし、その美しい唇を満足させることこそ、執事の至上の喜びですから」
彼は優雅に立ち上がると、私の元へ歩み寄り、
テーブルナプキンで私の口元を拭った。
その指先が、わざとらしく唇の端をなぞる。
「……甘いですね。ソースの味よりも、貴女自身の蜜の味がしそうだ」
「……っ、からかわないでよ」
「からかってなどいません。それにしても……今日は特別に愛らしい。そのドレス、私が選んだ甲斐がありました」
彼が用意したのは、背中が大胆に開いた深紅のイブニングドレスだった。
肌の白さが際立ち、まるで自分自身がプレゼントの包装紙になったかのような錯覚に陥る。
「今日は何の日か、お忘れではありませんね?」
「……忘れるわけないでしょ」
私は少し顔を背け、グラスの脚を指でなぞった。
「あんたがこの塔に来て……私を『掃除』し始めてから、ちょうど一年」
「ええ。ゴミの山から貴女という原石を発掘し、磨き上げ、人間らしい生活ができるように調教……失礼、教育する日々。実に充実した一年でした」
「調教って言ったわね今!?」
私が抗議しようとすると、彼はくすりと笑い、
私の手を取って手の甲に口づけを落とした。
「ですが、感謝しているのは私の方です。……貴女という生きる意味を与えてくださった」
その声があまりに真摯で、甘くて、私は反論を飲み込んだ。
この一年で、私の生活は激変した。
孤独な引きこもり魔女から、世界で一番過保護な執事に愛される「お姫様」へ。
自由はなくなったけれど、この温かい檻の中での生活を、私はもう手放せそうになかった。
「エルカ様。私からも、感謝の印として……贈り物をさせていただきたいのですが」
アルフォンスが恭しく一礼し、懐から小さなベルベットの箱を取り出した。
心臓がトクンと跳ねる。
「……プレゼント?またドレス?」
「いいえ。もっと……貴女を私に繋ぎ止めるためのものです」
彼が近づき、私の椅子の前で片膝をついた。
まるで求婚する騎士のような、あるいは忠誠を誓う下僕のような姿勢。
パカッ、と箱が開けられる。
「……きれい」
そこに収まっていたのは、繊細な銀細工のチェーンだった。
月光を編み込んだように白く輝き、所々に小さなアメジスト――私の瞳と同じ色の宝石が散りばめられている。ブレスレットにしては大きく、ネックレスにしては短い。
「アンクレットです」
アルフォンスが、ねっとりとした熱っぽい瞳で見上げてきた。
「以前、首輪を贈らせていただきましたね。あれは貴女の『呼吸』と『言葉』を私の管理下に置くためのものでした」
「……言い方が怖いのよ」
「そしてこれは……貴女の『歩み』を支配するためのものです」
彼は箱をサイドテーブルに置き、白い手袋をゆっくりと、焦らすように外した。
露わになった素手が、私のドレスの裾に触れる。
「失礼します」
彼の手が、スカートの布地を捲り上げ、私の左足首を包み込んだ。
ビクッ、と体が反応する。
彼の手は冷たいようでいて、芯の部分が溶けるように熱い。
骨ばった男性的な指が、くるぶしを愛撫するように撫で回す。
「……んっ……」
「足を、こちらへ」
私は誘われるままに、左足を彼に預けた。
彼は私の足を自分の太腿の上に乗せると、銀の鎖を足首に回した。
冷やりとした金属の感触。
それが、彼の体温と混じり合い、肌に吸い付くように馴染んでいく。
「このアンクレットには、特殊な『回廊』の魔法が編み込まれています」
彼は留め具を慎重に操作しながら、囁くように説明した。その顔が近い。吐息がふくらはぎにかかる。
「貴女がこの塔から一歩でも外へ出ようとすれば、鎖が千切れるほど重くなり、貴女をその場に縫い止めます。……あるいは、私の腕の中へと強制転移させます」
「……それって、足枷じゃない」
「ええ。愛という名の、重くて甘い足枷です。……もう二度と、私の目の届かない場所へ走り出せないように」
カチリ。
小さな音が響いた。
留め具が噛み合い、鍵がかかる音。
その瞬間、足首からドクンッという強い脈動が伝わってきた。
「……っ!?」
私は思わず足を引っ込めそうになったが、アルフォンスがそれを許さず、強く掴んだまま離さない。それどころか、彼は私の足首に唇を寄せた。
「……アルフォンス?」
「感じますか?これが私の『命』の音です」
チュッ……。
彼が、くるぶしの骨のあたりに口づけを落とした。 ただのキスじゃない。吸い付くような、所有印を刻み込むような濃厚なキス。
足の先から電流が走り、脳髄が痺れる。
「この鎖を通じて、私の生命力と、貴女の魔力回路を直結させました。これでもう、貴女は私の心臓の音が聞こえる範囲でしか生きられない」
彼は舌先で、銀の鎖をなぞった。 濡れた感触。
執事としての節度など、とうに捨て去った獣の仕草。
「……あ、んぅ……っ!だめ、そこ……」
「綺麗だ……。この細い足首も、白磁のような肌も、すべて私に繋がれている……」
彼は恍惚とした表情で私を見上げた。
その瞳は潤み、欲望と崇拝がないまぜになった色をしていた。
「これで、首も、足も、私のものです。貴女はもう、私の許可なく一歩たりとも動けない」
「……馬鹿な人」
私は熱くなった顔を手で仰ぎながら、彼の銀髪に指を絡めた。
自由を奪われることは、怖いはずなのに。
今はなぜか、この鎖が「命綱」のように思えて、
たまらなく愛おしい。
彼に縛られることが、これほど心地よいなんて。
「いいわよ。……あんたがそこまで言うなら、私は一生、あんたの鳥籠の中で飼われてあげる」
「エルカ様……!」
アルフォンスが感極まったように立ち上がった。
彼は私を椅子から抱き上げると、そのままテーブルの上に私を座らせた。
視線の高さが逆転する。
彼が私の両太腿の間に体を滑り込ませ、逃げ場を塞ぐ。
「……愛しています。私の、可愛いお人形」
「……私もよ。重くて、変態で、過保護な私の執事」
私は彼の方へ身を乗り出し、その首に腕を回した。拒む理由なんて一つもない。
私たちは互いの重力に引かれ合うように、自然と顔を近づけた。
――そして、唇が重なった。
「ん……っ……」
触れた瞬間、世界が溶けた。 甘い。
ワインの残り香と、彼自身の媚薬のような匂い。
最初は優しく、ついばむようなキスだった。
けれど、アルフォンスの腕が私の背中に回り、強く抱きしめられた瞬間、それは激しい略奪へと変わった。
「ふ、ぁ……んむ……っ!」
彼が私の唇を割り、舌を滑り込ませてくる。
絡み合う舌先。
呼吸する隙間さえ与えられない。
私のすべてを飲み干そうとするかのような、渇望に満ちた口づけ。
頭が真っ白になる。
足首のアンクレットが熱く脈打ち、彼の心音と私の心音が完全にシンクロしていく。
ドクン、ドクン、ドクン。
境界線が消える。
私が彼で、彼が私になるような、魂が溶け合う感覚。
「……はぁ、っ……ある、ふぉんす……」
ようやく唇が離れた時、私たちは二人とも肩で息をしていた。
銀色の糸が、私たちの唇の間でとろりと引いて切れる。
その光景があまりに淫靡で、私はカッと顔を赤らめた。
「……顔、真っ赤ですよ」
「う、うるさい……あんたのせいでしょ……」
「ええ。責任を取って、今夜は朝まで離しません」
アルフォンスは蕩けるような笑顔で囁き、私の首筋に顔を埋めた。
チュッ、と吸い付く音がする。 幸せだった。
毒に侵されているわけでもないのに、頭がふわふわする。
外の世界なんて関係ない。
この塔の中で、こうして二人で腐っていけるなら、それは最高のハッピーエンドだ――。
そう、思った瞬間だった。
ヒュオォォォォォ……ッ!!
窓の外から、空気を切り裂く風切り音が聞こえた。
ただの風ではない。もっと鋭利で、不快な高周波。
塔を覆っていた守護結界の霧が、まるで熱したナイフでバターを切るように、一直線に切り裂かれたのだ。
「……ッ!?」
アルフォンスが弾かれたように私から離れ、
私を背に庇って窓際へ立った。
その背中から、先ほどまでの甘い雰囲気は一瞬で消え失せ、殺気立った「掃除屋」の気配が立ち上る。
「……結界突破。物理干渉ではありません。これは……『招待状』ですね」
ガツンッ! 何かが窓ガラスを突き破り、床に突き刺さった。
それは、漆黒の矢だった。
矢の先端には、一枚の分厚い封筒が結び付けられている。
封蝋には、見覚えのある紋章――『双蛇』の刻印。
「……ルシウス」
私がその名を呟くと、足首のアンクレットがジリリと熱を持った。
まるで、敵の接近を警告するように。
さっきまでの甘い熱が、冷たい恐怖へと変わっていく。
アルフォンスは無言で矢を引き抜き、封筒を開封した。
中から出てきたのは、優雅な筆記体で書かれた、一枚のカード。
『愛しい我が友、アルフォンス・クライン君へ。 そして、その飼い主であるエルカ・シュヴァルツ嬢へ。 一周年、おめでとう。 君たちの「ままごと」も、そろそろフィナーレの時間だ。 来たる満月の夜、魔法省本庁にて待つ。 拒否すれば――その塔を、中身ごと「焼却処分」とする』
読み上げたアルフォンスの声は、氷のように冷たかった。
彼はカードを一瞬で握りつぶし、蒼い炎で灰に変えた。
「……あの古狸め。私の記念日を汚すとは」
彼が振り返る。
その表情は、私に向けられるいつもの慈愛に満ちたものではなかった。
敵を屠るためだけに研ぎ澄まされた、冷酷な刃の顔。
「エルカ様。……楽しい夜は、おしまいです」
彼は私に歩み寄り、再び跪いた。
そして、まだ真新しいアンクレットに手を添え、
何か呪文のようなものを囁いた。
足首が、ギュッと締め付けられる。
「このアンクレットは、貴女を守る最後の砦になります。……何があっても、絶対に外さないでください」
「アルフォンス……?」
「行きますよ。……大掃除の時間です」
窓の外、切り裂かれた霧の向こうに、不気味な赤い月が昇り始めていた。
私の足首で、彼の命の音が、早鐘のように警鐘を鳴らし続けていた。
私たちの甘い楽園は、唐突に終わりを告げたのだ。
読んでくださってありがとうございます。
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