第59話「肖像画の嫉妬:過去の男?」
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その日、塔の『開かずの間』――かつて私が物置として使い、そのまま記憶の彼方へ葬り去っていた最上階の屋根裏部屋は、氷点下の冷気に包まれていた。
「……エルカ様」
「は、はい」
「これは、一体どういうことでしょうか?」
アルフォンスの声は、普段の甘く蕩けるような低音ではない。
地獄の底から響いてくるような、絶対零度の響きだ。
彼の手には、埃まみれの木箱から出てきた一枚の『魔法写真』が握られている。
私がまだ十歳くらいの頃の写真だ。
場所はどこかの路地裏。
雨に濡れた私が、泥だらけの銀髪の少年にハンカチを差し出し、頭を撫でている場面が、ループ映像のように動いている。
「……えーと。懐かしいわね、それ」
「懐かしい、ではありません」
パキパキパキ……。
アルフォンスの足元から、床板が凍りついていく。部屋の空気が張り詰め、窓ガラスが共鳴して震え始めた。
「私は今、猛烈に不快です。……この、薄汚いドブネズミのようなオスガキは、どこのどなたですか?」
彼は写真の中の少年を指差した。
白い手袋越しでも触りたくないと言わんばかりの、軽蔑と憎悪に満ちた指先だ。
「私の聖域である貴女の隣に、これほど無遠慮に近づき、あまつさえ……貴女の神聖なる御手を、その泥だらけの頭で汚している。……不潔極まりない。万死に値します」
彼は本気で嫉妬していた。
十年前の、しかも写真の中の子供相手に。
先日、ドレスの試着をした時に見せた「不快感」が、明確な形を持った敵意となって爆発しているようだ。
「ちょっと落ち着いてよ。ただの昔話じゃない」
「過去だろうと未来だろうと、貴女の隣に異物が存在した事実が許せないのです」
アルフォンスは眼鏡の奥の瞳をギラつかせ、写真の中の少年に殺気を飛ばした。
「見てください、この品のない目つき。育ちの悪さが滲み出ています。薄汚い。不潔だ。貴女の美しさを引き立てる背景としても三流以下です」
「……そんなに言わなくてもいいじゃない」
私は少しムッとして、彼の手から写真を奪い返そうとした。けれど、彼はヒラリとそれをかわした。
「返してください」
「いいえ。これは『有害指定遺物』として没収、および焼却処分とさせていただきます」
「はぁ!? 私の思い出なんだけど!」
「貴女の脳内メモリに、私以外の男のデータが1バイトでも残っていることが我慢ならないのです」
彼は反対の手で蒼い炎を灯した。本気だ。
この嫉妬深い執事は、私の過去すらも「掃除」しようとしている。
「待って! その子、私の命の恩人……ってわけじゃないけど、大事な子なのよ!」
「……ほう?」
炎が揺らめいた。アルフォンスの目が、スッと細められる。
「大事、とは?」
「……私が初めて、魔法で『誰かを助けたい』と思った相手だから」
私は写真の中の、うずくまる少年を見つめた。
顔は泥と前髪でよく見えないけれど、痩せこけた体と、雨に打たれて震える姿は鮮明に覚えている。
「あの日、雨が降ってたの。……ドレスの時にも話したでしょ? 十年前のゴミ捨て場よ」
「……ああ、あの不愉快な幻影の話ですか」
「そう。この子はゴミ捨て場の隅っこで、死にかけてた。誰にも見向きもされずに、ただ世界を呪っているような目で空を見てた」
私の言葉に、アルフォンスの眉がピクリと動いた。
彼の手の中の炎が、小さくなる。
「……ゴミ捨て場、ですか」
「うん。私は通りがかっただけだったんだけど……なんか、放っておけなくて」
当時の私は、まだ魔力を上手く制御できず、周囲から「天才だが変わり者」として敬遠されていた。孤独だった。
だからこそ、泥の中で一人ぼっちで震える彼に、自分を重ねたのかもしれない。
『……汚いお兄さんね』
『……綺麗になりなよ』
あの時かけた言葉。
「私、傘を持ってなかったから、下手くそな生活魔法で雨を弾いてあげて……あと、怪我をしてたから『回復魔法』もかけてあげたの」
「……回復、魔法……」
アルフォンスの声が微かに震えた。
彼の手が、写真の端を強く握りしめる。
「ほんの数分間の出来事よ。名前も聞かずに別れたけど、彼が最後に向けた、驚いたような、縋るような視線だけはずっと心に残ってたの」
「……あの子、どうなったかな。生きてるといいんだけど」
私が呟くと、アルフォンスは沈黙した。
燃え盛っていた嫉妬の炎が、ふっと消える。
彼は写真を凝視したまま、石像のように固まっていた。
(……まさか)
アルフォンスの脳内で、断片的に散らばっていたピースが一つに繋がる。
十年前。雨の降るスラム街。
任務に失敗し、全身傷だらけで組織から廃棄された日。
泥水をすすりながら、「このまま腐って死ぬのだ」と絶望していた自分の前に現れた、小さな魔女。
あの時、雨が止んだのは偶然ではなかった?
あの時、死ぬはずだった傷が塞がったのは、自然治癒ではなかった?
(……この写真は、あの時の……私だというのですか?)
彼は戦慄した。
エルカが大切にしていた思い出の少年。
自分が嫉妬し、焼き払おうとした「不潔な異物」。
それが、あろうことか「過去の自分自身」だったなんて。
「……ッ」
アルフォンスは呻き、写真を握りしめる手に力を込めた。
羞恥心。猛烈な恥が、彼の全身を駆け巡った。
汚い。
写真の中の自分は、あまりにも惨めだった。
今の完璧に磨き上げられた執事姿とは程遠い、泥と血と汚物に塗れた姿。
こんな「ゴミ」が、幼いエルカ様の隣にいたなんて。
あまつさえ、彼女のハンカチを汚していたなんて。
(……消したい)
嫉妬とは別の意味で、彼はこの写真を消滅させたくなった。
こんな無様な姿、彼女に見られていていいはずがない。私は完璧でなければならないのだ。
彼女が依存し、崇拝するに値する、美しく清潔な執事でなければならないのだ。
「……やはり、処分しましょう」
アルフォンスは低い声で言った。
今度は怒りではない。焦燥と、隠蔽工作の必死さが滲んでいた。
「こんな不衛生な写真、持っているだけで病気が移ります。エルカ様の美しい記憶には、薄汚い浮浪児など必要ありません」
「えぇー? なんでよ。いい写真じゃない」
私は彼の手首を掴んで止めた。
「よく見てよ。この子、泥だらけだけど……よく見ると、結構綺麗な顔してるのよ?」
「……は?」
「目がね、すごく綺麗なアイスブルーなの。……ほら、今のあんたにちょっと似てる」
私が無邪気に言うと、アルフォンスは雷に打たれたように硬直した。
「……に、似て……いますか?」
「うん。目つきの悪さとかそっくり。……ふふっ、この子も磨けば、あんたみたいにいい男になったかもね」
私が笑うと、アルフォンスの顔がみるみるうちに赤く染まっていった。
耳まで真っ赤だ。あの鉄仮面のような執事が、狼狽している。
「……か、可愛かった……ですか?」
「え? うん、まあ。捨て猫みたいで可愛かったわよ」
その一言が、決定打だった。
アルフォンスは膝から崩れ落ちるように床に手をついた。
「……くっ、不覚……!」
彼は震える手で眼鏡の位置を直した。
その口元が、だらしなく緩みかけているのを、必死に引き締めている。
(……私が、可愛かった……? エルカ様が、過去の私を……可愛いと……?)
歓喜と羞恥の板挟み。
過去の自分は「汚物」だと思っていた。
けれど、最愛の主人がそれを「可愛い」と肯定した瞬間、その汚物は「聖遺物」へと昇華された。
「……気が変わりました」
アルフォンスは立ち上がり、写真を恭しく両手で掲げ持った。
まるで、王冠でも扱うかのような手つきだ。
「この写真は、私が管理します。……厳重に、温度湿度が管理された特別金庫にて、永久保存させていただきます」
「え? 捨てるんじゃないの?」
「とんでもない! 貴女が『可愛い』と仰ったのです。ならばこれは、国宝級の価値を持つ芸術作品です」
彼は素早く懐からシルクのハンカチを取り出し、写真の表面についた埃を優しく拭き取った。
さっきまでの殺意が嘘のような、慈愛に満ちた手つき。
「……ただし、一つだけ訂正させてください」
彼は写真を懐の奥深くにしまい込むと、私に近づき、そっと抱き寄せた。
レモンと蜜蝋の香り。
彼の体温が、私の体を包み込む。
「今の私の方が、一億倍、貴女を愛していますし……貴女に似合いますよ」
「……はいはい。張り合わないの」
私は苦笑して、彼の背中をポンポンと叩いた。
彼がなぜ、会ったこともない(と思っている)少年にそこまで執着するのかは分からない。
でも、彼のこの面倒くさい独占欲が、私には心地よかった。
「……掃除、続きやる?」
「いいえ。今日はもう十分です」
アルフォンスは私を離し、どこか含みのある笑顔で言った。
「素晴らしいお宝が見つかりましたからね。……これ以上ない収穫です」
彼は上機嫌で鼻歌交じりに片付けを再開した。
そのポケットの中で、写真の中の少年――過去のアルフォンスが、安堵したように眠っている気がした。
その夜。
私が寝静まった後、アルフォンスは自室のデスクで、例の写真と向き合っていた。
照明を落とした部屋で、魔導ルーペを使い、写真の細部を解析する。
「……間違いありませんね」
彼の表情からは、昼間のデレデレした様子は消え失せ、冷徹な「掃除屋」の顔が浮かんでいた。
彼が見ていたのは、自分やエルカの姿ではない。
写真の背景――雨に煙る路地裏の、さらに奥に写り込んでいた「紋章」だ。
壁の落書きのように見えるそれは、二匹の蛇が絡み合う意匠。
魔法省の裏組織、特務執行部隊『双蛇』の隠しマーク。
そしてその場所は――。
「……王都第十三区画。廃棄処理場」
アルフォンスは低く呟いた。
そこは、かつてルシウス・ヴァイゼが、用済みになった手駒や、都合の悪い人間を闇に葬ってきた処刑場だ。
十年前、アルフォンス自身もそこで「処理」されかけた。
「……やはり、繋がりましたか」
アルフォンスは写真の裏面を指でなぞった。
この写真が、なぜエルカの手元にあったのか。
単なる偶然ではない。
エルカ・シュヴァルツという存在自体が、あの場所――ルシウスの闇と、何らかの形でリンクしている。
「ルシウス……。貴方は、十年前から彼女を狙っていたのですね」
写真の中で微笑む幼いエルカ。
その無垢な笑顔が、今はひどく危うく見えた。
アルフォンスは写真をアルバムに挟むと、金庫の鍵を回した。
カチリ。
重い音が、宣戦布告のゴングのように響いた。
「……渡しませんよ。過去も、未来も。彼女の全ては、私が管理します」
暗闇の中で、執事の瞳が青白く光った。
それは、獲物を狙う獣の目であり、同時に、宝物を守る守護者の目でもあった。
埃まみれの思い出は、ただのノスタルジーでは終わらない。
それは、これから始まる因縁の戦いの、最初の狼煙だったのだ。
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