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第59話「肖像画の嫉妬:過去の男?」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

その日、塔の『開かずの間』――かつて私が物置として使い、そのまま記憶の彼方へ葬り去っていた最上階の屋根裏部屋は、氷点下の冷気に包まれていた。


「……エルカ様」


「は、はい」


「これは、一体どういうことでしょうか?」


アルフォンスの声は、普段の甘く蕩けるような低音ではない。

地獄の底から響いてくるような、絶対零度の響きだ。

彼の手には、埃まみれの木箱から出てきた一枚の『魔法写真』が握られている。


私がまだ十歳くらいの頃の写真だ。

場所はどこかの路地裏。

雨に濡れた私が、泥だらけの銀髪の少年にハンカチを差し出し、頭を撫でている場面が、ループ映像のように動いている。


「……えーと。懐かしいわね、それ」


「懐かしい、ではありません」


パキパキパキ……。

アルフォンスの足元から、床板が凍りついていく。部屋の空気が張り詰め、窓ガラスが共鳴して震え始めた。


「私は今、猛烈に不快です。……この、薄汚いドブネズミのようなオスガキは、どこのどなたですか?」


彼は写真の中の少年を指差した。

白い手袋越しでも触りたくないと言わんばかりの、軽蔑と憎悪に満ちた指先だ。


「私の聖域である貴女の隣に、これほど無遠慮に近づき、あまつさえ……貴女の神聖なる御手を、その泥だらけの頭で汚している。……不潔極まりない。万死に値します」


彼は本気で嫉妬していた。

十年前の、しかも写真の中の子供相手に。

先日、ドレスの試着をした時に見せた「不快感」が、明確な形を持った敵意となって爆発しているようだ。


「ちょっと落ち着いてよ。ただの昔話じゃない」


「過去だろうと未来だろうと、貴女の隣に異物が存在した事実が許せないのです」


アルフォンスは眼鏡の奥の瞳をギラつかせ、写真の中の少年に殺気を飛ばした。


「見てください、この品のない目つき。育ちの悪さが滲み出ています。薄汚い。不潔だ。貴女の美しさを引き立てる背景としても三流以下です」


「……そんなに言わなくてもいいじゃない」


私は少しムッとして、彼の手から写真を奪い返そうとした。けれど、彼はヒラリとそれをかわした。


「返してください」


「いいえ。これは『有害指定遺物』として没収、および焼却処分とさせていただきます」


「はぁ!? 私の思い出なんだけど!」


「貴女の脳内メモリに、私以外の男のデータが1バイトでも残っていることが我慢ならないのです」


彼は反対の手で蒼い炎を灯した。本気だ。

この嫉妬深い執事は、私の過去すらも「掃除」しようとしている。


「待って! その子、私の命の恩人……ってわけじゃないけど、大事な子なのよ!」


「……ほう?」


炎が揺らめいた。アルフォンスの目が、スッと細められる。


「大事、とは?」


「……私が初めて、魔法で『誰かを助けたい』と思った相手だから」


私は写真の中の、うずくまる少年を見つめた。

顔は泥と前髪でよく見えないけれど、痩せこけた体と、雨に打たれて震える姿は鮮明に覚えている。


「あの日、雨が降ってたの。……ドレスの時にも話したでしょ? 十年前のゴミ捨て場よ」


「……ああ、あの不愉快な幻影の話ですか」


「そう。この子はゴミ捨て場の隅っこで、死にかけてた。誰にも見向きもされずに、ただ世界を呪っているような目で空を見てた」


私の言葉に、アルフォンスの眉がピクリと動いた。

彼の手の中の炎が、小さくなる。


「……ゴミ捨て場、ですか」


「うん。私は通りがかっただけだったんだけど……なんか、放っておけなくて」


当時の私は、まだ魔力を上手く制御できず、周囲から「天才だが変わり者」として敬遠されていた。孤独だった。

だからこそ、泥の中で一人ぼっちで震える彼に、自分を重ねたのかもしれない。


『……汚いお兄さんね』

『……綺麗になりなよ』


あの時かけた言葉。


「私、傘を持ってなかったから、下手くそな生活魔法で雨を弾いてあげて……あと、怪我をしてたから『回復魔法ヒール』もかけてあげたの」


「……回復、魔法……」


アルフォンスの声が微かに震えた。

彼の手が、写真の端を強く握りしめる。


「ほんの数分間の出来事よ。名前も聞かずに別れたけど、彼が最後に向けた、驚いたような、縋るような視線だけはずっと心に残ってたの」


「……あの子、どうなったかな。生きてるといいんだけど」


私が呟くと、アルフォンスは沈黙した。

燃え盛っていた嫉妬の炎が、ふっと消える。

彼は写真を凝視したまま、石像のように固まっていた。


(……まさか)


アルフォンスの脳内で、断片的に散らばっていたピースが一つに繋がる。

十年前。雨の降るスラム街。

任務に失敗し、全身傷だらけで組織から廃棄された日。

泥水をすすりながら、「このまま腐って死ぬのだ」と絶望していた自分の前に現れた、小さな魔女。


あの時、雨が止んだのは偶然ではなかった?

あの時、死ぬはずだった傷が塞がったのは、自然治癒ではなかった?


(……この写真は、あの時の……私だというのですか?)


彼は戦慄した。

エルカが大切にしていた思い出の少年。

自分が嫉妬し、焼き払おうとした「不潔な異物」。

それが、あろうことか「過去の自分自身」だったなんて。


「……ッ」


アルフォンスは呻き、写真を握りしめる手に力を込めた。

羞恥心。猛烈な恥が、彼の全身を駆け巡った。


汚い。

写真の中の自分は、あまりにも惨めだった。

今の完璧に磨き上げられた執事姿とは程遠い、泥と血と汚物に塗れた姿。

こんな「ゴミ」が、幼いエルカ様の隣にいたなんて。

あまつさえ、彼女のハンカチを汚していたなんて。


(……消したい)


嫉妬とは別の意味で、彼はこの写真を消滅させたくなった。

こんな無様な姿、彼女に見られていていいはずがない。私は完璧でなければならないのだ。

彼女が依存し、崇拝するに値する、美しく清潔な執事アイドルでなければならないのだ。


「……やはり、処分しましょう」


アルフォンスは低い声で言った。

今度は怒りではない。焦燥と、隠蔽工作の必死さが滲んでいた。


「こんな不衛生な写真、持っているだけで病気が移ります。エルカ様の美しい記憶には、薄汚い浮浪児など必要ありません」


「えぇー? なんでよ。いい写真じゃない」


私は彼の手首を掴んで止めた。


「よく見てよ。この子、泥だらけだけど……よく見ると、結構綺麗な顔してるのよ?」


「……は?」


「目がね、すごく綺麗なアイスブルーなの。……ほら、今のあんたにちょっと似てる」


私が無邪気に言うと、アルフォンスは雷に打たれたように硬直した。


「……に、似て……いますか?」


「うん。目つきの悪さとかそっくり。……ふふっ、この子も磨けば、あんたみたいにいい男になったかもね」


私が笑うと、アルフォンスの顔がみるみるうちに赤く染まっていった。

耳まで真っ赤だ。あの鉄仮面のような執事が、狼狽している。


「……か、可愛かった……ですか?」


「え? うん、まあ。捨て猫みたいで可愛かったわよ」


その一言が、決定打だった。

アルフォンスは膝から崩れ落ちるように床に手をついた。


「……くっ、不覚……!」


彼は震える手で眼鏡の位置を直した。

その口元が、だらしなく緩みかけているのを、必死に引き締めている。


(……私が、可愛かった……? エルカ様が、過去の私を……可愛いと……?)


歓喜と羞恥の板挟み。

過去の自分は「汚物」だと思っていた。

けれど、最愛の主人がそれを「可愛い」と肯定した瞬間、その汚物は「聖遺物」へと昇華された。


「……気が変わりました」


アルフォンスは立ち上がり、写真を恭しく両手で掲げ持った。

まるで、王冠でも扱うかのような手つきだ。


「この写真は、私が管理します。……厳重に、温度湿度が管理された特別金庫にて、永久保存させていただきます」


「え? 捨てるんじゃないの?」


「とんでもない! 貴女が『可愛い』と仰ったのです。ならばこれは、国宝級の価値を持つ芸術作品です」


彼は素早く懐からシルクのハンカチを取り出し、写真の表面についた埃を優しく拭き取った。

さっきまでの殺意が嘘のような、慈愛に満ちた手つき。


「……ただし、一つだけ訂正させてください」


彼は写真を懐の奥深くにしまい込むと、私に近づき、そっと抱き寄せた。

レモンと蜜蝋の香り。

彼の体温が、私の体を包み込む。


「今の私の方が、一億倍、貴女を愛していますし……貴女に似合いますよ」


「……はいはい。張り合わないの」


私は苦笑して、彼の背中をポンポンと叩いた。

彼がなぜ、会ったこともない(と思っている)少年にそこまで執着するのかは分からない。

でも、彼のこの面倒くさい独占欲が、私には心地よかった。


「……掃除、続きやる?」


「いいえ。今日はもう十分です」


アルフォンスは私を離し、どこか含みのある笑顔で言った。


「素晴らしいお宝が見つかりましたからね。……これ以上ない収穫です」


彼は上機嫌で鼻歌交じりに片付けを再開した。

そのポケットの中で、写真の中の少年――過去のアルフォンスが、安堵したように眠っている気がした。



その夜。

私が寝静まった後、アルフォンスは自室のデスクで、例の写真と向き合っていた。

照明を落とした部屋で、魔導ルーペを使い、写真の細部を解析する。


「……間違いありませんね」


彼の表情からは、昼間のデレデレした様子は消え失せ、冷徹な「掃除屋」の顔が浮かんでいた。

彼が見ていたのは、自分やエルカの姿ではない。

写真の背景――雨に煙る路地裏の、さらに奥に写り込んでいた「紋章」だ。


壁の落書きのように見えるそれは、二匹の蛇が絡み合う意匠。

魔法省の裏組織、特務執行部隊『双蛇アンフィスバエナ』の隠しマーク。

そしてその場所は――。


「……王都第十三区画。廃棄処理場ダスト・シュート


アルフォンスは低く呟いた。

そこは、かつてルシウス・ヴァイゼが、用済みになった手駒や、都合の悪い人間を闇に葬ってきた処刑場だ。

十年前、アルフォンス自身もそこで「処理」されかけた。


「……やはり、繋がりましたか」


アルフォンスは写真の裏面を指でなぞった。

この写真が、なぜエルカの手元にあったのか。

単なる偶然ではない。

エルカ・シュヴァルツという存在自体が、あの場所――ルシウスの闇と、何らかの形でリンクしている。


「ルシウス……。貴方は、十年前から彼女を狙っていたのですね」


写真の中で微笑む幼いエルカ。

その無垢な笑顔が、今はひどく危うく見えた。

アルフォンスは写真をアルバムに挟むと、金庫の鍵を回した。


カチリ。

重い音が、宣戦布告のゴングのように響いた。


「……渡しませんよ。過去も、未来も。彼女の全ては、私が管理します」


暗闇の中で、執事の瞳が青白く光った。

それは、獲物を狙う獣の目であり、同時に、宝物を守る守護者の目でもあった。


埃まみれの思い出は、ただのノスタルジーでは終わらない。

それは、これから始まる因縁の戦いの、最初の狼煙だったのだ。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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