第58話「ボタンの呪い、あるいは依存の極致」
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その朝、私はトイレの前で絶望していた。
尿意ではない。いや、尿意もあるのだが、それ以前の問題だ。
物理的に、服が脱げないのだ。
「……んぐぐっ!か、硬い……っ!」
私は顔を真っ赤にして、ブラウスの第3ボタンと格闘していた。
昨日、アルフォンスが「春の新作コレクションです」と言って満面の笑みで用意した、淡い桜色のクラシカルなドレス。
デザインは可愛い。フリルも上品だ。
だが、このフロントに並んだ小さな銀色のボタンが、まるで岩盤のように指に食い込み、ピクリとも動かない。
「……なんなのよこれ!接着剤でもついてるの!?」
爪が割れそうだ。 焦れば焦るほど、生理現象の波が押し寄せてくる。
このままでは、二十歳を超えたレディとしてあるまじき尊厳の喪失を迎えてしまう。
「アルフォンスー!!」
私は半泣きで叫んだ。
風のような速さで、リビングの扉が開いた。
「お呼びでしょうか、エルカ様!敵襲ですか?それとも空腹ですか?」
銀髪の執事が、フライパンとお玉を装備したままスライディング気味に現れる。
相変わらずの過剰反応だ。
「違う!トイレ!服が脱げないの!漏れる!」
「ああ、なるほど。……少々お待ちを」
彼は状況を一瞬で理解すると、冷静にフライパンをサイドテーブルに置き私の前に跪いた。
「失礼します」
彼が白い手袋を外し、その長く美しい指先を、
私の腹部のボタンへと伸ばす。
カチッ。
彼が触れた瞬間、あれほど頑強だったボタンが、魔法のように軽やかな音を立てて外れた。
「……は?」
カチッ、カチッ、カチッ。
彼は流れるような手つきで、またたく間に全てのボタンを解除した。
はらりとドレスが緩む。
「さあ、どうぞ。……中までお供しましょうか?」
「いらない!ここで待ってなさい!」
私はトイレに駆け込み、事なきを得た。
……危なかった。あと十秒遅れていたら、塔の歴史に汚点を残すところだった。
「……で?どういうことか説明してもらえる?」
用を足し、身支度を整えた。
もちろん、ボタンを留めるのも彼にやってもらった私は、ソファにふんぞり返って執事を尋問していた。アルフォンスは紅茶を淹れながら、悪びれる様子もなく微笑んだ。
「お気に召しませんでしたか?特注の『生体認証魔導ボタン』です」
「生体認証?」
「はい。このドレスに使用されているボタン、ファスナー、ホックに至るまで、すべての留め具には高度な術式が組み込まれています」
彼は自分の右手を掲げ、照明にかざした。
「登録された『鍵』――すなわち、私の指紋と魔力波長に反応した時のみ、ロックが解除される仕組みです」
「はぁ!?」
「セキュリティですよ、エルカ様。昨今の治安情勢(主にルシウスのストーカー行為)を鑑みるに、貴女の身を守る衣服こそが、最後の砦であるべきです」
彼は大真面目な顔で、とんでもない理論を展開し始めた。
「もし万が一、私が目を離した隙に暴漢に襲われたとしましょう。ですがご安心ください。この服は、私以外の人間が無理やり脱がそうとすると、自動的に電流を放ち、相手を黒焦げにします」
「防犯ブザーかよ!ていうか、私自身も脱げないんだけど!」
「そこが重要なのです」
アルフォンスはテーブル越しに身を乗り出し、熱っぽい瞳で私を見つめた。
「貴女自身ですら、その肌を露わにすることはできない。……つまり、貴女の肢体を目にすることができるのは、世界で唯一、この私だけということになります」
「……っ!」
「これぞ究極の独占、絶対不可侵の貞操帯……いえ、聖女のドレスです」
うっとりと頬を染める執事。
こいつ、正気じゃない。
いや、知ってたけど。
「不便すぎるわよ!トイレのたびに呼べって言うの!?」
「もちろんです。夜中にトイレに行きたくなった時も、遠慮なく叩き起こしてください。寝ぼけ眼の貴女を抱っこしてトイレにお連れする……執事冥利に尽きるシチュエーションですね」
「私が嫌なのよ!」
抗議するが、彼は「返品不可です」と言って聞き入れない。
それどころか、クローゼットの中身はいつの間にか全てこの「アルフォンス専用仕様」に入れ替えられていた。
つまり。
私はもう、着替えることも、トイレに行くことも、お風呂に入ることも……彼なしでは何一つできない体にされてしまったのだ。
そして、夜。 就寝の時間がやってきた。
間接照明だけが灯る薄暗い寝室。
私はベッドの端に座らされ、アルフォンスの前に身を投げ出していた。
パジャマに着替えるための、「開封の儀」だ。
「……失礼します、エルカ様」
アルフォンスの声が、昼間よりもワントーン低く、甘く響く。
彼は私の足元に跪き、靴を脱がせ、ストッキングを指先で絡め取るようにゆっくりと引き抜いた。
素肌が空気に触れる。
そのひんやりとした感覚に、体が強張る。
「……早くしてよ。寒い」
「焦ってはいけません。服を脱がすという行為は、貴女という宝石を包む薄紙を、一枚ずつ丁寧に剥がしていく神聖な作業なのですから」
彼は立ち上がり、私の背後に回った。
背中のファスナーに、彼の手が触れる。
私の体温よりも少し低い、執事の指先。
ジジッ……。
微かな魔力の摩擦音と共に、ファスナーが下ろされる。
背中が大きく開く。
ゾクゾクと、背骨に沿って電流が走るような感覚。
「……ん……」
思わず、変な声が漏れた。悔しい。
不便だと怒っていたはずなのに、彼に触れられるのを待っている自分がいる。
自分ではどうやっても外れない強固なロックが、
彼の手にかかれば、まるでバターのように溶けていく。その「解錠」の瞬間が、たまらなく心地いいのだ。
(……私、本当に……管理されてる)
物理的に、鍵をかけられている。
私の肌も、秘め事も、すべて彼の指先一つで管理されている。
その事実が、脳の芯を甘く痺れさせる。
「……エルカ様。首元のボタンを」
「……ん」
言われるがままに、顎を上げる。
彼が正面に回り込み、私の喉仏のあたりにある第一ボタンに指をかけた。
顔が近い。
彼の整った鼻筋、長い睫毛、そして微かに開いた唇から漏れる、熱い吐息。
レモンと蜜蝋の香りが、私を包み込む。
カチッ。
音が響くたびに、私の自由が剥ぎ取られ、彼の所有物になっていく。
「……綺麗だ」
彼が掠れた声で呟いた。
最後の一枚、キャミソールの肩紐に指をかけながら、彼は私の鎖骨に熱い視線を注いでいる。
「貴女の肌には、私の指紋しかついていない。この白磁のような肌を暴くことができるのは、世界広しといえど、この指だけだ」
彼は我慢できないというように、私の肩口に唇を寄せた。
チュッ、と吸い付く音。
肩紐がずり落ちる。
「……あ……」
「……許してください。この『鍵』を開けるたびに、私は背徳感と独占欲で、頭がおかしくなりそうです」
アルフォンスは私の裸の肩に顔を埋め、深々と息を吸い込んだ。
その体は小刻みに震えている。ただの着替えだ。執事としての業務だ。
なのに、この濃厚な空気は何だ。
まるで、情事の後のような倦怠感と、満たされた熱気。
「……アルフォンス、もう……全部脱がせて」
私は彼の方に体を預けた。もう、自分では指一本動かしたくない。
彼に全てを委ねて、彼の手のひらで転がされるだけの存在になりたい。
昨日のミストの影響なんて、もう言い訳にできないくらい、私は彼に依存していた。
「……仰せのままに、マイ・ロード」
彼は恭しく、けれど貪るように、私を夜の闇の中へとエスコートしていった。
カチリ、カチリと外れるボタンの音は、私が人間としての自律性を失い、彼のお人形へと堕ちていくカウントダウンのようだった。
――同時刻。 塔の外壁、数百メートル上空。
霧に閉ざされた結界のわずかな綻びに、一匹の「虫」が張り付いていた。
それは本物の昆虫ではない。
魔法金属ミスリルで精巧に作られた、蜘蛛型の偵察ドローンだ。
その複眼カメラが、赤く明滅している。
ドローンは塔の内部から漏れ出る微弱な魔力波長を、高性能なセンサーで傍受し続けていた。
――『解析完了』。
遠く離れた魔法省の長官室で、モニターを見つめる男が、ワイングラスを傾けながら口角を吊り上げた。
ルシウス・ヴァイゼだ。
「……見つけたよ、愛しいアルフォンス君」
彼は手元の羊皮紙に、複雑な数式を走り書きした。
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