第57話「魔女のキッチン、執事の絶望」
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昨夜の「媚薬ミスト騒動」から一夜明けた、昼下がり。
塔のリビングには、いつも通りの静寂と、少しだけ気まずい空気が流れていた。
アルフォンスは昨夜の乱れなど微塵も感じさせない完璧な立ち居振る舞いで、窓ガラスを磨いている。その背中は、鋼のように隙がない。
けれど、私は知っている。
あの冷静沈着な執事の中身が、私への変態的な愛で煮えたぎっていることを。
そして、私も私で「あんたがいないと生きていけない」と泣きついた事実を。
(……なんか、借りを返したい)
ソファで膝を抱えながら、私はぼんやりと思った。いつも彼に世話をされっぱなしだ。
服を着せてもらい、髪を梳いてもらい、食事まで口に運んでもらっている。
昨夜のことで、彼がどれだけ私を想ってくれているかも痛いほど分かった。
だからこそ、たまには私が「主人」らしく、彼を労ってあげるべきではないだろうか。
「……よし」
私は決意を固めて立ち上がった。
目指すは、聖域にして不可侵領域――キッチンだ。
「アルフォンス」
「はい、エルカ様。……おや、トイレですか? お供します」
彼が即座に振り返り、ゴム手袋を外しながら近づいてくる。
その顔は、まるで「待て」を解除された大型犬のように輝いている。
「違うわよ。……お茶を淹れようと思って」
「お茶、ですか? 喉が渇かれたのでしたら、すぐに私が……」
「そうじゃなくて! 私が、あんたに淹れてあげるって言ってるの!」
私が言い放つと、アルフォンスの動きがピタリと止まった。
アイスブルーの瞳が見開かれ、次いで眉間に深い皺が刻まれる。
それは感動ではなく、純粋な「恐怖」の表情だった。
「……エルカ様。お言葉ですが、貴女がキッチンに立つということは、国家非常事態宣言に等しいリスクを伴います」
「失礼ね! 私だって、お湯くらい沸かせるわよ!」
「前回、貴女が『お湯を沸かす』と言ってキッチンに入った際、なぜか鍋からスライムが大量発生し、配水管が詰まったことをお忘れですか?」
アルフォンスは冷ややかな声で過去の惨劇を指摘した。
「あの時の配管清掃に、私がどれだけの時間と情熱を費やしたか……。油汚れ一つない私のシンクが、緑色の粘液に覆われた絶望。……思い出すだけで蕁麻疹が出そうです」
「うっ……そ、それは魔力調整をミスっただけで……」
「却下です。貴女は大人しくソファに座って、私の美しい背中でも眺めていてください」
彼は私の肩を押し戻そうとした。
でも、今日の私は引かない。
昨夜のミストの余韻か、それとも彼への愛おしさが勝ったのか、無性に彼に「美味しい」と言わせたかったのだ。
「お願い! 一回だけ! 昨日の……その、お詫びとお礼がしたいの!」
私が上目遣いで懇願すると、アルフォンスの表情がピクリと動いた。「お礼」という言葉に弱い。
彼は葛藤するように視線を彷徨わせ、深いため息をついた。
「……はぁ。貴女にそう言われては、断れませんね」
「本当!?」
「ただし! 条件があります」
彼は眼鏡をクイッと押し上げ、鋭い視線を私に向けた。
「私が横で監視します。指一本でも危険な挙動があれば、即座に強制終了し、貴女をリビングへ搬送します。……よろしいですね?」
こうして、魔女のキッチン侵入作戦が開始された。
アルフォンスは私の背後に仁王立ちし、まるで爆弾処理班を見守るような緊張感で監視している。視線が痛い。
「まず、茶葉を選びます……」
「ストップ。素手で缶に触れないでください。貴女の手脂がつきます」
開始五秒で止められた。
彼は無言で新しい白手袋を私に差し出し、それを着けさせた。
「……はい、どうぞ」
「……やりづらいんだけど」
「我慢してください。……さて、お湯を沸かしますが、火加減は?」
「強火で一気に……」
「駄目です。茶葉が死にます。85度のお湯で、優しく揺らすように」
口うるさい。小姑か、この男は。
私は内心毒づきながらも、彼の指示通りにポットにお湯を注いだ。
でも、ただのお湯じゃつまらない。
私は天才魔女エルカ・シュヴァルツだ。
普通のお茶なんて、彼も飲み飽きているだろう。
ここは一つ、私の「感謝の気持ち」を魔力に乗せて、最高のフレーバーティーに仕上げて驚かせてやる。
(……『美味しくなーれ』ってね)
私はアルフォンスに見えない角度で、こっそりと指先から微量の魔力を流し込んだ。
イメージするのは、彼の疲れを癒やす、慈愛の味。
昨夜の彼の、熱っぽい告白を思い出しながら。
ボコッ……。
ポットの中で、奇妙な音がした。
「……エルカ様? 今、変な音がしませんでしたか?」
「き、気のせいよ。沸騰したんじゃない?」
私は焦ってポットの蓋を開けた。その瞬間。
ドロリ……。
中から立ち上ったのは、芳醇な紅茶の香りではなく、得体の知れない生臭い湿気だった。
そして、琥珀色だったはずの液体が、どす黒い紫色に変色し、まるで生き物のように脈動し始めたのだ。
「なっ……!?」
「退ってください!!」
アルフォンスが叫び、私を背中に庇った。
次の瞬間、ポットの中から「それ」が飛び出した。
シュルルルルッ!!
茶葉だ。いや、茶葉が私の魔力を吸って変異した、無数の触手だった。
濡れた昆布のような、あるいは深海の軟体動物のような触手が、キッチンの天井まで伸び上がり、アルフォンスに向かって襲いかかる。
「くっ……! やはりこうなりましたか!」
アルフォンスは銀のトレイを盾にして触手の一撃を防いだ。
ガキン! という金属音が響く。
「ご、ごめん! ちょっと魔力を隠し味にしただけなんだけど!」
「貴女の『ちょっと』は、一般人の致死量です!」
アルフォンスは流れるような動きで銀食器のナイフを抜き、襲い来る触手を切り裂いた。
紫色のしぶきが舞う。
しかし、切っても切っても、触手は再生し、執拗にアルフォンスに絡みつこうとする。
それは攻撃というより、まるで彼を求めているかのような、粘着質な動きだった。
「……しつこいですね。これでは私のキッチンが汚染されてしまう!」
アルフォンスの目が据わった。
彼は本気で殲滅魔法を使おうと構えた。
その時だった。
ピチャッ。
切断された触手の一部が、アルフォンスの頬に張り付いた。液体が肌に染み込む。
「……っ!」
彼は顔をしかめ、それを払い落とそうとした。
だが、その手が一瞬止まった。
「……あれ?」
彼の表情から、殺気が消えた。
代わりに浮かんだのは、驚愕と、戸惑い。
そして――強烈な「既視感」。
「痛く……ない?」
アルフォンスは自分の胸元を押さえた。
そこには、十年前の「血の粛清」の際、ルシウスによって魂に直接刻まれた『服従の呪印』があるはずだ。
古傷のように疼き、常に彼を縛り付けている、冷たい鎖の痛み。
それが、触手の液体に触れた瞬間、じんわりと温かく溶けていくのを感じたのだ。
「……これは……」
ドクン。
心臓が跳ねた。
この感覚を知っている。
10年前。雨の降るゴミ捨て場で、死にかけた私を包み込んだ、あの光と同じだ。
私の骨を繋ぎ、傷を塞ぎ……そして、私を地獄へ繋ぎ止めた、あの残酷なまでの「慈悲」の温かさ。
彼は呆然と、暴れ狂う触手の森を見上げた。
醜悪な見た目だ。不潔で、混沌としていて、彼の美学に反する存在だ。
けれど、そこから漂う魔力の波動は、驚くほど優しく、彼の魂を包み込もうとしていた。
『……アルフォンス……いつもありがとう……大好きよ……』
魔力の残滓から、私の「念」が聞こえた気がした。
昨夜の私の、彼を想う純粋な気持ち。
そして、無意識下で私が願っていた「彼を苦しみから救いたい」という祈り。
それが、不安定な魔力暴走という形をとって、具現化したのだ。
「……エルカ様」
アルフォンスは振り返り、私を見た。
その瞳は揺れていた。
恐怖していた。触手の怪物にではない。
私の「優しさ」そのものに。
(……この方は、無自覚に私を『浄化』しようとしている)
彼は気づいてしまった。
エルカ・シュヴァルツという魔女が、単なる「被保護者」ではなく、彼の魂を呪縛から解き放つ唯一の「救済者」であることに。
「……駄目だ」
彼は呟いた。
これ以上、思い出してはならない。
癒やされてはならない。救われてはならない。
もし、この傷が完全に癒えてしまったら……私は「ルシウスの犬」でも「可哀想な執事」でもなくなり、貴女の隣にいる理由を失ってしまう。
私は永遠に、傷ついたまま、彼女に執着し続けなければならないのだ。
シュルッ。
触手の一本が、彼の口元に伸びてきた。
彼はそれを避けなかった。
むしろ、自ら口を開き、その先端を咥え込んだ。
「アルフォンス!?」
「……毒味です」
彼は触手を噛みちぎり、喉を鳴らして飲み込んだ。
紫色の液体が口の端から垂れる。
その味は、泥とハーブティーと、そして涙のように塩辛く、甘かった。
「……うっ……」
強烈な魔力が体内を駆け巡る。
呪印が焼き切れそうになるほどの「癒やし」の奔流。
彼はそれに抗うように、残りの触手たちを次々と素手で掴み、魔力で圧縮し、一滴残らず自分の体内に取り込んでいった。
「……全部、私が頂きます。一滴たりとも、排水口には流しません」
数分後。キッチンには、再び静寂が戻っていた。
触手の怪物は消滅し、ただアルフォンスだけが、荒い息を吐いてシンクに寄りかかっていた。
その口元は紫色に汚れ、目はギラギラと異様な光を放っている。
「……あ、アルフォンス……大丈夫?」
私は恐る恐る声をかけた。
彼はゆっくりと顔を上げ、ハンカチで口元を拭った。
「……最悪の味でした」
彼はにっこりと、背筋が凍るほど美しい笑顔で言った。
「苦くて、渋くて、生臭くて……今まで飲んだどんな毒薬よりも強烈でした」
「うぅ……ごめんなさい……」
「ですが、効能は凄まじい。貴女の魔力が、私の細胞一つ一つに染み渡っています」
彼は私に歩み寄り、壁に手をついて私を閉じ込めた。ドンッ、という音と共に、甘くて危険な香りが私を包む。
「……エルカ様。一つ、誓いを立てましょう」
「ち、誓い?」
「はい。……今後、一生、貴女がキッチンに立つことを禁じます」
「えっ!? だ、だって私、料理くらい……」
「駄目です。二度と、私以外のために料理をしてはいけません。……いや、私のためであってもいけません」
彼は私の手を取り、その指先に口づけを落とした。祈るように。縋るように。
「貴女の料理は、私を『変えて』しまう。……私が私でなくなってしまうほど、救われてしまう」
彼の声は震えていた。
「私は、貴女に救われたくなどないのです。……ただ、貴女に縛られて、貴女を縛り付けていたいだけなのです。だから……」
彼は眼鏡の奥で目を細め、昏い独占欲を露わにした。
「これ以上、私を優しくしないでください。……貴女の手は、ただ私に愛されるためだけに、汚れないままでいてください」
「……アルフォンス」
私は何も言えなかった。
彼がなぜそんなに必死なのか、分からなかったからだ。ただ、彼が私の「失敗作」を全て飲み干し、その上で私を拒絶していることだけは分かった。
「……分かったわよ。もうキッチンには入らない」
「良い子です」
彼は安堵したように息を吐き、私を強く抱きしめた。その体温は、さっきよりも少しだけ高くなっていた。
私の魔法が、彼の冷たい心を少しだけ溶かしてしまったのかもしれない。
それが彼にとって「恐怖」だとは知らずに、私は彼の背中に手を回し、ポンポンとあやすように叩いた。
キッチンには、微かに紅茶の香りが残っていた。
それは失敗したはずなのに、どこか懐かしく、温かい匂いだった。
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