第56話「媚薬ミスト、誤作動の惨劇」
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その日の朝、塔の中はいつもと違う香りに包まれていた。
普段ならアルフォンスが徹底管理する、完璧な換気と爽やかなレモンの香りがあるはずの空間に、桃とバニラを煮詰めたような、甘ったるく、それでいて脳の芯を痺れさせるような熱っぽい匂いが充満している。
「……んぅ……あつい……」
私はベッドの上で寝返りを打った。体が火照る。
頭がふわふわとして、思考がまとまらない。
毒(魔力抑制剤)のせいかと思ったが、それとは違う。もっとこう、胸の奥がキュンキュンと締め付けられるような、むず痒い感覚。
誰かに触れてほしい。
いや、あの人に、無茶苦茶にされたい――
そんな、とんでもない衝動が突き上げてくる。
「エルカ様!ご無事ですか!?」
バンッ! 寝室のドアが勢いよく開かれ、アルフォンスが飛び込んできた。
彼はいつもの完璧な燕尾服姿だが、珍しく肩で息をしており、銀髪が少し乱れている。
そして何より、眼鏡がズレていた。
「アルフォンス……?なんか、部屋がピンク色に見えるんだけど……」
「……やはり。地下の研究室から漏れ出した『試作ミスト』が、空調魔法に乗って塔全体に拡散したようです」
彼はハンカチで口元を覆いながら、私のベッドに近づいてきた。足取りが少しふらついている。
「以前、貴女が暇つぶしに調合し、『効果がエグすぎて人道に反する』として封印した『好意増幅ミスト・改』……。先日の振動で瓶が割れたのでしょう」
「好意増幅……あぁ、あれか」
思い出した。「好きな人に素直になれる薬」を作ろうとして、配分を間違えて「対象への愛が暴走して理性が消し飛ぶ劇薬」になってしまった失敗作だ。
「換気システムを最大出力にしましたが、この霧が晴れるまで数時間はかかります。それまでは……ッ」
アルフォンスが言葉を詰まらせ、ベッドの縁に膝をついた。彼のアイスブルーの瞳が、潤んだように揺れている。
その視線が、私の顔、汗ばんだ鎖骨、そして乱れたネグリジェから覗く太腿へと、粘着質に這い回る。
「……アルフォンス?」
「申し訳ありません。……私も、吸い込んでしまったようです」
彼が手袋をむしり取るように外し、震える素手で私の頬に触れた。
熱い。 彼の手も、吐息も、火傷しそうなほど熱を帯びている。
「普段なら、精神統一で抑え込めるレベルなのですが……。対象が貴女である以上、効果が……通常の、百倍に……」
彼の理性の糸が、プツンと音を立てて切れる音が聞こえた気がした。
「……エルカ様」
ドサッ。彼は私に覆いかぶさるように倒れ込んだ。重い。けれど、不快じゃない。
むしろ、もっと重くてもいいとさえ思う。
ミストを吸った私の脳内では、目の前の執事が、どうしようもなく愛おしくて、食べちゃいたいくらい可愛く見えているのだ。
「あぁ……エルカ様、エルカ様……!」
アルフォンスは私の首筋に顔を埋め、まるで猫吸いをするように深く、長く息を吸い込んだ。
「いい匂いです……! 貴女の匂いだけで、ご飯が三千杯はいけます!いや、貴女をオカズにするなど不敬極まりない……いっそ私がオカズになって貴女に咀嚼されたい……!」
「ちょ、何言ってるのよ!くすぐったい!」
「我慢できません!普段は『執事』の仮面で抑えていますが、私の脳内は24時間365日、貴女で埋め尽くされているのです!」
彼は顔を上げ、ギラギラした目で私を見下ろした。
そこには、いつもの冷静沈着な従者はいない。
ただの恋する狂人がいた。
「貴女の爪の先、枝毛の一本、排出した二酸化炭素に至るまで、すべてが愛おしい!ああ、その寝癖!芸術的です!重力を無視して跳ねるその髪の毛一本一本に名前をつけて愛でたい!」
「寝癖まで褒めるなバカ!」
「バカで結構!貴女のためなら知能指数などドブに捨てます!……ああ、なんという愛らしさだ。その少し不機嫌に歪んだ眉間のシワ、そこに挟まって死にたい!」
アルフォンスは私の眉間を人差し指でつつきながら、うっとりとため息をついた。
「そもそも貴女は無防備すぎます!なんですかその無造作な鎖骨は!『ここに噛み付いてください』という招待状ですか!?受理しますよ!?即日執行しますよ!?」
「うっさいわね!あんたこそ何よその顔!」
普段なら引くところだ。
でも、今日の私は違った。
ミストのせいで、私のタガも完全に外れている。
彼の暑苦しい愛の言葉が、心地よくてたまらない。
「いつも澄ました顔して……眼鏡の奥でそんなこと考えてたの!?最高に気持ち悪いわよ!」
「ぐふっ……!罵倒すら快感だ……!」
「でも……そんな変態なあんたも、最高にかっこいいわよ!」
私が叫ぶと、アルフォンスはピタリと動きを止めた。
「……は?」
「顔が良い!声が良い!私をご飯三千杯いけるとか言う狂ったところも、全部好きよ!」
私は彼の方へ身を乗り出し、その整った顔を両手で挟み込んだ。
「いつも完璧なくせに、私に関することだとすぐ余裕なくなるでしょ?その必死な顔、すっごく可愛いのよ!」
「か、可愛い……?私が……?」
「そうよ!あと、その冷たい指!いつも私の体温測ってくる時の手つき、実はゾクゾクして好きなの!もっと触りなさいよ!」
「なっ……!?」
アルフォンスは顔を真っ赤にして、口をパクパクさせた。私のストレートな好意に、処理が追いついていないようだ。
「それに、あんたの淹れる紅茶以外、もう飲みたくないの!あんたが選んだ服以外着たくないの!あんたがいない世界なんて、ゴミ溜め以下よ!」
「エ、エルカ様……っ!」
「大好きよバカ執事!一生私の世話焼き係でいなさいよ!」
私が叫んで抱きつくと、アルフォンスは「う、うおおおおおおッ!!」と雄叫びを上げた。
彼の全身から、目に見えそうなほどの幸福のオーラが噴き出した。
「許容範囲オーバーです!今の言葉、鼓膜の裏に刺青として彫り込みたい!いや、脳の海馬に直接焼き付けます!」
「だから怖いってば!」
「もう止まりません!貴女への愛がビッグバンを起こして宇宙が誕生しそうです!この溢れ出すパッションを鎮めるには、冷水シャワーか、もしくは二人で泡まみれになるしかありません!」
彼は私を軽々とお姫様抱っこし、そのまま猛ダッシュで部屋を飛び出した。
「どこ行くのよ!?」
「バスルームです!貴女の全身を洗いながら、私の愛の重さを1ミクロン単位でお伝えします!」
「意味わかんないけど、付き合うわよ!」
バスルームは、地獄のような、天国のような光景になっていた。
アルフォンスがテンション任せに投入した入浴剤のせいで、浴槽からはピンク色の泡が山のように溢れ出し、床まで埋め尽くしている。
「さあエルカ様!背中を流させてください!いや、舐めさせてください!」
「舐めるな!洗え!」
「では指で!指紋がなくなるまで磨き上げます!」
バシャーン!
私たちは服のまま、泡の海へダイブした。
燕尾服もネグリジェも濡れて肌に張り付き、体のラインを露わにする。
アルフォンスは私を抱きしめたまま、泡だらけの手で私の背中、二の腕、太腿を、マッサージという名の愛撫で揉みしだく。
「んぁっ……!そこ、気持ちいい……!」
「でしょう!貴女のツボは全て把握しています!ここですか?それともここですか!?」
「あははっ!くすぐったいってば!」
泡の中で転げ回りながら、私たちは子供のように笑い合った。
ルシウスの脅威も、過去の因縁も、今はどうでもいい。
ただ、お互いが大好きで、触れたくてたまらない。
そんな単純で、暴力的な幸福感。
ひとしきりじゃれ合った後、ふとアルフォンスの動きが止まった。
彼は濡れた銀髪をかき上げ、真剣な眼差しで私を見つめた。
眼鏡はどこかへ飛んでいってしまったようで、露わになった素顔が、驚くほど色っぽい。
「……エルカ様」
「なぁに?」
「……今のうちに、少しだけ『仕事』をさせてください」
彼は私の手を取り、指先を自分の唇に押し当てた。
その瞳の奥に、鋭い魔力の光が走る。
甘い空気の中に、一瞬だけピリッとした緊張感が混ざる。
「……仕事?」
「はい。貴女を守るための、とっておきの魔法です」
彼が私の指を軽く甘噛みした瞬間、体の中にチリッとした熱が走った。
それは快感に紛れて気づかないほど微細な、けれど確かな異物感。
魔力回路の奥深くに、何かが『設置』された感覚。
「……なに、今の」
「愛の注入ですよ」
彼はニッコリと笑って誤魔化した。
嘘だ。今の術式は、ただのイチャイチャじゃない。
もっと複雑で、危険な……何かを爆発させるための『起爆装置』のような気配がした。
でも、ミストのせいで深く考えることができない。
今の私は、彼に何をされても許してしまうだろう。
「……ふーん。まあいいわ。あんたのすることだもの」
「ええ。信じてください。……すべては、貴女とずっと一緒にいるためです」
彼は私を引き寄せ、泡まみれの唇を重ねた。
甘い。
ミストの甘さか、彼自身の甘さか分からないけれど、私はその口づけに溺れた。
翌朝。
換気が完了し、ミストの効果が切れたリビングは、死のような静寂に包まれていた。
「…………」
「…………」
私とアルフォンスは、ソファの端と端に座り、虚空を見つめていた。昨夜の記憶は鮮明だ。
「排出した二酸化炭素まで愛おしい」と叫んだ彼。「あんたの冷たい手つきが好き」とデレた私。
そして、泡まみれで「大好き」と連呼し合った地獄絵図。
(……死にたい。いっそ壁のシミになりたい)
羞恥心で蒸発しそうだ。
チラリと横目で見ると、アルフォンスも顔を覆って沈黙している。
あの完璧執事が、耳まで真っ赤だ。
手が震えてティーカップが持てていない。
「……あの、アルフォンス」
「……はい」
「昨日のことなんだけど……あれは、その、薬のせいで……」
私が言い訳をしようとすると、彼はバッと顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳は赤かったが、そこには揺るぎない光が宿っていた。
「……いいえ」
「え?」
「誇張はありましたが……あれは魔法のせいではありません。私の、日常的な本音です」
彼は開き直ったように言い切った。
「貴女を食べちゃいたいのも、胃袋で保護したいのも、貴女の寝癖を国宝に指定したいのも、全て事実です。……撤回はしません」
「……っ!な、なによそれ!」
逃げ場のない告白の上書き。
私は顔から火が出るのを感じながら、クッションに顔を埋めた。
「……バカ。……変態」
「ええ。貴女を愛するバカで変態な執事です。……それで、エルカ様?」
彼は少し意地悪く目を細めた。
「貴女も昨夜、『あんたがいない世界はゴミ溜め以下』と仰っていましたが……あれも本音と受け取ってよろしいので?」
「~~ッ!う、うるさいっ!」
私はクッションを彼に投げつけた。
彼はそれを華麗にキャッチし、愛おしそうに抱きしめる。
「ありがとうございます。ご褒美です」
気まずい沈黙。
けれど、その空気は以前よりも少しだけ甘く、
そして深い信頼に満ちていた。
私たちは知ってしまったのだ。
理性のタガが外れても、お互いを求め合うことしかできないという、どうしようもない事実を。
そして私は気づいていなかった。
昨夜の騒動のどさくさに紛れて、私の体の中に、
最強の反撃手段となる『魔力爆弾のスイッチ』が埋め込まれたことに。
読んでくださってありがとうございます。
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