第55話「いにしえの魔道ドレス」
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地下倉庫の「大掃除」から数時間後。
私たちはリビングに戻り、戦利品の仕分けを行っていた。
戦利品といっても、大半はカビた魔導書や得体の知れない骨董品ばかり。
けれど、アルフォンスが「極めて強力な魔力反応がある」と言って持ち帰った、豪奢な黒塗りの箱が一つだけあった。
「……で、これ何なの?」
私がソファから身を乗り出すと、アルフォンスは恭しく箱の蓋を開けた。
「鑑定結果が出ました。これは『魅了の魔女』と呼ばれた三代前の塔の主が遺した、伝説の魔道ドレス……『ニュクス・ベール』です」
「へぇ、ドレス? 新しい服なら歓迎だわ」
私は無邪気に喜んだ。
監禁生活も長くなり、着る服のバリエーションに飽きていたところだ。
しかし、アルフォンスが箱から取り出した「それ」を見た瞬間、私の笑顔は凍りついた。
「……は?」
彼が広げたのは、ドレスと呼ぶにはあまりにも布面積が少ない、黒いレースと透けるシルクの塊だった。背中は腰まで大胆に開き、胸元は深いV字、スカート部分には太腿の付け根まで届くスリットが入っている。いや、これドレスじゃない。
高級娼館の勝負下着か、悪魔崇拝の儀式服だ。
「……アルフォンス。あんた、これを私に着ろと?」
「学術的な興味です、エルカ様」
アルフォンスは真顔で眼鏡の位置を直した。
「このドレスには『絶対防御』や『魔力増幅』など、数々の古代魔法が付与されているようです。現在の籠城生活において、貴女の身を守る最強の防具になる可能性があります」
「防具!? 防御力ゼロに見えるんだけど!」
「見た目に惑わされてはいけません。さあ、試着を。サイズ調整の必要性も確認しなければ」
彼は有無を言わせぬ笑顔で迫ってきた。
毒(魔力抑制剤)で抵抗できない私は、またしても彼の手によって、着せ替え人形にされる運命を受け入れるしかなかった。
着替えは、寝室で行われた。
もちろん、アルフォンスの手によって。
「……うぅ、恥ずかしい……寒いわよこれ……」
鏡の前に立たされた私は、自分の姿を直視できずに顔を覆った。
黒いレースが白い肌に張り付き、ボディラインを残酷なまでに強調している。
特に背中はほぼ全裸だ。以前彼がつけてくれた黒いベルベットのチョーカーだけが、妙に生々しく首元に残っている。
「……いかがですか、アルフォンス。……笑うなら笑いなさいよ」
私は拗ねたように背中を向けたまま言った。
しかし、背後からの返事がない。
いつもなら「素晴らしい素材です」とか「布の無駄遣いですね」とか、減らず口を叩くはずなのに。
「……アルフォンス?」
恐る恐る振り返る。
そこには、石像のように固まった執事がいた。
彼は手袋を外した手を口元に当て、目を見開いたまま、瞬きすら忘れて私を凝視している。
眼鏡の奥のアイスブルーの瞳が、熱を帯びて揺れていた。
「……アルフォンス?」
「……ッ、失礼しました」
彼はハッと我に返り、咳払いをした。
でも、耳が赤い。
いつもの完璧なポーカーフェイスが崩れ、動揺を隠しきれていない。
(……あれ?)
その反応を見て、私の中に小さな悪戯心が芽生えた。
いつも管理され、子供扱いされ、弄ばれているのは私だ。
でも今の彼は、明らかに私の「女」の部分に当てられている。
これは……反撃のチャンスじゃない?
「ふふっ。なによ、黙りこくっちゃって」
私は猫のようにしなやかに動き、彼に一歩近づいた。スリットから白い太腿が覗く。
彼の視線が、無意識にそこへ吸い寄せられるのが分かった。
「もしかして……刺激が強すぎた?」
私は小悪魔的な笑みを浮かべ、彼を見上げた。
毒のせいで頭がふわふわしているせいか、羞恥心よりも「彼を困らせたい」という欲求が勝ってしまう。
「完璧執事様も、こういうのには免疫がないのかしら? ……ねえ、どうなの?」
「……エルカ様。あまり、挑発なさいませんよう」
アルフォンスの声が低い。警告音のような響きだ。でも、私は止まらなかった。
「挑発なんてしてないわよ。……ただ、感想が聞きたいだけ」
私は彼の手を取り、自分の腰に当てた。
ドレスの生地ごしではない。大きく開いた背中の、素肌の部分に。
「ひゃっ……!」
自分から触らせておいて、変な声が出た。
彼の手は熱かった。火傷しそうなほどに。
でも、もう引けない。
「……どう? 私の肌、綺麗でしょ? あんたが毎日磨いたおかげよ」
「……ええ。陶器のように滑らかで、吸い付くようだ」
「ふふ。……触るだけ? もっと近くで見てもいいのよ?」
私は背伸びをして、彼の耳元で囁いた。冗談だ。
彼が真っ赤になって「はしたないですよ!」と慌てふためく姿が見たかっただけだ。
いつものように、彼が私の保護者として、私を叱ってくれると思っていた。
――ガシッ。
「え?」
腰に回された腕に、逃げ場のない力が込められた。
次の瞬間、視界が回転した。私は壁に押し付けられていた。
ドンッ、という音と共に、目の前にアルフォンスの顔が迫る。
「……あ、あるふぉんす……?」
「……許可を、頂いたと解釈します」
そこにいたのは、いつもの執事ではなかった。
理性のタガが外れた、一匹の雄だった。
眼鏡の奥の瞳が、暗く、深く、飢えた獣の色に染まっている。
「え、ちょ、待って……冗談よ、今のは……!」
「遅い」
彼は私の逃げ道を塞ぐように両手を壁につき、鼻先が触れる距離まで顔を寄せた。
「貴女はご存じないようですが……私は聖人君子ではありません。貴女に関しては、沸点が極めて低い」
「ち、近っ……!」
「火をつけたのは貴女です。……責任、取っていただけますね?」
彼の指が、私の首筋を這う。
チョーカーのラインをなぞり、鎖骨の窪みを押し、そして露出した胸元の際どいラインへと滑り落ちていく。
「んぅ……っ! だめ、そこ……!」
「ダメではありません。……このドレスは、私に『ここを触れ』と誘っている」
彼の唇が、私の耳朶を甘噛みした。
ゾクゾクッとした電流が背骨を駆け抜ける。
「……いい匂いだ。いつもの石鹸の香りに、貴女自身の甘い蜜の香りが混ざっている」
「んぁ……や、やめ……!」
「やめません。私の理性が蒸発する音が聞こえませんか?」
彼は私の背中に回した手で、素肌を直接愛撫しながら、背骨に沿ってキスを落としていく。
冷たい壁と、熱い彼の体温に挟まれて、私は完全に逃げ場を失っていた。
冗談で済ませるつもりだったのに。
彼をからかうつもりだったのに。
完全に、蛇に睨まれた哀れな蛙だ。
「……アルフォンス、お願い……許して……」
「許しません。お仕置きが必要です」
彼は私の肩甲骨のあたりに唇を押し当てた。
チュッ、と吸い上げる音が響く。
チクリとした痛みが走る。
「……っ!」
「これで、貴女は背中を出して歩けなくなりました」
彼は満足げに顔を上げ、私の背中に刻んだ赤い鬱血痕を指でなぞった。
「『所有の印』です。……私の目が届かない背中ですら、私の支配下にあることを忘れないように」
「……うぅ……酷い……」
「酷い? いいえ、これは独占欲という名の愛ですよ」
アルフォンスは恍惚とした表情で、今度は私の唇を奪おうと顔を近づけてきた。
もう抵抗できない。
膝が笑って、立っているのがやっとだ。
私は目を閉じて、彼の重すぎる愛を受け入れようとした。
その時だった。
ブワッ……。
私が着ている黒いドレスが、淡い光を放ち始めた。魔力反応だ。
アルフォンスの激しい感情と、私の高ぶった心拍数に呼応して、ドレスに組み込まれた古代魔法が暴発したのだ。
「……む?」
アルフォンスが動きを止めた。
私たちの間の空間に、ホログラムのような朧げな映像が浮かび上がる。
それは、このドレスの着用者の「深層心理」を投影する魔法。
映し出されたのは――雨の降る、薄暗い路地裏のような場所だった。
冷たい雨の中、泥だらけでうずくまる、小さな影。
顔は見えない。ただ、銀色の髪が泥で汚れ、ボロ布のように震えている少年。
「……ッ!」
アルフォンスが眉をひそめた。
「……なんです、この不潔な映像は。貴女の深層心理に、なぜこんな汚らしいドブネズミが?」
彼の声には、明確な嫌悪感が混じっていた。
潔癖症の彼にとって、その泥まみれの少年は生理的に受け付けない存在のようだ。
「……懐かしい」
私は映像の中の少年を見つめ、目を細めた。
顔はよく見えない。記憶の中の彼も、泥だらけでボロボロだったから、はっきりとは覚えていない。
でも、あの日の「雨の冷たさ」と、彼に向けた「憐憫」だけは、鮮明に覚えている。
「この子……私が初めて、魔法で『拾った』子なの」
「拾った……? 猫か何かですか?」
「ううん、人間よ。……十年前かな。落雷の火事で家族を亡くして、一人ぼっちで路地裏を彷徨ってた時……ゴミ捨て場で行き倒れてる男の子を見つけたの。その子は、泥だらけで血まみれで……私よりもずっと、絶望した顔をしてた。だから……」
私の言葉に、アルフォンスの肩がピクリと跳ねた。
彼の中で、激しい感情の嵐が吹き荒れていた。
あの日、ゴミ屋敷で彼女と再会した瞬間から、
彼だけは気づいていた。彼女が自分を救ってくれた「神様」だと。
だが、彼女の口から直接あの日のことが語られるのは初めてだ。
彼女があの日の自分を大切に覚えていてくれたという、天にも昇るような歓喜。と同時に、あの「世界で一番薄汚く、無力だった自分」の姿を、これ以上彼女の美しい視界に晒すことへの耐え難い羞恥と焦燥。
「……ゴミ捨て場の、少年ですか?」
アルフォンスは必死に動揺を押し殺し、あくまで「初めて聞いた執事」の完璧な演技で尋ねた。
声の震えだけは、魔力で強引に抑え込んで。
「そう。雨が降ってて……。私、傘も持ってなかったから、下手くそな生活魔法で雨を弾いてあげて……あと、怪我もしてたみたいだったから、気休め程度の『回復魔法』もかけてあげたの」
映像の中で、幼い私の幻影が少年に手をかざす。
淡い光が、少年の体を包む。
ほんの一瞬の出来事。
「名前も聞かずに別れちゃったけど……。初めて自分の魔法が誰かの役に立ったって思えた、大事な思い出なの」
私が無邪気に言うと、アルフォンスは複雑そうな顔で押し黙った。
眼鏡の奥の瞳が、激しく揺れている。
「……魔法で、雨除けと……回復……?」
彼は低く呟いた。
その手袋をした指先が、無意識に自分の胸元――心臓の上あたりを彷徨う。あの日、彼女の温かい光が染み込んだ場所。
「アルフォンス? どうしたの?」
「……いえ。不愉快です」
彼は冷たく言い放つと、パチンと指を鳴らして映像を強制消去した。
ブツン、と光が消える。
彼の中で『自分であって自分ではない過去のゴミ』への強烈な嫉妬が暴れ狂っていた。
「不愉快って……酷い言い草ね」
「当然です。貴女の美しい記憶領域が、あんな薄汚い浮浪児に割かれているなど……我慢なりません。今の私という存在がありながら、過去の亡霊を愛でるなど、言語道断です」
彼は私の肩に自分の上着をかけ、露出した肌を隠した。
その手つきは乱暴で、焦っているようにも見えた。
「試着は終了です。……脱ぎましょう」
「えっ? いいの? さっきまで『責任取れ』とか言ってたのに」
「気が変わりました。……貴女の中に、私以外の『薄汚い男』の記憶が残っているのが不潔で耐えられないのです」
彼は拗ねたように顔を背けた。
嫉妬?
まさか、私の思い出の中の少年にまで、本気で嫉妬しているの?
「なによそれ。……あの子は特別よ。私の原点なんだから」
「……っ、なおさら質が悪い」
アルフォンスは苦虫を噛み潰したような顔で、
私を上着ごと抱きしめた。
今度は、優しく。壊れ物を扱うように。
けれど、その腕は、まるで過去の幻影から私を奪い返すように力強かった。
「……その少年がどうなったかは知りませんが、今は私がここにいます。過去の亡霊など忘れて、完璧に磨き上げられた今の私だけを見てください」
「はいはい。やきもち焼きな執事さんね」
私は彼の胸に顔を埋めて笑った。
彼がなぜそんなにムキになるのか、この時の私はまだ気づいていなかった。
彼が「過去の哀れな自分」に対して本気で嫉妬し、今の完璧な執事としての自分だけを愛してほしいと願う、その狂気的な愛情の深さに。
「……でも、このドレスは封印です。二度と、日の目を見ることはないでしょう」
「えー、せっかく似合ってたのに」
「似合いすぎていたのが問題なのです。……それに、これ以上着ていたら、私の理性が持ちません」
アルフォンスは私の額に、誓いのキスを落とした。
背中につけられたキスマークだけが、ジンジンと熱く疼き続けていた。
それは、彼が理性を失いかけた証であり、私たちが主従の枠を超えつつあることの、消えない証明だった。
読んでくださってありがとうございます。
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