第54話「埃の幽霊と、執事の除霊」
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塔内ウォーキングという名の、甘くも狂気的な「抱っこ散歩」から数時間後。
私たちはリビングに戻り、遅めのティータイムを過ごしていた。
窓の外は相変わらず乳白色の霧に閉ざされている。
外敵を拒絶する「聖域」の静寂は、私の心を安らかに麻痺させていた。
「ねえ、アルフォンス」
「はい、エルカ様。スコーンのおかわりですか? それとも、クロテッドクリームの追加を?」
「違うわよ。……なんか、臭くない?」
私はティーカップをソーサーに戻し、鼻をひくつかせた。
アルフォンスが淹れた最高級のアールグレイ。
そのベルガモットの優雅な香りに混じって、
何かこう……酷く不快な臭いが漂っているのだ。古本と湿ったカビ。
そして、雨の日に嗅ぐ鉄錆のような――
あるいは、乾いた血のような、生臭い鉄の臭い。
「……ふむ」
キッチンで銀食器を磨いていたアルフォンスの手が止まった。彼がゆっくりと顔を上げる。
眼鏡の奥のアイスブルーの瞳が、部屋の空気中に漂う微細な粒子を凝視し、解析していく。
その表情が、みるみるうちに険しくなる。
まるで、極上のスープの中にハエを見つけた時のような、あるいは美しい絵画に泥を塗られた時のような、絶対的な嫌悪の表情だ。
「……ハウスダスト濃度が、通常の三百倍に急上昇しています。発生源は……地下倉庫ですね」
「地下?こないだ大掃除した場所じゃない。なんで急に?」
「……先ほどの振動です」
彼は忌々しげに床を見下ろした。
「ルシウスによる『外部干渉』の振動が、結界の澱を揺り動かし、沈殿していた『過去の汚れ』を舞い上がらせたのでしょう。……厄介ですね」
彼は立ち上がり、優雅に、しかし殺気立った手つきで白い手袋をはめ直した。
パチン、と革が鳴る音が、妙に大きく響く。
「直ちに駆除に向かいます。エルカ様はここで……」
「やだ!一人にしないでよ!」
私は反射的に彼の燕尾服の裾を掴んだ。
舌の裏の刻印が熱い。不安だ。
さっきの振動以来、塔の空気がどこか重苦しい。
見えない何かが、壁の隙間からこちらを覗いているような気がしてならないのだ。
「仕方ありませんね」
アルフォンスは少し困ったように、でも私の依存を歓迎するように微笑み、私を抱き上げた。
「では、しっかり捕まっていてください。少々、埃っぽく……いえ、もっと質の悪い汚れに触れることになりますから」
地下への螺旋階段を降りるにつれて、空気は冷たく、そして生臭くなっていった。
普段ならアルフォンスの徹底的な管理で無臭に保たれているはずの空間が、今は澱んだ沼の底のような気配に満ちている。暗闇の中、アルフォンスが指先から放つ照明魔法だけが頼りだ。
その光が揺れるたび、壁のシミが人の顔に見えるようで、私は彼の首に腕を回し、強くしがみついた。
「……アルフォンス、なんか変よ。ただの埃じゃないみたい」
「ええ。物理的な埃に、魔力的な残留思念が付着しています。……性質が悪い」
地下倉庫の扉の前まで来た時だった。
中から、風の音とは違う、もっと粘着質な音が聞こえてきた。
――ズズッ……ズルッ……。
重い袋を引きずるような音。そして。
「……うぅ……あぁ……」
呻き声。明らかに、人の声だった。
「……ひぃっ!?ゆ、幽霊!?」
「……静かに」
アルフォンスは私を抱きかかえたまま、一切の躊躇なく、革靴の爪先で扉を蹴り開けた。
バンッ!!
ヒュオオオオオ……! 扉が開いた瞬間、冷気と共に灰色の塊が飛び出してきた。
それは不定形の靄のように渦巻きながら、徐々に形を成していく。
ボロボロのローブを纏った、人の形へ。
『……ウラ……メシ……ヤ……』
埃の幽霊が、カスカスの声で呻きながら、汚れた手を私たちに伸ばしてくる。
その体は無数の塵と煤で構成されているが、顔の部分だけが妙に生々しく、苦悶に歪んでいた。
空洞の目が、ギョロリと私たちを――
いや、アルフォンスを捉えた。
『……あ……? 貴様……は……』
幽霊の動きが止まった。単なる怨霊ではない。
明らかに「知性」と「記憶」を持った反応だ。
「……チッ」
アルフォンスが舌打ちをした。
その音が、凍りついた地下室に鋭く響く。
「私の主人が呼吸する神聖な空間に、許可なく侵入し、あまつさえ……その薄汚い塵芥を撒き散らすとは」
彼は私を床に降ろすことなく、片手で私を支えたまま、空いた右手で虚空を掴んだ。
空間が歪み、巨大な銀色の筒が出現する。
魔導掃除機『サイクロン・エクスカリバー(対霊障・吸引力100倍カスタム)』だ。
「幽霊ならば、せめて埃を落とさないのがマナーでしょう!!」
激怒のポイントがそこだった。
彼は掃除機のスイッチを入れた。
ブォォォォォン!! 爆音が轟き、先端のノズルから発生した小型竜巻が、周囲の空気を根こそぎ吸い込み始める。
『……グォォォォ!?』
幽霊が悲鳴を上げる。腕が、足が、掃除機の吸引力に負けて崩れ吸い込まれていく。
物理的な埃を依代にしている限り、この最強の掃除機からは逃れられないはずだった。
だが。
ズズッ……!
幽霊は踏みとどまった。
床にへばりつくようにして吸引に抗い、その形を保とうとする。
そして、崩れかけた顔を再生させ、真っ赤な憎悪の光を目に宿した。
『……忘れた……とは、言わせんぞ……』
幽霊の声が、はっきりとした言葉になった。
それは恐怖に震える声ではなく、底知れぬ恨みに煮えたぎった声だった。
『……その銀髪……その白い手袋……!』
「……え?」
私はアルフォンスを見上げた。
幽霊は、アルフォンスを知っている?
『……魔法省の……掃除屋……クラインッ!!』
その名が呼ばれた瞬間、アルフォンスの背中が強張った。
掃除屋。それは単なる役職名ではない。
もっと血生臭い、裏稼業の響きを含んでいた。
『貴様……!十年前の……あの夜……!我々反体制派の隠れ家を……!』
幽霊が叫ぶ。
灰色の埃が、まるで血飛沫のように激しく舞い上がる。
『命乞いをする私の妻を……まだ幼かった息子を……!貴様は……ゴミを片付けるように……無表情で……焼き殺しただろうがぁぁぁッ!!』
「……ッ!?」
私は息を呑んだ。 妻。息子。焼き殺した。
あまりに具体的で、あまりに残酷な言葉。
これが幻聴?
ただの埃の化け物が言うこと? 違う。
これは――記憶だ。
かつてアルフォンスの手によって殺された、生身の人間の最期の記憶だ。
「……アルフォンス……?」
私は震える声で彼を呼んだ。
嘘だと言ってほしい。
彼がそんな、冷酷な人殺しだなんて。
しかし、アルフォンスは私を見なかった。
彼の横顔からは、いつもの柔和な笑みが消え失せていた。能面のような無表情。
けれど、その瞳の奥には、幽霊の怨嗟など意に介さない、絶対的な「断絶」の色があった。
「……黙れ」
彼は私に聞こえないほどの小声で、低く呟いた。
次の瞬間、彼は左手の指先だけで、複雑な印を結んだ。
キィィィィン……! 高周波のような音が走り、
私の耳が一瞬ツンとした。
防音結界だ。私だけが、音を遮断されたのだ。
無音の世界。 幽霊が口を大きく開け、何かを叫んでいる。
その形相は必死で、涙を流しているようにも見えた。
『人殺し』『悪魔』『返せ』。
口の動きから、そんな言葉が読み取れる。
幽霊は、私に向かって手を伸ばしてきた。
「その男は危険だ」「その男に近づくな」と訴えかけるように。
だが、アルフォンスは躊躇わなかった。
彼は私を左腕でしっかりと抱きかかえたまま、
右手の掃除機の出力を、限界突破まで引き上げた。
ズドオオオオオオン!!
音は聞こえないが、凄まじい衝撃波が空気を叩く。
掃除機のノズルから発生した真空の渦が、空間ごと幽霊をねじ切った。
幽霊の腕が千切れ、顔が歪み、吸い込まれていく。
最期の瞬間。 幽霊の目が私と合った。
その目は、私を憐れんでいるようだった。
『お前も、いつか捨てられるぞ』――
そう言いたげな目を残して、彼は塵となってダストボックスへと消えた。
地下倉庫に、静寂が戻った。
空気中に漂っていた腐臭も、冷気も、すべて掃除機の中に封印された。
パチン。アルフォンスが指を鳴らすと、私の聴覚が戻った。
「……終わりましたよ、エルカ様」
彼は掃除機のスイッチを切り、いつもの完璧な笑顔で私を振り返った。
汗一つかいていない。まるで、庭の落ち葉掃除を終えたかのような爽やかさだ。
それが余計に、怖かった。
「……アルフォンス、今の……」
私は彼のシャツを強く握りしめた。
「『掃除屋』って何?『焼き殺した』って……どういうこと?」
彼は一瞬だけ、目を伏せた。
だが、すぐに顔を上げ、困ったように眉を下げてみせた。
「……お聞き苦しい妄言を聞かせてしまいましたね。申し訳ありません」
その声は優しく、穏やかだった。
「あれは、長年蓄積されたハウスダストが、ルシウスの悪意ある魔力と反応して生まれた『幻覚』です。……ルシウスは、私たちが仲間割れするように、ありもしない嘘の記憶を再生させたのです」
「……嘘の、記憶?」
「はい。私は貴女の執事です。掃除は得意ですが、人を焼いたことなど一度もありません」
彼は私の目を真っ直ぐに見つめて言った。
嘘だ。彼の瞳の奥が、微かに揺れている。
それは罪悪感じゃない。
「この嘘を信じ込ませなければならない」という焦燥だ。彼は隠している。
私と出会う前の、もっと深い、暗い闇を。
そして、その「汚れ」を私に知られることを、
死ぬほど恐れているのだ。
(……この人は、綺麗なんかじゃない)
毒で鈍った頭でも、それくらいは分かった。
彼は手を汚してきた人だ。
あの幽霊が言ったことは、きっと真実だ。
でも。
「……そっか。幻覚なんだ」
私は彼の嘘を飲み込むことにした。
だって、今の私には彼しかいない。
彼が人殺しだろうと、悪魔だろうと、私を抱きしめて、守ってくれているのは彼だけなのだから。
私が真実を追求して、彼が私を「汚れた存在」として見限ったら?そう思うと、怖くてたまらなかった。
「……変な幽霊だったね。怖かった」
「ええ。もう二度と、あのような不潔なモノは近づけません」
アルフォンスは安堵したように息を吐き、私を抱く腕に力を込めた。
その体温は温かいのに、どこか冷たい鉄の匂いが混じっている気がした。
「……部屋に戻りましょう。ここは空気が悪い」
「うん。……お風呂、入ろうかな」
「いいですね。除菌効果のあるハーブバスを用意しましょう。貴女の美しいお耳に入った『雑音』も、綺麗に洗い流さなければ」
彼は私を抱き上げ、早足で地下を後にした。
その背中越しに、私は一瞬だけ振り返った。
綺麗になったはずの地下倉庫の闇。
そこにはもう何もいない。
けれど、あの幽霊の最期の目――「お前もいつか」という憐れみの視線だけが、
瞼の裏に焼き付いて離れなかった。
ルシウスの攻撃は、物理的な壁ではなく、
私たちの心の隙間をこじ開けようとしている。
そのことに気づきながら、私はアルフォンスの胸に顔を埋め、見なかったフリをして目を閉じた。
読んでくださってありがとうございます。
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