第53話「塔内ウォーキング」
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聖域での生活、五日目の午後。
窓の外は相変わらず乳白色の霧に包まれ、時の流れすら曖昧なこの塔の中で、私は優雅に……
いや、怠惰に腐りかけていた。
「……うーん。暇」
リビングのソファに深く沈み込み、私は天井のシミといっても、アルフォンスが毎日磨いているのでシミ一つないけれど見上げていた。やることがない。
魔法の練習は禁止(そもそも毒で使えない)。
外出は不可能(霧の結界)。
読書も、重たい本を持つとアルフォンスが飛んできてページを捲ろうとするので落ち着かない。
「エルカ様。ため息をつくと、幸せだけでなくビタミンまで逃げてしまいますよ」
キッチンから、洗い物を終えたアルフォンスが戻ってきた。
彼は私のダラけた姿を見ると、眼鏡の奥でスッと目を細めた。
「……ふむ。運動不足ですね」
「誰のせいだと思ってるのよ。あんたが毒盛るから、動くのが億劫なの」
「ごもっともです。ですが、筋肉量の低下は基礎代謝を下げ、冷え性や免疫力低下を招きます。……美しいお人形にも、適度なメンテナンス(運動)は必要です」
彼は懐中時計を確認し、パンッと手を叩いた。
「決定しました。これより一時間、『塔内ウォーキング』を実施します」
「ウォーキング?……無理よ。この前みたいに転んだらどうするの?」
私は数日前の「泡地獄事件」を思い出して身震いした。
あの時の保湿成分入りバブルソープのせいで、床はピカピカに磨き上げられ、靴下で歩こうものならスケートリンク並みに滑るのだ。
「ご安心ください。貴女の美しい足を、危険な床に触れさせるつもりはありません」
「は?じゃあどうやって歩くの?」
私が首を傾げると、アルフォンスは優雅に近づき、私を見下ろしてニッコリと微笑んだ。
「こうするのです」
ふわっ。 視界が高くなる。
彼は迷いなく私を抱き上げ、「お姫様抱っこ」の体勢に収めた。
「……はい?」
「さあ、参りましょう。塔の最下層から最上階まで、螺旋階段を往復するコースです」
「ちょ、ちょっと待って!私が歩くんじゃないの!?」
「貴女が歩く必要はありません。私が歩く際の振動、上下運動、そして私の体温変化……それらを肌で感じることによって、貴女の三半規管と自律神経を刺激し、擬似的な運動効果を得るのです」
アルフォンスは真顔で、とんでもない屁理屈を並べ立てた。
「それって、ただあんたが重たい荷物持って歩くだけじゃない!」
「荷物?とんでもない。貴女は私の『命の重み』です」
彼は私を抱え直すと、愛おしそうに私の二の腕に頬ずりした。
「貴女のこの柔らかい重みを感じながら負荷をかけることで、私の筋肉はより強靭に、貴女を守るための鋼へと進化するのです。いわば、愛の共同作業ですね」
「それ、絶対あんたの筋トレでしょ」
ツッコミを入れる気力も削がれる。
でも、彼の腕の中は悔しいほど居心地が良かった。
毒のせいで常に冷えがちな私の体を、彼の体温がポカポカと温めてくれる。
レモンと蜜蝋、そして微かに香る男の匂い。
私はため息をつきつつ、彼の首に腕を回した。
「……落とさないでよ」
「愚問です。自分の心臓を落とす人間がいますか?」
カツ、カツ、カツ……。
静寂の塔内に、アルフォンスの靴音が規則正しく響く。私たちは螺旋階段を上っていた。
塔は外から見れば五階建て程度だが、内部空間は魔法で拡張されているため、階段は果てしなく続いているように見える。
「……ねえ、アルフォンス」
「はい、エルカ様。……お水ですか?汗をお拭きしましょうか?」
「私、汗かいてないわよ。かいてるのはあんたでしょ」
見上げると、アルフォンスの額にうっすらと汗が滲んでいた。
いくら彼が超人でも、成人女性一人を抱えて階段を登り続けるのは楽ではないはずだ。
彼の首筋には血管が浮き上がり、私を支える腕の筋肉は岩のように硬くなっている。
トクトクと、彼の方から伝わってくる鼓動が早い。
「降ろしていいわよ。疲れるでしょ」
「疲れる?いいえ、昂っています」
彼は荒い息を吐きながら、熱っぽい瞳で私を見下ろした。
「この重みが……貴女の存在そのものが、私の筋肉繊維一本一本に食い込んでくる感覚。……たまりません」
「……ドMなの?」
「貴女限定です。それに、気づいていますか?」
彼は足を止めず、壁に刻まれた古代文字のような装飾を一瞥した。
「この階段の段数は、一定ではありません」
「え?」
「私の心拍数が上がれば上がるほど、塔の構造が呼応して、階段が無限に増殖する仕組みになっています」
「な、なんでそんな無駄な機能を……!」
「私が貴女を抱いてドキドキすればするほど、この散歩は永遠に終わらない。素敵だと思いませんか?」
狂気だ。
この塔自体が、彼の執着心とリンクして迷宮化しているなんて。つまり、彼が私を降ろしたくないと願う限り、私たちは一生この階段を彷徨うことになる。
「……バカ。早く落ち着きなさいよ」
「無理ですね。貴女の吐息が首にかかるだけで、心拍数が跳ね上がりますから」
彼はわざと私を強く抱きしめ、頬を寄せてきた。密着度が上がる。
彼の胸板越しに、激しい鼓動が直接伝わってくる。ドクン、ドクン、ドクン。
その音は、まるで「離さない、離さない」という呪詛のように聞こえて、私の心臓まで共鳴しそうになる。
「……んっ……」
不意に、舌の裏が熱くなった。
昨日刻まれた『魂の共鳴』の刻印だ。彼の高ぶった感情が、物理的な鼓動だけでなく、魔力のパスを通じても流れ込んでくる。甘くて、重くて、息苦しいほどの独占欲。
(……ああ、もう。逃げ場がない)
物理的にも、魔術的にも、私は完全に包囲されている。でも、それが嫌じゃなかった。
むしろ、このまま世界の果てまで彼に運ばれていきたいとさえ思ってしまう。
毒に脳を溶かされているのか、それとも私が彼を愛してしまったのか。
境界線はもう、曖昧だった。
その時だった。
ズズズッ……。
微かな、本当に微かな振動が、塔全体を揺らした。足元の階段がきしむ音ではない。
もっと深い、空間そのものが軋むような音。
「……っ!」
アルフォンスの足がピタリと止まった。
先ほどまでの甘く蕩けるような空気が、一瞬で凍りつく。
彼のアイスブルーの瞳から、熱が消え、絶対零度の殺気が宿る。
「……今の、なに?」
「……鼠です」
彼は短く答えたが、私を抱く腕の力がギリリと強まった。痛いほどに。
鼠?違う。私の薬指の指輪が、警告を発するように熱を帯びている。
これは、外部からの干渉だ。
「……結界の外壁に、解析魔法の痕跡。……座標を特定しようとしていますね」
アルフォンスは虚空を睨みつけた。
その視線の先にあるのは、白い霧の向こう側――おそらく、王都の方角だ。
「ルシウス……」
私がその名を呟くと、アルフォンスの肩がピクリと反応した。
ルシウス・ヴァイゼ。この絶対不可侵の霧を、
力ずくで破るのではなく、数式を解くように静かに、確実にこじ開けようとしているのだ。
「……しつこい男だ。貴女への執着だけは、評価してやってもいい」
アルフォンスは吐き捨てるように言った。
けれど、その横顔には僅かな焦燥が滲んでいる。
物理攻撃なら弾き返せる。
けれど、かつての上司であるルシウスは、
アルフォンスの手の内を知り尽くしている。
時間をかければ、いつかは――。
「……アルフォンス、私……」
「大丈夫です」
彼は私の不安を遮るように、強く、強く抱きしめた。骨がきしむほどの強さで。
「誰にも渡しません。たとえ扉をこじ開けられようと、私が貴女を背負って、地獄の底まで逃げ切ってみせる」
彼は歩みを再開した。
今度はゆっくりと、一歩一歩を踏みしめるように。それは散歩というより、自分の領土を確認する獣の足取りだった。
「地面には降ろしませんよ、エルカ様」
耳元で囁かれる声は、甘いのに、震えるほど怖かった。
「貴女の足が地面につけば、そこから連れ去られるかもしれない。……だから、貴女はずっと私の腕の中にいてください。宙だけが、私たちに残された最後の聖域ですから」
ズズッ……。再び、微かな振動。
見えない敵が、コンコンと扉をノックしているようだ。私は怖くなり、彼の首にしがみついた。
舌の裏の刻印が熱い。指輪が熱い。
そして何より、彼の鼓動が早鐘のように打っている。
それはもう、筋トレの興奮ではなく――愛するものを奪われるかもしれないという、純粋な恐怖の鼓動だった。
終わらない螺旋階段。迫り来る外部からの侵食。
私たちは、互いの体温だけを頼りに、霧に閉ざされた塔の中を彷徨い続けるしかなかった。
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