第51話「聖域の朝は「全項目検品」」
◆ 更新スケジュール ◆
この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。
「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。
世界が白に沈んでから、三日が過ぎた。
窓の外に広がっていた森も、空も、太陽さえも、
今はもう見えない。
あるのは、私の魔力が作り出した「絶対不可侵の霧」だけ。
乳白色の壁に囲まれたこの塔は、時が止まったかのような静寂に包まれていた。
「……んぅ……」
天蓋付きのベッドの中、私は微睡みの底から浮上した。体が重い。
それもそのはずだ。先日の「魔力大放出(大掃除)」の後遺症に加え、アルフォンスが淹れる「特製紅茶(魔力抑制剤)」の濃度がさらに上げられたからだ。
今の私は、指先一つ動かすのにも、彼の助けが必要な状態だった。
「お目覚めですか、エルカ様」
私が瞼を開けるよりも早く、耳元で涼やかな声が響いた。
目を開けると、視界いっぱいに、銀縁眼鏡とアイスブルーの瞳があった。
距離、およそ五センチ。
「……アルフォンス、近い」
「おはようございます。今朝の顔色は良好、呼吸音もクリアです」
彼は挨拶もそこそこに、私の額に自分の額をコツンと当てた。
冷たい。彼の手袋や肌の冷たさが、火照った私の体に心地よい。
「体温、36.5度。平熱ですね。……では、これより『朝の全項目検品』を開始いたします」
「……またやるの? 毎日毎日……」
「当然です。ここは聖域。貴女の健康と美しさを脅かす外敵はいませんが、内なる変化を見逃すわけにはいきません」
アルフォンスは恭しく一礼すると、サイドテーブルに置かれた銀のトレイを引き寄せた。
そこには、見たこともないような魔導計測器や、高級そうな小瓶がずらりと並んでいる。
「失礼します。……腕を」
言われるがままに左手を差し出す。
薬指には、あの日贈られた「服従の指輪」が銀色の輝きを放っている。彼は私の手首を掴み、脈拍を測り始めた。トクン、トクン……。
彼の指先が触れるたび、私の心臓が少し跳ねる。
「脈拍、安定しています。……ですが、少し早くなりましたね? 私の接触に興奮されている証拠です。大変よろしい」
「……いちいち言わなくていいわよ」
「次は肌の水分量チェックです」
彼は手袋を外し、素手で私の頬、首筋、そして鎖骨の窪みをなぞり始めた。 長く、美しい指が、
肌の上を滑る。ただの診察のはずなのに、その手つきはまるで愛撫のように粘着質で、熱を帯びていた。
「ふむ。昨晩の保湿パックの効果が出ています。キメが整い、マシュマロのような弾力だ」
彼は私の頬を親指の腹でぷにぷにと押し、満足げに目を細めた。
「ですが、左の頬に……0.01ミリほどの微細なざらつきを感じます。昨夜、枕に顔を埋めて寝ていましたね?」
「……そんなの分かるわけないでしょ」
「分かります。貴女の肌のコンディションは、私が全て記憶していますから」
アルフォンスは真顔で言い切ると、今度は奇妙なモノクルを取り出し、装着した。
レンズの奥で、魔術的な光が回転する。
「続いて、魔力純度の検査です。……動かないでください」
彼が私の顔を両手で挟み込み、至近距離から凝視してくる。その瞳は、恋人のそれではない。
顕微鏡で検体を観察する研究者の目だ。
「……異常なし。外部からの魔力干渉の痕跡は認められません」
「干渉って……この霧の中に、誰かが入ってこれるわけないじゃない」
私が呆れて言うと、アルフォンスの表情がスッと曇った。彼はモノクルを外し、どこか怯えるような目で窓の外の「白」を一瞥した。
「……油断はできません、エルカ様」
彼の声のトーンが落ちる。
「あの男……ルシウス・ヴァイゼは、常識が通じる相手ではありません。物理的な侵入が不可能でも、貴女の夢や、無意識の領域に『汚れ』を混ぜ込んでくる可能性があります」
「……汚れ?」
「ええ。過去のトラウマ、不安、自己否定……そういった精神的な『ゴミ』を送り込み、内側から貴女を腐らせようとする。それが彼のやり方です」
アルフォンスの手が、私の肩を強く掴んだ。痛いほどに。
「だから、私は毎朝確認しなければならないのです。貴女の中に、私以外の『誰か』の痕跡が残っていないかを」
「……アルフォンス」
「もし少しでも他者の魔力残滓を見つけたら……その時は、皮膚ごと削ぎ落としてでも浄化します」
狂気じみた言葉。
けれど、その瞳の奥にあるのは、純粋すぎるほどの「守りたい」という願いだった。
彼は怖がっているのだ。私を奪われることを。
私という領域が、あの蛇のような男に侵されることを。
「……大丈夫よ」
私は動かない腕を精一杯持ち上げ、彼の頬に触れた。
「私の中にあるのは、あんたが飲ませた毒と、あんたへの呆れだけよ。……他の男が入る隙間なんて、1ミリもないわ」
「……エルカ様」
彼は私の手に自分の手を重ね、安堵の息を吐いた。張り詰めていた糸が緩み、いつもの甘い表情が戻ってくる。
「……失礼いたしました。少し、神経質になっていたようです」
「少しじゃないわよ。……ねえ、あんた」
私は彼を見つめ返した。
毎朝毎朝、こうして私の顔を覗き込み、肌を触り、数値を記録する。普通なら狂っている。
でも、この閉ざされた塔の中では、それが唯一の「日常」であり「愛」だった。
「毎日毎日、三十分も私の顔ばっかり見て……飽きないの?」
素朴な疑問だった。
いくら主従とはいえ、変わり映えのしない私の寝起き顔だ。
しかし、アルフォンスはきょとんとして、それから心底不思議そうに首を傾げた。
「飽きる?……私が、貴女にですか?」
彼はふっと笑った。
背筋がゾクゾクするほど、美しく、重い笑顔で。
「一億年見続けても飽きませんが、何か?」
「……即答ね」
「むしろ時間が足りません。貴女の睫毛の本数を数え、虹彩の模様の変化を記録し、産毛の流れを観察するだけで、一日が終わってしまいそうです」
彼はトレイから、乳白色のクリームが入った小瓶を取り出した。
「さあ、仕上げのスキンケアです。……じっとしていてくださいね」
彼が指先にクリームを取り、私の顔に塗り広げていく。
冷たくて、微かに薬草の匂いがするクリーム。
これはただの保湿クリームじゃない。私は知っている。
「……これ、また濃度上げた?」
「おや、バレましたか。鼻が良いですね」
アルフォンスは悪びれもせず、私の首筋にクリームを塗り込んだ。
「『魔力遮断ローション・改』です。貴女の魔力波長を完全に隠蔽し、外部からの探知を弾く……いわば『透明マント』の液体版ですね」
「……これ塗ると、肌がピリピリするのよね」
「我慢してください。これが乾けば、貴女の肌は陶器のように硬化し、ルシウスの汚い視線すら滑り落ちる最強の装甲となりますから」
彼は丁寧に、耳の後ろからデコルテまで、隙間なくクリームを塗っていく。
彼の指が触れるたび、私の肌の上に「見えない膜」が張られていく感覚がある。
世界から隠される感覚。誰にも見つからない、
私と彼だけの深淵に沈んでいく感覚。
「……んっ、そこ……くすぐったい」
「動かないで。塗り残しがあれば、そこから腐り落ちますよ」
脅し文句を囁きながら、彼の手つきはどこまでも優しい。
クリームが体温で馴染み、透明になっていく。
鏡の中の私は、艶やかで、人形のように無機質な美しさを帯びていた。
「よし。……これで完璧です」
アルフォンスは手を拭き、満足げに頷いた。
そして、仕上がった私の顔を両手で包み、額、瞼、鼻先、そして唇へと、検印を押すようにキスを落とした。
「おはようございます、私の美しいお人形さん。今日も貴女は、世界で一番清潔で、誰よりも私のものです」
「……はいはい。おはよう、変態執事」
私は苦笑しながら、彼に身を預けた。
毒で体が痺れていても、このクリームで肌が覆われていても、彼の体温だけは確かに伝わってくる。
窓の外は白い霧。 塔の中は、甘い毒の香り。
ルシウスの影に怯えながら、私たちは互いの存在だけを命綱にして、今日という「永遠」を過ごすのだ。
「さあ、着替えましょう。……今日はどのドレスになさいますか? それとも、一日中私のシャツ一枚で過ごされますか?」
「……ドレスでいいわよ。シャツ一枚なんて、落ち着かない」
「そうですか。残念です。……貴女の太腿のラインを観察する絶好の機会だったのですが」
軽口を叩きながら、彼は私をベッドから抱き上げる。その腕の中で、私はふと思った。
もし、この霧が晴れる日が来たら。
その時、私はまだ「私」でいられるのだろうか。
それとも、彼の望む完全無欠な「人形」になってしまっているのだろうか。
(……ま、どっちでもいいか)
彼のシャツのボタンに顔を埋め、私は思考を手放した。
彼が飽きないと言うなら、私はいつまでだって、
この幸福な監禁生活に付き合ってあげるつもりだった。
読んでくださってありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
感想や評価・ブックマーク、とても励みになります。




