第50話「そして「聖域」は伝説へ」
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ドォォォォォン……!!
世界が震えた。
塔の最上階、分厚いカーテンが引かれた寝室にいても、その衝撃は肌をビリビリと震わせた。
私はベッドの上で膝を抱え、左手の薬指に嵌められたプラチナの指輪を握りしめた。
「……アルフォンス……」
窓の外は見えない。彼が「見るな」と言ったからだ。けれど、何が起きているかは分かる。
指輪が、燃えるように熱いのだ。
この指輪は彼の「魂の一部」だと言った。
今、この小さな金属の輪を通じて、彼の中で荒れ狂う膨大な魔力の奔流が、私の心臓へと直接流れ込んでくる。
ドクン、ドクン、と脈打つたびに、彼の色の魔力が私の中の魔力と混ざり合い、
増幅され、そして外へと放たれていく。
(……すごい。これが、アルフォンスの力……?)
本来なら恐怖で震えるはずの状況だ。
外には三千の軍勢がいる。
けれど、毒(魔力抑制剤)で思考が甘く溶かされた私の脳は、不思議なほどの多幸感に満たされていた。指輪が締め付ける感覚。熱が伝わる感覚。
それが、「彼が今、私のために戦っている」という絶対的な証拠のように感じられたからだ。
ズズズズズ……。
地響きが変わり、大気が悲鳴を上げるような高音が響く。
塔を中心として、目に見えない巨大なドームが展開される気配がした。
破壊ではない。拒絶だ。
この世界にある「不潔なもの」を一切寄せ付けない、神聖不可侵の領域の創造。
――そして。不意に、全ての音が消えた。
爆発音も、兵士たちの怒号も、地響きも。
まるでスイッチを切ったように、世界が静寂に包まれた。
「……終わったの?」
私は恐る恐るベッドから降り、カーテンの隙間から外を覗いた。息を呑んだ。
そこには、もう森も、空も、軍隊もなかった。
あるのは、白。圧倒的な、濃密な「霧」だけ。
塔の周囲を、乳白色の霧が壁のように覆い尽くしていた。上を見ても、下を見ても、何も見えない。
まるでこの塔だけが、世界から切り離され、
白い次元の狭間に浮かんでいるようだった。
コン、コン。
静寂を破る、控えめで優雅なノックの音。
「……エルカ様。入室してもよろしいでしょうか」
待ち焦がれた声。
私が返事をするよりも早く、ドアが開かれた。
「アルフォンス!」
そこに立っていたのは、私の完璧な執事だった。
燕尾服には皺一つなく、銀髪は乱れず、眼鏡の位置も正しい。
たった今、三千の軍勢を相手にしていたとはとても思えない、涼やかな立ち姿。
ただ、その手袋だけが、わずかに黒く焦げていた。
「ただいま戻りました。……お待たせして申し訳ありません」
「無事なの!?怪我は!?」
私は駆け寄り、彼の体をペタペタと触って確かめた。彼はくすぐったそうに目を細め、私の手を取った。
「かすり傷一つありませんよ。……すべて、貴女のおかげです」
彼は私の薬指の指輪に口づけを落とした。
指輪の熱は冷めていたけれど、彼自身の唇は、
火傷しそうなほど熱かった。
「……外の連中は?まさか、全滅させたの?」
「いいえ。ゴミは全て『掃き出し』ました。空間転移によって森の外へ強制退去願いを出しただけです」
「転移って……三千人も?そんな魔力、あんた一人にあるわけ……」
そこまで言って、私はハッとした。指先の痺れ。
体の奥底にある空虚感。
そして、この窓の外を覆う、異常なほど濃密な霧。
「……まさか」
「お気づきになりましたか」
アルフォンスは悪魔的な笑みを浮かべ、窓の外の霧を指差した。
「この霧の正体は、貴女の魔力そのものです」
「……え?」
「ここ一週間、貴女に飲ませていた『魔力抑制剤』……。あれは単に魔力を消すものではありません。貴女の体内で生成される膨大な魔力を、出口を塞いで極限まで圧縮・備蓄するための『ダム』だったのです」
彼は私の手を取り、指輪をなぞった。
「そして、この指輪が『放流スイッチ』でした。先ほど、貴女の中に溜まっていた一週間分の魔力を、この指輪を通じて一気に解放し、増幅して塔の外へ叩きつけたのです」
「……っ!」
言葉が出なかった。
私はただ無力化されていたわけじゃなかった。
知らず知らずのうちに、人間爆弾……いや、生きた大量破壊兵器のエネルギー源にされていたのだ。
「三千人の強制転移など、天才魔女エルカ・シュヴァルツの一週間分の魔力を使えば、掃除機で埃を吸うより簡単なことです」
アルフォンスは誇らしげに語る。
「そして、放出された魔力があまりに高濃度だったため、大気中に溶けきれずに『霧』となって残留しました。……これぞ『絶対不可侵の霧』。貴女の魔力が物理的な壁となって、外敵を拒絶しているのです」
「……じゃあ、この霧は……私自身ってこと?」
「はい。貴女の力が、私たちを守る揺り籠になったのです」
彼は窓ガラス越しに広がる白の世界を見つめ、
陶酔したように呟いた。
「もう、誰も入れません。この霧はあらゆる魔法を中和し、物理的な侵入者を溶かします。……そして、私たちも二度と外へは出られません」
「……出られない?」
「ええ。貴女自身が生み出した檻ですから、貴女自身にも破ることはできない。ここは今日から、世界地図から消滅した『空白地帯』です」
彼はゆっくりと私の方を向き、微笑んだ。
「貴女と私、二人きりの永遠の国ですよ」
出られない。それはつまり、監禁の完成を意味していた。
普通なら、騙されたと怒るべきかもしれない。
でも、彼の説明を聞いて、私の胸に落ちたのは「納得」と「安堵」だった。
私が毒を飲み、苦しんだ時間は無駄じゃなかった。私の力が、彼を守ったのだ。
(……共犯、だね)
私は彼の胸に頭をもたせかけた。
毒に冒された体は、自由な外界よりも、この閉ざされた檻の安らぎを求めていた。
「……そう。じゃあ、これからずっと、あんたの顔だけ見て暮らすのね」
「飽きますか?」
「ううん。……最高の景色よ」
私が笑うと、アルフォンスは泣きそうな顔で微笑み、私を強く抱きしめた。
「……愛しています、エルカ様。この命が尽きるまで、貴女を磨き上げ、守り抜きます」
白亜の塔は、私自身の魔力でできた霧の海に沈む孤島となった。
世界から忘れ去られた、二人だけの楽園。
これが幸せな結末だと、この時の私たちは信じて疑わなかった。
一方、その頃。 王都の中枢、魔法省本庁舎。
その最上階にある長官執務室は、重厚な静けさに包まれていた。
「……ほう。全滅、かね」
最高級のマホガニーで作られた執務机の奥。
揺り椅子に深く腰掛けた初老の紳士が、報告書を片手にポツリと呟いた。
白髪をオールバックに撫でつけ、仕立ての良いローブを纏ったその男。
魔法省長官――ルシウス・ヴァイゼである。
「はっ……! 申し訳ありません、閣下!アルフォンス・クラインの反撃は想定を遥かに超えており……展開した三千の兵は、一人の死者を出すこともなく、装備だけを破壊されて森の外へ放り出されました……!」
跪いて報告する部下の声は、恐怖で震えている。無理もない。
国一つを落とせる戦力を投入して、たった一人の執事に「ゴミ掃除」のようにあしらわれたのだから。
だが、ルシウスは怒鳴りもしなければ、机を叩くこともしなかった。
彼は手元のワイングラスを揺らし、香りを楽しむように目を細めただけだ。
「死者はゼロ、か。……相変わらずだねぇ、彼は」
ルシウスの声は、柔らかく、紳士的だった。
だが、その響きには蛇が肌を這うような湿り気と、底知れぬ冷酷さが潜んでいる。
「かつて『掃除屋』と呼ばれた頃から、彼の仕事は綺麗すぎた。……血の一滴、悲鳴の一つすら残さない。それが彼の美学であり……最大の弱点でもある」
カチャン。ルシウスはグラスを置き、手元にあったチェス盤に視線を落とした。
盤面には、白い霧に包まれた「塔」に見立てたルークと、それを守る銀色のナイトの駒が置かれている。
「『聖域』を作って引き籠もったか。……ふふ、私の可愛い駄犬が、いっぱしの飼い主気取りとはね。面白い」
彼は笑った。 慈愛に満ちた祖父のような笑顔。
けれど、その目は爬虫類のように縦に裂けているように見えた。
「閣下……いかが致しますか? 直ちに第二陣を……」
「いや、無駄だ。あの霧は、エルカ君の膨大な魔力を彼が制御して作った『断絶壁』だ。物理攻撃も魔法も通じない。……力ずくでこじ開けるのは、無粋というものだよ」
ルシウスは立ち上がり、窓の外――遥か彼方にあるはずの森の方角を見つめた。
「北風と太陽の話を知っているかね?頑丈なコートを着込んだ旅人を裸にするには、暴風よりも……内側から暑くしてやるのが一番だ」
彼はチェス盤の上の、銀色のナイトをつまみ上げた。
「アルフォンス君。君は完璧だ。強く、美しく、そして脆い」
「……君が隠したがっている『過去の汚れ』。……それをエルカ君が知ったら、あのお人形さんはどんな顔をするだろうねぇ?」
パチン。ルシウスの指が鳴る。
ナイトの駒が、彼の指先から放たれた黒い魔力によって、ドロドロに溶けて崩れ落ちた。
「そろそろ『躾』の時間だ。……飼い主が誰なのか、思い出させてあげよう」
老紳士は愉しげに、崩れた駒をゴミ箱へと弾き飛ばした。その顔には、これから始まる残酷な遊戯への期待だけが浮かんでいた。
聖域の平和は、嵐の前のまどろみに過ぎない。
物語はここで、甘いラブコメディの皮を被った第一幕を終え――過去と罪が暴かれる、泥沼の第二幕へと足を踏み入れる。
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