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第5話「黒髪を解く指先」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

バスタブに満たされたお湯は、私の冷え切った身体を容赦なく包み込んだ。

ザブン、という音と共に水位が上がる。

私は膝を抱え、お湯の中に逃げ込むように肩まで浸かった。


「……ふぅ……」


思わず、安堵の吐息が漏れる。 温かい。

ここ数年、魔導書の山に埋もれて冷たいパンばかり齧っていた私の身体にとって、この適温のお湯は劇薬に近い。

凍りついていた血管が強制的に拡張され、痺れるような感覚が指先まで駆け巡る。


だが、安らぎは一瞬だった。

水面を隔ててすぐそこに、銀髪の悪魔が仁王立ちしているのだから。


「……逃げないでください、エルカ様。まだ洗浄工程の初期段階です」


アルフォンスは袖を捲り上げた両腕を、躊躇いなくバスタブの中へと突っ込んできた。

チャプン。 お湯が揺れる。

彼の手――あの異常なほど熱を帯びた素手が、

お湯の中で私の足首を捕獲した。


「ひゃうッ!?」


「じっとして。……ああ、やはり。お湯に入れただけで、この濁り様ですか」


彼は私の足首を掴んだまま、少し眉をひそめてバスタブの中を覗き込んだ。

透明だったはずのお湯が、私から溶け出した長年の垢と埃、そして染み付いたインクによって、

うっすらと灰色に濁り始めている。


「……汚らわしい。まるでドブ川の底をさらっている気分です」


「い、言い過ぎでしょ! ちょっと生活感が出ただけよ!」


「これを生活感と呼ぶのは、ドブネズミだけです」


アルフォンスは容赦ない毒舌を吐きながら、

もう片方の手で、バスタブの縁に置かれたボトルを手に取った。

琥珀色の液体が、彼の手のひらにたっぷりと注がれる。途端に、バスルームの空気が一変した。


それまでの湿った湯気の匂いを塗り替える、芳醇で高貴な香り。 深みのあるローズ、清涼感のあるベルガモット、そしてベースに香る甘い蜜蝋。

魔法省の給料数ヶ月分はしそうな、最高級の洗浄液の香りだ。


「さあ、まずはそのフェルト状に固まった頭髪から処理します。背中を向けて」


「……自分で洗うってば」


「却下。貴女の不器用な手つきでは、汚れを塗り広げるだけです」


彼は強引に私の肩を掴み、くるりと反転させた。 私はバスタブの中で背中を向け、彼に無防備な後頭部を晒すことになる。

バスタブの縁に頭を預けるよう指示され、私はまな板の上の鯉のような心境で天井を見上げた。


「……始めます」


宣言と共に、熱いお湯が頭にかけられた。

そして。


「っ……!」


彼の手が、私の髪の中に侵入してきた。

熱い。 お湯の温度よりも遥かに高い、彼の体温。

ごつごつとした大きく硬い手が、私の頭皮を鷲掴みにする。


「……硬い。頭皮が岩盤のように凝り固まっている」


アルフォンスの指が、頭蓋骨の縫合線をなぞるように動き始めた。 ただのシャンプーではない。

これは、マッサージだ。それも、解剖学を熟知したプロフェッショナルによる、慈悲なき指圧。


「あ、ぐ……ッ、いた、い……!」


「我慢なさい。血流が滞りすぎて、脳に酸素が行っていない証拠です。だから貴女は、部屋を片付けるという単純な思考すら放棄するのです」


ググッ、と親指がこめかみのツボにめり込む。

痛い。涙が出るほど痛い。

けれど、その痛みの奥から、じわじわと熱い痺れが広がってくる。


彼の十本の指は、まるで生き物のように私の頭皮を蹂躙した。 泡立てられた石鹸のヌメリを利用し、滑らかに、しかし力強く。 汚れを掻き出し、コリを粉砕し、私の中に溜まった「淀み」を物理的に破壊していく。


「……ん、ぅ……」


私の口から、情けない声が漏れた。

痛みが、いつの間にか快感に変質し始めていた。 頭の中が真っ白になる。 思考が溶けていく。

彼の指が動くたびに、脳味噌を直接撫でられているような、とろりとした感覚が脊髄を走り抜ける。


(……なに、これ……きもち、いい……)


アルフォンスの息遣いが、すぐ耳元で聞こえる。 彼は無言だ。

だが、その指先からは、雄弁すぎるほどの感情が伝わってくる。


『汚い』 『許せない』

『だからこそ――私が綺麗にしてやらねばならない』


潔癖症の彼にとって、私の汚れた髪に触れることは苦痛なはずだ。 なのに、彼の手つきは止まることを知らない。 むしろ、汚れに触れれば触れるほど、彼の指の熱量は上がり、動きは執拗になっていく。


「……酷い絡まりようだ」


彼は一度動きを止め、溜息交じりに呟いた。

私の髪は、長年の放置と寝癖、そして浴びた魔法薬の飛沫によって、複雑怪奇な結び目を作っていた。 櫛を通そうものなら、歯が折れるレベルだ。


「切り落としてしまいたい衝動に駆られますが……」


彼は私の髪の一房を手に取り、指でその質感を確かめた。


「……素材は良い。漆黒の、闇夜のような黒。磨けば黒曜石のように輝くでしょう」


ゾクリ、と背筋が震えた。

褒められているのか、品定めされているのか。

彼の声には、コレクターが希少な骨董品を見つけた時のような、粘着質な熱が宿っていた。


ほどきますよ」


彼は泡まみれの指で、絡まった髪の結び目をつまんだ。 無理に引っ張ることはしない。

驚くほど繊細な手つきで、一本一本、糸を解きほぐしていく。


「……んっ」


髪が引かれる感覚。

地肌が引っ張られる微かな刺激。

彼は私の髪を、まるで壊れ物を扱うように――

あるいは、爆弾の配線を処理するように、慎重に、かつ大胆に解いていく。


「貴女は……本当に、手のかかる方だ」


独り言のように、彼が呟いた。


「どうしてここまで放置したのですか。……この髪が泣いていますよ」


「う……研究が、忙しくて……」


「言い訳は不要です。……これからは、私が毎日梳いて差し上げます」


毎日? この、心臓が止まりそうな時間を、毎日?


「……そんなの、過保護よ……」


「管理です。……ほら、ここも解けた」


プチッ、という音ではなく、スルリ、という感触。 頑固だった結び目が、彼の魔法のような指先によって解放される。

指通りが良くなった髪の間を、お湯が流れ落ちていく。 その感覚が、たまらなく心地よかった。

縛られていた何かが、物理的にも精神的にも解き放たれていくような開放感。


「……ふぅ……」


私は完全に脱力していた。

バスタブの縁に首を預け、目を閉じる。

彼にされるがまま。

その無防備な姿を、彼が見下ろしていることすら、もうどうでもよくなるほどに。


「髪は粗方片付きました。……次はこちらです」


アルフォンスは、私の左手をお湯の中から引き上げた。


「……う?」


朦朧とする意識の中で、目を開ける。

彼は私の掌を、自分の大きくゴツゴツとした掌の上に乗せていた。 白くふやけた私の手。

その指先、爪の間には、染み付いたインクの黒ずみが残っている。


「魔法使いにとって、指先は杖の延長。ここが汚れていては、魔力の通りが悪くなります」


彼は反対の手で、どこから取り出したのか、小さなブラシを構えた。

柔らかそうな、しかしコシのある毛が植えられた、爪専用のブラシだ。


「……痛くしないでね」


「善処します。ですが、汚れが深くまで入り込んでいますからね」


シャッ、シャッ。


ブラシが爪の隙間に入り込む。

くすぐったいような、むず痒いような、奇妙な感覚。 彼は私の指を一本ずつ丁寧に固定し、爪の裏、甘皮の周り、指紋の溝に至るまで、執拗にブラシを走らせた。


「……んッ、あ……!」


「……おや。意外と敏感なんですね」


アルフォンスが、眼鏡の奥で目を細めた。

指先には神経が集中している。

そこを小刻みに刺激され、私は思わず身をよじった。


「そ、そこ……変な感じ……っ!」


「動かないで。……ああ、ここにもインクの塊が」


彼は私の反応など意に介さず、むしろ楽しむようにブラシの角度を変えた。

中指の爪の裏。 そこを重点的に攻められると、

背筋に電流が走る。


「や、やめ……もう綺麗に……!」


「いいえ、まだです。私の目には、まだミクロン単位の汚れが見えています」


嘘だ。

絶対に、もう汚れなんて落ちているはずだ。

彼はただ、私の指先を弄りたいだけなんじゃないか。


アルフォンスは、私の指を愛おしそうに、そして強く握りしめた。

彼の体温が、指先から侵食してくる。


「……綺麗な形だ」


ブラシを置き、彼は私の指の腹を、自分の親指でグニグニと押し始めた。


「細く、白く、華奢な指。……何もできない、無力な手」


彼は私の手を口元まで持ち上げ――。 チュッ。

指先に、吸い付くようなキスを落とした。


「ッ!?」


私は飛び上がらんばかりに驚いた。

心臓が破裂しそうだ。


「な、なにを……!」


「消毒の仕上げです。……それに、確認ですよ」


彼は私の手の甲に頬を寄せ、深く息を吸い込んだ。 その目は、暗く、熱っぽく濁っている。

先ほどまでの冷徹な執事の顔ではない。

獲物を追い詰め、その味を確かめる捕食者の顔だ。


「……やっと、臭いが消えた」


彼は恍惚とした表情で囁いた。


「あの不快なインクとカビの臭いが消え……石鹸と、貴女自身の甘い匂いだけになった」


「わ、私の……匂い……?」


「ええ。埃の下に隠れていた、貴女本来の香り。花の蜜のように甘く、脆い香りだ」


彼は私の手を離さなかった。

お湯の中で、指を絡ませ、強く握りしめる。

痛いほどに。 逃がさないと告げるように。


「……アルフォンス……手が、熱い……」


「そうですね。……貴女を磨いていると、どうしようもなく血がたぎるのです」


彼は濡れた前髪をかき上げ、私を見下ろした。

湯気の中で、彼の整った顔立ちが妖艶に歪む。


「……まだ、終わりではありませんよ、エルカ様」


彼は私の手をバスタブに戻すと、今度はスポンジを手に取った。

たっぷりと泡を含んだ、真っ白なスポンジ。


「髪と指先は終わりました。……ですが、身体の汚れはまだ半分も落ちていません」


彼の視線が、お湯の中に沈む私の身体――首筋、鎖骨、胸の谷間、そしてその奥へと、ゆっくりと下りていく。


「隠れている場所ほど、汚れは溜まりやすい。……隅々まで、徹底的に検品させていただきます」


「……うぅ……」


私は小さく呻くことしかできなかった。

拒絶の言葉は、もう出てこない。

彼の熱い手と、甘い香り、そして圧倒的な支配力に、私の心と身体はとろとろに溶かされていたからだ。


耳元で、彼が囁く。

悪魔の契約のように、甘く、逃れられない言葉を。


「静かに。……さあ、腕を上げてください。次は脇の下を洗いますよ」


私は震える腕を、ゆっくりと持ち上げた。

それは、彼への完全な降伏宣言だった。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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