第4話「バスルームの戦場」
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バスルームの空気は、あたたかい湯気に満ちているはずだった。
けれど、今の私――エルカ・シュヴァルツの肌を刺すのは、極寒の吹雪にも似た「視線」という名の氷柱だった。
足元には、脱ぎ捨てられた黒い魔道士のローブ。
私の身体を覆っているのは、クタクタになったコットンのキャミソールと、色気など微塵もない灰色のショートパンツだけ。
「……ほう」
アルフォンス・クラインの喉が、微かに鳴った。
彼は私の正面に仁王立ちし、腕組みをして、眼鏡の奥のアイスブルーの瞳を細めている。 その視線は、熱っぽくねっとりとしたものではない。
市場で魚の鮮度を見定める仲買人のような、あるいは欠陥住宅のヒビ割れを探す建築検査官のような、あまりにも実務的で冷徹なものだった。
「み、見ないでよ……!」
私は反射的に身を縮め、両腕で胸元と太ももを隠そうとした。
けれど、アルフォンスは鼻で笑った。
「隠す必要などありませんよ、エルカ様。貴女が隠そうとしているのは『羞恥心』ではなく『不都合な真実』でしょう?」
「な、なによ不都合な真実って!」
「例えば、その二の腕の裏側にへばりついたインクのシミ。あるいは、膝小僧に蓄積した角質。そして何より――全体的に漂う、栄養失調気味の貧相なライン」
「うっさいわね! 大きなお世話よ!」
「事実です。……やれやれ。ローブの下はブラックボックスだと思っていましたが、開けてみればこれですか。予想以上にメンテナンスが行き届いていない」
アルフォンスは呆れたように溜息をつき、一歩、私に近づいた。
カツン、と革靴の音がバスルームのタイルに響く。
私はジリジリと後退りしようとしたが、背中が冷たい洗面台の縁にぶつかって止まった。
「逃げ場はありませんよ」
「ち、近寄らないで! あんた、それでも執事なの!? 主人の着替えを覗くなんて!」
「訂正してください。覗いているのではありません。『検品』しているのです」
「け、検品……!?」
耳を疑う単語に、私は絶叫した。
「私はこれから、この『薄汚れた肉体』という名の素材を洗浄し、磨き上げ、人間としての機能を回復させなければなりません。そのためには、現状の損耗具合を正確に把握する必要がある」
「私は物品じゃないわよ!」
「いいえ。自分自身を管理できず、ゴミ屋敷の一部と同化していた貴女は、現時点では『可燃ゴミ』と大差ありません。……ああ、いや。分別が面倒なぶん、粗大ゴミでしょうか」
「誰が粗大ゴミよ!」
アルフォンスは私の抗議など意に介さず、白い手袋をした手を伸ばしてきた。
ビクリと身構える私を無視して、彼の指先が私の二の腕をつまむ。
「ひゃっ!?」
「……ふむ。筋肉量が圧倒的に足りていない。これでは杖を振るのも一苦労でしょう。それに、肌の色が青白い。まるで深海魚のようだ」
「深海魚……ッ」
「ですが」
彼は言葉を切り、つまんでいた指の力をふっと緩めた。
手袋越しに、私の肌をなぞるように滑らせる。
「……肌のキメだけは、驚くほど細かい」
「……え?」
急にトーンが変わった。 事務的なダメ出しから、湿度を含んだ低い声へ。
彼の視線が、私の二の腕から肩、そして鎖骨へとゆっくり這い上がってくる。
「ずっと日光を遮断し、外界との接触を絶っていたおかげか……傷一つない。まるで、繭の中に閉じこもっていた幼虫のように無垢だ」
「よ、幼虫って……褒めてるの、それ?」
「素材としては上等だと言っているのです。……ただ、表面のコーティングが最悪ですが」
彼は私の鎖骨のくぼみを、人差し指でツンと突いた。
「ここ。埃が溜まっています。……ああ、首筋もだ。薄汚れた膜に覆われている」
アルフォンスの顔が近づく。 整いすぎた美貌が、至近距離で私を見下ろす。
眼鏡の奥の瞳が、怪しく揺らめいた。
「許せませんね」
「……っ」
「これほど上質な素材が、こんな粗雑な扱いを受けているなんて。……貴女を見ていると、私の職業倫理が悲鳴を上げるのと同時に、猛烈な『掃除欲』が湧いてくるのです」
ゾクリ、と背筋が震えた。 それは恐怖なのか、それとも別の感情なのか。
彼の言葉には、単なる潔癖症では片付けられない、何か粘着質な執着が含まれている気がした。
「さあ、検品は終了です。本格的な洗浄プロセスに移行します」
アルフォンスは身体を離すと、私の横にある洗面台に視線をやった。
そこには、彼が事前に用意していたらしい、琥珀色の液体が入ったボトルや、真っ白なスポンジ、そして様々な形状のブラシが並べられている。
まるで手術道具だ。
「ま、待って。自分で洗う。ね? お風呂くらい一人で入れるから」
私は必死に提案した。
このまま彼に洗われたら、身も心もゴシゴシと削り取られてしまいそうな危機感があった。
「信用できません」
即答だった。
「貴女のことだ。私が目を離した隙に、カラスの行水で済ませるか、あるいは浴室の隅で居眠りをするに決まっています」
「しないわよ! 失礼ね!」
「前科があるでしょう。三年前、王立図書館の書庫整理を任された際、貴女は『本のホコリを払う』と言って、風魔法でホコリを巻き上げただけで終わらせましたね? あれで私の鼻炎が悪化したのを忘れたとは言わせませんよ」
「うぐっ……なんでそんな細かいこと覚えてるのよ……」
「私の記憶力は、汚れに関しては完璧です。……さあ、問答は終わりだ。まずはその見苦しい下着を廃棄します」
「は、廃棄ぃ!? 脱ぐって言いなさいよ、脱ぐって!」
アルフォンスの手が、私のキャミソールの裾に伸びる。
「きゃあぁぁ! やめて! 痴漢! 変態! セクハラ執事!」
私は両手を振り回して抵抗した。 バシッ、と私の手が彼の手首を叩く。
だが、彼は眉一つ動かさない。
むしろ、私の抵抗を楽しんでいるかのように、口の端を吊り上げた。
「暴れないでください。埃が舞います」
「だったら触らないでよ!」
「往生際が悪いですね。……いいでしょう。ならば、実力行使に出るまでです」
アルフォンスは一度手を引っ込めると、ゆっくりと右手を口元へ持っていった。
装着されたままの、真っ白な綿の手袋。
彼はその指先――人差し指の先端を、自分の前歯で軽く噛んだ。
「ッ……!」
私は息を呑んだ。
その仕草があまりにも、背徳的で、唐突に色気に満ちていたからだ。
完璧な燕尾服に身を包んだ彼が、行儀悪く手袋を噛む。
そのギャップ。 野性的な唇の動き。
グッ。
彼が頭を少し後ろに引く。布地が引っ張られ、手袋がズレていく。
白い布の下から、彼本来の皮膚が露わになる。
プツッ、という微かな音と共に、手袋が指先から外れた。
彼はそのまま口を使って手袋を引き抜き、ペッと洗面台の端に吐き出した。
「……手袋を、外すの?」
私の問いかけに、彼は濡れた唇を舌で舐めながら答えた。
「ええ。貴女の汚れは頑固そうですからね。布越しでは感触が鈍りますし、何より……」
露わになった、アルフォンスの右手。
それは、貴族のように白く細い手ではなかった。
節くれ立ち、骨格がしっかりとした、大きく男らしい手。
浮き出た血管が、彼の生命力をまざまざと主張している。
「素手で触れて、貴女の身体に刻み込まれた『ズボラ』という名の汚れを、根こそぎ感知して差し上げましょう」
「……っ」
「左手も邪魔ですね」
彼は左手の手袋も、右手で掴んで引き抜いた。
シュッ、という衣擦れの音が、静かなバスルームに響く。 両手が、素手になった。
その手を見ただけで、私の心臓が早鐘を打った。
今まで手袋に隠されていた「オス」の部分が、むき出しになったような気がして。
「いよいよ、開始です」
アルフォンスが、私から目を離さずに、一歩踏み出した。
「ひっ……」
「動き回ると、転んで怪我をしますよ。……大人しくしていなさい」
彼の手が伸びてくる。今度は、躊躇いなく。
「……あ……」
彼の手が、私の脇腹に触れた。 手袋越しではない。
直接、彼の素肌が、私のキャミソールの下から入り込み、肌に触れたのだ。
「……っ!」
触れた瞬間、私はビクリと身体を震わせた。 熱い。 異常なほどに、熱い。
手袋越しにも感じていたけれど、直に触れる彼の指先は、まるで発熱しているかのように高温だった。私の体温が低いせいもあるだろうけれど、まるで焼きごてを当てられたような衝撃だ。
「冷たいですね、エルカ様」
彼の掌が、私の脇腹を這い上がり、背中へと回る。 その熱が、肌から浸透し、血液を温めていくようだ。
「……あんたの手、熱すぎ……火傷する……」
「貴女が冷たすぎるのです。……生気がない。まるで死体を洗っているようだ」
「死体扱いしないでよ……!」
「口答えする元気があるなら、手を上げてください。脱がせにくい」
「いやよ! 絶対に手は上げない!」
私は頑なに両脇を締め、キャミソールの裾を握りしめた。
これ以上、彼に何かを許してはいけない気がする。
この最後の一線を越えられたら、私は私でいられなくなる。
「汚部屋の魔女」としてのアイデンティティが崩壊し、「彼に管理されるだけの人形」になってしまいそうだ。
「……やれやれ。本当に手がかかる」
アルフォンスは呆れたように首を振った。
「いいですか、エルカ様。これは医療行為に近いものです。汚染された環境から保護された患者を、衛生的な状態に戻す。ただそれだけのことです」
「患者は医者に裸を見られても文句言わないでしょ!? でもあんたは執事じゃない!」
「執事は何でも屋です。時には医者となり、時には調理人となり、そして時には……処刑人にもなる」
「処刑人!?」
「ええ。汚れに対する処刑人です」
瞬間、私の視界が反転した。
「えっ!?」
アルフォンスが私の腰に手を回し、軽々と抱え上げたのだ。
まるで米袋でも担ぐかのように、雑に、しかし安定した手つきで。
「ちょ、ちょっと! 何すんのよ!」
「重力に従わせることにしました」
彼は私を抱えたまま、一歩横に移動した。 そこは、猫足のバスタブの真横。
「あ、危ないってば!」
「安心してください。落としはしません。……貴女が暴れなければ、ですが」
彼は私を空中で固定したまま、空いている片手で、器用に私のショートパンツのゴムに指をかけた。
「は……!?」
「動かないで。爪が当たりますよ」
抵抗する間もなかった。
重力に逆らって浮いている私の身体から、灰色のショートパンツがスルリと引き抜かれる。 続けて、キャミソールも。
私が「きゃあ!」と叫んでバタつかせている間に、彼は魔法のような手際で、私の身ぐるみを剥いでしまった。
「……ふむ」
私を空中に抱えたまま、アルフォンスは満足げに頷いた。
「これでようやく、洗浄可能な状態になりました」
私は今、生まれたままの姿で、執事に抱え上げられている。
羞恥心で爆発しそうだ。顔から火が出るというのは、こういうことを言うのだろう。
「お、下ろして……! 今すぐ下ろして……!」
「ええ、下ろしますよ。……ここへ」
ドボン。
「ぶふっ!?」
唐突に、温かいお湯の中に落とされた。
落とされたといっても、乱暴に投げ込まれたわけではない。
足先からゆっくりと、しかし確実に沈められたのだ。
お湯が鼻に入りかけ、私は慌てて顔を上げた。
「な、なんなのよもう!」
私はお湯の中で膝を抱え、水面から顔だけを出して彼を睨みつけた。
バスタブには、すでにお湯がたっぷりと張られていたらしい。
そういえば、いつの間に準備したのだろう。 彼の手回しの良さが、今は憎らしい。
「ふぅ……」
アルフォンスは額の汗を手の甲で拭い、袖をまくり上げながら私を見下ろした。
その顔には、大仕事を一つ終えた職人のような達成感と、これから始まる「本番」への静かな闘志がみなぎっている。
「ようやく、スタートラインに立てましたね」
「……最悪」
「最高の間違いでしょう。……さあ、エルカ様」
彼はバスタブの縁に膝をつき、悪魔のような微笑みを浮かべた。
「覚悟はいいですか? ここからは、一ミリ四方の汚れも見逃しません。貴女が泣いて謝ろうと、私は止まりませんよ」
「……鬼」
「お褒めに預かり光栄です。……では、まずはその薄汚れた頭部から攻略しましょうか」
彼は袖を肘まで捲り上げると、その熱く大きな手を、チャプンとお湯の中に浸した。
逃げ場はない。 お湯の温かさと、彼が放つ圧倒的な「圧」に挟まれて、私は小さくなるしかなかった。 これから始まるのは、優雅なバスタイムではない。
彼による、私という存在の「完全洗浄化計画」なのだ。
読んでくださってありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
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