第3話「聖域の崩壊、秩序の到来」
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「……ふむ」
白亜のタイルが敷き詰められたバスルーム。
猫足のバスタブの縁に私を座らせたまま、アルフォンス・クラインという名の男は、突然動きを止めた。
彼の手は、私の薄汚れたローブの襟元にかかっている。 あと数センチ指を滑らせれば、唯一の防壁である布地が剥ぎ取られる――そんな瀬戸際で、
彼は不快そうに鼻をひくつかせたのだ。
「……臭う」
アルフォンスの眉間に、深い渓谷が刻まれる。
私はとっさに自分の脇のあたりを嗅ごうとしたが、彼の冷ややかな視線に射抜かれて硬直した。
「貴女ではありません。……いや、貴女も十分に異臭を放っていますが、今問題にしているのは『空気』です」
彼はバスタブの縁から手を離し、スッと立ち上がった。 その立ち居振る舞いは優雅だが、背中からは「殺意」に似たどす黒いオーラが立ち昇っている。
「開け放った扉の向こうから、リビングの汚染された空気が流れ込んでいます。カビ、腐敗したインク、そして絶望的なまでの埃の臭い……。
これでは、せっかく貴女を洗浄しても、出た瞬間に再汚染されてしまう」
アルフォンスは懐から銀時計を取り出し、チリ、と蓋を開けた。
「予定を変更します。入浴の前に、発生源の完全浄化を執行する」
「は……?」
私が間抜けな声を上げるのと同時に、彼は私に向かって人差し指を突きつけた。
「エルカ様。貴女はそこで待機していてください。一歩でも動いて埃を舞い上げたら――そのローブごと煮沸消毒しますよ」
「煮沸って……私はジャムの瓶じゃないのよ!?」
「菌類レベルの生活をしていたのですから、似たようなものです」
言い捨てると、彼は翻る燕尾服の裾も鮮やかに、バスルームを出て行った。
取り残された私は、湯気の立つバスタブの縁で呆然とする。
「な、なんなのよ、あいつ……」
逃げるなら今だ。 本能がそう告げている。
だが、恐怖ですくんだ足は鉛のように重い。
それに何より、先ほどの彼の目は本気だった。
「動いたら煮沸する」という言葉に、冗談の成分は1ミリグラムも含まれていなかった。
ガシャン!! バリバリバリッ!!
「ひィッ!?」
リビングから、何かが盛大に破壊される音が響いた。 私は恐る恐る、半開きになったドアの隙間からリビングを覗き見た。 そして、絶句した。
「……嘘でしょ」
そこでは、銀髪の死神による「大虐殺」が行われていた。
アルフォンスは白い手袋をはめた両手を指揮者のように振りかざし、目にも止まらぬ速さで空間を支配していた。 彼が指を鳴らすたび、宙に浮いた羊皮紙の束が自動的に分類され、不要と判断されたものが次々とゴミ袋へ吸い込まれていく。
「古代語の解読メモ……判読不能、論理破綻あり。ゴミ」
「ちょ、それはまだ途中……!」
「三年前の食べかけのクッキー。化石化しています。ゴミ」
「それは非常食……!」
「使い魔召喚の触媒……という名の、ただの干からびたトカゲの死骸。不衛生極まりない。焼却」
私の反論など届かない。
彼はまるで、汚れた世界を切り刻む処刑人のようだった。 床を埋め尽くしていた本の山が、魔法によって整然と本棚へ戻されていく。
散乱していたフラスコが、カチャンカチャンと音を立てて洗浄され、棚に収まっていく。
そして、彼が最も許せなかったらしい「床の謎のシミ」に対して、彼は懐から見たこともない洗剤を取り出した。
「消えろ。私の視界から、貴様のような不純物は一ミクロンも存在してはならない」
シュッ、シュッ。
彼が洗剤を吹きかけ、雑巾で拭き上げる。
その動作の、なんと美しいことか。
背中の筋肉が躍動し、無駄のないストロークで床を磨く姿は、剣舞を見ているかのような錯覚さえ覚える。
(……なんで。ただの掃除なのに、どうしてあんなに……楽しそうなの?)
そう、彼は笑っていた。
口元は真一文字に結ばれているが、眼鏡の奥のアイスブルーの瞳が、恍惚とした光を帯びているのだ。 汚れたものが消え、本来あるべき「秩序」が取り戻されていく過程に、彼は興奮している。
『ああ……ここも汚れている。素晴らしい。磨き甲斐がある』
『この頑固な油汚れ……ふふ、私に挑もうなど百年早い』
そんな変態的な心の声が聞こえてきそうなほど、
彼は活き活きとしていた。
ほんの三十分。
たったそれだけの時間で、私の「聖域」は崩壊した。
「……完了です」
アルフォンスが最後の一拭きを終え、額の汗をハンカチで拭う。私は、信じられない光景に言葉を失っていた。
そこは、私の知っている部屋ではなかった。
床は、顔が映るほどに磨き上げられた寄木細工。 窓ガラスは存在しないかのように透明になり、
午後の柔らかい日差しをたっぷりと招き入れている。 本棚は背の順、ジャンル順、そして色のグラデーション順に整列し、まるで王立図書館のような威厳を放っていた。
そして何より――「匂い」が違った。
今までの、埃とカビと、古紙の饐えた臭いはどこにもない。 代わりに鼻腔を満たすのは、
彼が仕上げに撒いたであろう、フレッシュなレモンの香りと、床ワックスの甘い蜜蝋の香り。
そして、わずかに残る彼自身の清潔な石鹸の香り。
「……きれい」
思わず、そう呟いてしまった。
ずっと、薄暗いゴミの中で安心していた。
埃に埋もれている時だけが、誰にも期待されず、
誰にも失望されない、私だけの時間だった。
けれど。
差し込む光の中で、埃ひとつ舞っていない空間は、あまりにも眩しくて。
胸の奥が、締め付けられるように苦しい。
(私の居場所が、ない)
ゴミと一緒に、私という存在まで「掃除」されてしまったような喪失感。
けれど同時に、整えられた空間の心地よさが、
皮膚感覚として伝わってくる。
肺いっぱいに空気を吸い込んでも、咳き込まない。 足元を気にせずに歩ける。
その「当たり前の快適さ」が、私のズボラな心を鋭利な刃物のように刺した。
「……おや、エルカ様。勝手に動かないでくださいと申し上げたはずですが」
不意に、目の前に影が落ちた。
ハッとして見上げると、いつの間にかアルフォンスがバスルームの入り口に戻ってきていた。
逆光の中に立つ彼は、先ほどまでの「掃除の鬼」の熱を孕んだまま、しかし氷のような微笑を浮かべていた。
「ま、待って。見学してただけよ。……すごいわね、あんた。魔法省の掃除部門に転職すれば?」
「褒め言葉として受け取っておきます。……ですが、まだ終わりではありませんよ」
アルフォンスは、ゆっくりと私の方へ歩み寄ってくる。 カツン、カツン。
磨き上げられた床に、革靴の音が小気味よく響く。
「部屋は完璧になりました。空気組成も正常値。湿度、温度ともに適正」
彼は私の目の前で立ち止まり、じっと私を見下ろした。 その瞳に、乱れた髪と薄汚れたローブを纏った、みすぼらしい私が映り込んでいる。
背景が美しくなればなるほど、私という存在の「ノイズ」が際立つ。
「この空間において、唯一の、そして最大の汚染源。……それが貴女です、エルカ・シュヴァルツ」
「う……」
「わかりますか? この美しい部屋に、今の貴女はあまりにも不釣り合いだ。まるで最高級のシルクの上に落ちた泥団子のようだ」
酷い言い草だ。 でも、反論できなかった。
彼の言う通り、今の私はこの光に満ちた部屋の中で、異物でしかない。
「ですから、整合性を取らせていただきます」
アルフォンスの手が伸びる。
今度は、躊躇いなく。
彼の手は私のローブのフードを掴むと、ズルズルと私をバスルームの中へと引き戻した。
「ちょ、ちょっと! 自分で歩くから!」
「いいえ。貴女の足の裏についた微細な埃すら、今のリビングには持ち込ませません」
再び、湿気と湯気の充満する空間へ。
バタン、と背後で扉が閉まる音が、牢獄の鍵が掛かる音のように聞こえた。
「さて」
アルフォンスは私をバスタブの前に立たせると、ゆっくりと、儀式のように白い手袋を外した。
シュッ、という衣擦れの音と共に、彼の手が露わになる。 節くれ立ち、血管の浮いた、大きくて男性的な手。 指先はほんのりと赤みを帯びており、そこだけが異常なほどの生命力を感じさせる。
「手袋を……外すの?」
「ええ。貴女の汚れは頑固そうですからね。布越しでは感触が鈍ります」
彼は外した手袋をポケットにしまうと、私のローブの合わせ目に手をかけた。
「まずは、そのカビ臭い布切れを廃棄しましょう」
「ま、待って!心の準備が!」
「準備? 掃除されるゴミに、準備など必要ありませんよ」
彼の指が、私のローブのボタンに触れる。
素手の指先が、布越しに鎖骨に当たった。
「ヒッ!?」
熱い。 火傷しそうなほど、彼の指は熱かった。
冷徹な言葉、冷ややかな瞳。
なのに、どうしてこんなに指だけが熱いのか。
「……動かないで。ボタンが千切れます」
アルフォンスの顔が近づく。 眼鏡の奥のアメジスト色の瞳が、私の反応を――羞恥に染まる頬や、震える唇を、つぶさに観察している。
(……見られてる)
ただ服を脱がされるだけじゃない。
彼は、私の「恥ずかしい」という感情ごと、すべてを剥ぎ取ろうとしている。
「あ……ん……」
ボタンが一つ、また一つと外されていく。
はだけた胸元に、バスルームの湿った空気が触れる。 それ以上に、彼の視線が肌を這う感触が、
ゾワゾワとした甘い恐怖となって全身を駆け巡った。
「意外ですね」
アルフォンスが、低く呟いた。
ローブが肩から滑り落ち、私の身体が露わになる寸前。 彼は私の首筋から胸元にかけてのラインを、値踏みするように指でなぞった。
「ゴミに埋もれていたにしては……肌のキメは悪くない。素材としては上等です」
「……素材って、言わないで……」
「事実です。……ですが、手入れ不足だ」
彼は私の肩を掴み、くるりと反転させた。
背中のジッパーに、彼の手がかかる。
「これから毎日、私が徹底的に管理します。貴女の髪の一本、爪の先、毛穴の一つに至るまで」
ジジジ……と、ファスナーが下りる音が響く。
ローブが床に落ち、私は下着姿で彼の前に晒された。 恥ずかしさで身体を丸めようとすると、彼の手が私の背筋をスッとなぞり、強制的に背筋を伸ばさせた。
「隠さないでください。検品できません」
耳元で囁かれる、事務的でいて、ひどく情熱的な声。
「さあ、エルカ様。バスタイムです。……貴女のその染み付いたズボラ根性を、熱いお湯と私の指で、洗い流して差し上げましょう」
湯気が立ち込める中、私は観念して目を閉じた。 逃げ場はない。 私の聖域は崩壊し、代わりにこの「完璧な執事」という名の、甘くて息苦しい秩序が、私の世界を支配しようとしていた。
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