第2話「絶対服従という名の強制執行」
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アルフォンスの腕の中は、不快なほどに硬く、
そして恐ろしいほどに安定していた。
小脇に抱えられたまま、エルカは足をバタつかせる。だが、執事の腕はピクリとも動かない。
まるで鋼鉄の拘束具だ。
鼻先を掠めるのは、彼から漂う清潔な石鹸と、
冷たい雨の匂い。このゴミ屋敷に充満するカビと埃の臭いとは対極にあるその香りは、エルカにとって「異物」以外の何物でもない。
「は、離しなさいよ! この無礼者! 変態! 銀髪メガネ!」
「……変態とは心外ですね。私は業務として貴女という『粗大ゴミ』を移動させているに過ぎません」
アルフォンスはエルカを抱えたまま、瓦礫の山――
もとい、本の山を優雅に跨いだ。 彼の革靴が床に着地するたび、カツン、と硬質な音が響く。
その音さえもが、計算され尽くしたリズムを刻んでいるようで、エルカは背筋が寒くなるのを感じた。
彼は部屋の中央、奇跡的に平らなスペースが残っていたソファに、エルカを無造作に下ろした。
ドサッ。 埃が舞い上がる。エルカは咳き込みながら、涙目で彼を睨みつけた。
「なんなのよ、いきなり! 魔法省の人間なら手続きってもんがあるでしょう!?」
「手続きならば、先ほどお見せしましたよ」
アルフォンスは懐から、先ほどの羊皮紙を再び取り出した。今度はエルカの目の前に広げ、その一番下の署名欄を指差す。そこには、見覚えのある筆跡――
魔法省長官のサインと、そしてあろうことか、エルカ自身の魔力署名が光っていた。
「なっ……嘘!? 私、こんなものにサインした覚えはないわよ!」
「お忘れですか? 半年前、予算の追加申請書に紛れ込ませておいたのですが」
「詐欺じゃない!!」
「『管理調整委任状』という名目でしたからね。天才魔女様は、中身も読まずに『金さえくれれば魂でも売ってやるわ』と仰って、サインなさいましたよ」
アルフォンスは眼鏡の奥で目を細めた。
そのアイスブルーの瞳が、獲物を追い詰めた狩人のように愉悦に歪む。
「契約は絶対です、エルカ・シュヴァルツ様。貴女は自身の生活管理権、及び健康維持に関する決定権のすべてを、私アルフォンス・クラインに譲渡したのです」
エルカは唇を震わせた。 覚えがある。
確かに半年前、研究費が底をつき、パンの耳をかじりながら適当な書類にサインをした記憶が。
まさか、それが自分の人生を売り渡す契約だったとは。
「む、無効よ! 騙し討ちじゃない!」
「法的には有効です。それに――」
アルフォンスは一歩、エルカに近づいた。
彼の白い手袋が、ソファの背もたれに置かれる。
逃げ場を塞ぐようなその威圧感に、エルカは身を縮こまらせた。
「今の貴女に、私を拒絶する力がおありですか? 杖もなく、魔力も枯渇気味。食事は三日前から乾燥したビスケットのみ。……肌はカサつき、髪は脂ぎり、目の下の隈は立派な地層を作っている」
彼の指先が、エルカの頬に伸びる。
触れるか触れないかの距離で、その指が輪郭をなぞる。 手袋越しでも伝わる、異常なほどの「熱」。
冷徹な言葉とは裏腹に、彼の指先からは「触れたい」「汚したい」「暴きたい」という、ドロドロとした執着の熱が放射されていた。
「ひッ……」
エルカは小さく悲鳴を上げて首を逸らした。
怖い。 この男は、単なる役人ではない。
もっと別の、危険なナニカだ。
「……汚らわしい」
触れる寸前で手を止め、アルフォンスは再びその言葉を吐き捨てた。
だが、その声色は先ほどよりも湿度を帯びていた。
「このままでは、貴女という国の財産が腐り落ちてしまう。……ええ、そうなる前に、私が徹底的に『防腐処理』を施さねばなりませんね」
アルフォンスは背筋を伸ばし、パン、と乾いた柏手を打った。 その音が合図だったかのように、
彼の手元に銀色のトレイが出現する。
そこには、掃除用具一式――はたき、雑巾、そして見たこともない形状の魔法洗浄液の瓶が整然と並んでいた。
「第一段階を開始します。目標、この部屋の視界確保」
「は? ちょ、ちょっと待って!」
エルカの制止を無視し、アルフォンスは動き出した。 その動きは、人間離れしていた。
残像が見えるほどの速度で、床に散らばるゴミを分別し、袋詰めしていく。
「可燃ゴミ」「不燃ゴミ」「資源ゴミ」「危険物」。
彼の手にかかれば、エルカの生活空間を埋め尽くしていた混沌が、瞬く間に「分類された物質」へと変換されていく。
「やめて! それ捨てないで! それは先月脱いだ靴下!」
「片方しかありませんし、カビが生えています。焼却処分」
「あああっ! その紙くずは新魔法の数式メモなのよ!」
「シミで判読不能です。それにこの程度の数式、今の貴女なら三秒で再構築できるでしょう。甘えないでください」
アルフォンスは慈悲がない。 エルカが必死に守ろうとするガラクタを、冷酷な事務処理能力で次々とゴミ袋へ放り込んでいく。
「あんた……悪魔よ……!」
「よく言われます。ですが、地獄のようなこの部屋にはお似合いの管理人でしょう?」
そして、アルフォンスは窓際に辿り着いた。
分厚い遮光カーテンは、埃と脂で固まり、もはや布というより板のような質感になっている。
彼は顔をしかめ、指先だけでカーテンの端を摘んだ。
「……光を入れましょう。カビと闇は、精神を腐らせます」
シャッ!!
勢いよくカーテンが開け放たれ、錆びついた窓の鍵が魔法で強制解錠される。
窓枠が悲鳴を上げて開き、数年ぶりの外気が塔の中へと雪崩れ込んだ。
「うぐっ……!」
エルカは腕で顔を覆った。 眩しい。
目が焼けるほどに鮮烈な陽光。
そして、風に乗って舞い上がる、部屋中の埃。
キラキラと、黄金の粒子のように輝く埃の中で、
アルフォンスが立っていた。
逆光を背負ったその姿は、神々しいほどに美しく、
そして絶望的に恐ろしかった。
舞い上がる埃の一つ一つが、彼の周囲だけ避けて通る。彼は汚れない。彼だけが、この混沌の中で唯一の「秩序」として君臨している。
「……素晴らしい」
アルフォンスは、風に揺れる銀髪を押さえもせず、
細めた目で室内を見渡した。
「風が通るだけで、死んでいた空気が生き返るようだ。……臭いはまだ酷いですが」
「……私の、聖域が……」
エルカは呆然と呟いた。
薄暗く、狭く、ゴミに囲まれた安心感。
誰にも邪魔されず、自分の好きなものだけに埋もれていられる、子宮のような場所。
それが、暴かれた。
皮を剥がれるような苦痛と、同時に――奇妙な爽快感が、胸の奥を掠めた。
(風が、気持ちいい……?)
そんなはずはない。 自分は引きこもりの魔女だ。
外の世界なんて、うるさくて汚くて大嫌いなはずだ。 なのに、アルフォンスが持ち込んだ風は、頬にこびりついた汚れを撫で、熱を持った頭を冷やしてくれる。
「さて、エルカ様」
アルフォンスが振り返る。
逆光の中で、眼鏡のレンズが白く光った。
「次はこちらです。……貴女が『宝物』と呼んでいる、その不潔な培養槽についてですが」
彼の視線が、サイドテーブルの奥――エルカが最も大切に守っていた一角に注がれる。そこには、ガラスケースに入った「緑色のモフモフした塊」が鎮座していた。
「だ、ダメ! それだけは絶対にダメ!」
エルカは悲鳴を上げて覆いかぶさった。
それは、彼女が三ヶ月前に食べ残したパンから発生したカビに、特殊な魔力を照射して育て上げた、愛すべき使い魔の「カビちゃん」だった。
「触らないで! この子は私の友達なの!」
「友達?」
アルフォンスの声が、氷点下まで下がった。
彼はスタスタと歩み寄り、エルカの首根っこを掴んで――まるで猫のように軽々と持ち上げた。
「あだだだだッ! 首、首絞まる!」
「よく聞きなさい、エルカ様」
アルフォンスは、宙ぶらりんになったエルカの顔を、ガラスケースに近づけさせた。
「これは友達ではありません。ただの腐敗した炭水化物です」
「ち、違うもん! ちゃんと意思疎通ができるのよ! おはようって言ったら震えるし!」
「それは振動です。……汚らわしい。貴女の孤独は理解しますが、カビに愛着を持つなど、精神構造のバグとしか思えません」
アルフォンスは空いた左手で、ガラスケースを摘み上げた。
「やめて、お願い! 捨てないで!」
「いいえ、捨てます。貴女の人生に、このような不潔な友人は不要です」
アルフォンスは躊躇わなかった。
窓の外へ向けて、美しいフォームでガラスケースを放り投げたのだ。
「ああっ!! カビちゃぁぁぁぁん!!」
エルカの絶叫が木霊する。
放物線を描いて森へと消えていく緑色の塊。
それは、エルカの「ズボラな生活」の象徴が、
物理的に排除された瞬間だった。
「……ひどい……人でなし……!」
エルカは床に崩れ落ち、涙目でアルフォンスを睨みつけた。 心底、悔しかった。
悲しかった。 だが、アルフォンスはそんな彼女の涙を見て、恍惚とした表情を浮かべていた。
(……ああ、美しい)
アルフォンスの脳内で、理性の歯車が軋んだ音を立てる。 ゴミを捨てられ、絶望に暮れる魔女。
その瞳に溜まった涙は、どんな宝石よりも透明で、
彼女の頬の汚れを洗い流す聖水のようだった。
虐げたい。もっと泣かせたい。
そして、その涙を自分の指で拭い、彼女のすべてを管理下に置きたい。
彼は、震えるエルカの前に膝をついた。
視線の高さを合わせ、白い手袋を嵌めた手を差し出す。
「泣かないでください。ゴミが減って、部屋が広くなったではありませんか」
「うるさい……! 返してよ、私の静かな生活を……」
「返しません。これからは、もっと騒がしく、清潔で、完璧な生活が待っています」
アルフォンスは、エルカの涙で濡れた頬に、
そっと指を這わせた。ビクリ、とエルカが震える。
先ほどよりも明確な「熱」が、手袋越しに伝わってくる。
「……部屋の粗大ゴミは、あらかた片付きましたね」
アルフォンスは周囲を見渡すことなく、
エルカの瞳だけを見つめて言った。
そのアイスブルーの瞳が、暗く、熱っぽく濁る。
「次は、この部屋で最大の汚染源。……貴女自身の掃除です」
「……え?」
エルカが顔を上げた瞬間、アルフォンスの手が伸びた。 抵抗する間もなく、彼女の身体は再び宙に舞う。 今度は小脇に抱えるのではない。
片腕で膝裏を、もう片腕で背中を支える――
「お姫様抱っこ」の体勢だ。
「きゃっ!? な、なにすんのよ!」
「お風呂です。貴女の体臭は、許容範囲を三段階オーバーしています」
「いやよ! お風呂なんて先週入ったもん!」
「一週間前? ……吐き気がしますね。本来なら煮沸消毒したいところですが、貴女の肌は弱そうなので、特別に私の手で洗浄して差し上げます」
アルフォンスはスタスタとバスルームへ向かって歩き出す。その足取りには、迷いも容赦もない。
「離せぇぇぇ! 自分で入るから! 自分で洗えるからぁぁ!」
「却下します。自分を管理できない者に、プライバシーを主張する権利はありません」
バスルームの扉が開く。
そこは、アルフォンスが先ほど魔法で先行清掃しておいたため、すでにピカピカに磨き上げられていた。 真っ白なタイル。猫足のバスタブには、
湯気が立つ適温の湯が張られている。
「さあ、観念してください、エルカ様」
アルフォンスは、バスタブの縁にエルカを下ろした。 そして、ゆっくりと自分の燕尾服の上着を脱ぎ捨て、袖を捲り上げる。 露わになった前腕は、執事というより剣士のように引き締まり、血管が浮き出ていた。
「徹底的に、磨き上げて差し上げます。……爪の先から、その生意気な魂まで」
眼鏡の奥で光る目が、エルカのローブの襟元を捉えた。 逃げ場はない。 絶対服従の契約と、圧倒的な実力差、そして何より――彼の底知れない「執着」という檻の中に、エルカは完全に捕らえられたのだ。
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