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第47話「甘い痺れ、動かない指先」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

カチッ。カチッ。


静寂に包まれた早朝の寝室に、虚しい音が響いていた。  

籠城生活、七日目。  

私はベッドサイドで、自分の人差し指と親指を擦り合わせていた。

本来なら、この動作一つで指先に小さな種火が生まれ、キャンドルに火が灯るはずだった。

いわゆる、生活魔法の基本中の基本、「着火イグニッション」だ。


「……あれ? おかしいな……」


もう一度、指を鳴らそうとする。

けれど、指先に力が入らない。

まるで氷水に長時間浸けていた後のように感覚が鈍く、甘い痺れが指の腹に残っている。

魔力回路に意識を集中させてみる。いつもなら、体の奥底からマグマのような熱い奔流が湧き上がってくるはずなのに。


……何もない。  

そこにあるのは、空虚な穴と、重たく淀んだ泥のような感覚だけ。


「……嘘……」


背筋が凍りついた。  

魔女にとって、魔法が使えないということは、

手足を失うことと同義だ。  

呼吸が浅くなる。心臓が嫌なリズムで跳ねる。  

これは、夢?それとも――。


「お目覚めですか、私の愛しいお人形さん」


甘く、蕩けるような声が、思考の混乱を遮った。  

振り返ると、いつの間にかベッドサイドにアルフォンスが立っていた。  

完璧に整えられた銀髪、一点の曇りもない眼鏡、そして雪のように白い手袋。  

彼の手には、湯気を立てるティーカップが握られている。


「アルフォンス! 大変なの、魔法が……魔法が使えないの!指もなんか変で……」


「ええ、存じております」


私は彼に縋り付くように訴えたが、彼の反応は酷く平坦だった。  

いや、違う。眼鏡の奥のアイスブルーの瞳が、愉悦に細められている。


「おめでとうございます、エルカ様。……計画は順調です」


「……は?計画って……」


「お忘れですか?貴女ご自身が望まれたことですよ。『三倍の濃度』で、と」


彼は優雅にカップを差し出した。  

そこから漂うのは、濃厚なベルガモットと、

鼻の奥をツンと刺激する奇妙な甘い香り。

――ああ、そうだった。  

私は、自分で選んだのだ。この男に管理されるために、魔力を捨てることを。


「これが……三倍の、効果……」


「はい。貴女の強大すぎる魔力回路を、強力な抑制剤で強制的に塞き止めました。今の貴女は、魔法的な観点で見れば、生まれたての赤子同然です」


赤子。天才魔女と呼ばれた私が、何もできない無力な存在になった。  

本来なら、絶望で叫び出してもおかしくない状況だ。なのに。


「……そっか」


私の口から漏れたのは、安堵の溜息だった。  

力が抜けて、ベッドにへたり込む。


「良かった。……これで、ルシウスに見つかる心配はないのね」


「ええ。今の貴女からは、魔力の残滓すら感じられません。世界で最も安全で、無害な存在です」


アルフォンスがベッドに腰掛け、カップを私の口元に運んだ。


「さあ、モーニングティーを。今朝は、痺れを緩和するハーブを少し加えておきました。飲みやすいはずです」


「……ん」


私は素直に口を開けた。

自分でカップを持つ気力さえ、もう残っていなかった。彼が傾けたカップから、温かい液体が流れ込んでくる。

甘い。脳が痺れるほど甘美な毒の味。

それを飲み込むたびに、胸の奥にあった焦燥感が溶けて、代わりにふわふわとした浮遊感が広がっていく。


「美味しい……」


「それは何よりです。……口の端についていますよ」


アルフォンスは手袋を外し、親指の腹で私の唇についた雫を拭った。  

そして、その指を自身の口に含み、蠱惑的こわくてきに舐めとった。


「……間接キスだね」


「いいえ。これは『毒味』の確認です。ふむ、今日も素晴らしい甘さだ」


彼は満足げに微笑むと、空いたカップをサイドテーブルに置いた。  

そして、熱っぽい手つきで私の頬を両手で包み込んだ。


「さて、エルカ様。お着替えの時間ですが……自分でおできになりますか?」


「……やってみる」


私はネグリジェのボタンに手をかけた。

けれど、指先が言うことを聞かない。

ボタンホールに指を通そうとしても、滑ってしまって上手く掴めないのだ。  

もどかしい。子供に戻ってしまったみたいだ。


「……うぅ……ボタンが、逃げる……」


「ふふっ。逃げているのはボタンではありません、貴女の指先が迷子になっているのです」


アルフォンスは楽しそうに笑うと、私の手を優しく包んで制止した。


「無理はいけません。今の貴女の指は、私の頬を撫でるためだけに存在しているのですから。……残りの作業は、この私が引き受けましょう」


彼は私をベッドから抱き上げ、部屋の中央に立たせた。  

足元がおぼつかない私を支えながら、彼は手際よく私のネグリジェのボタンを外していく。

一つ、また一つ。彼の指が肌に触れるたび、

そこから熱が伝わってくる。


「……アルフォンス、くすぐったい」


「我慢してください。……ああ、素晴らしい。肌のキメが昨日より細かくなっていますね」


彼はボタンを外し終えると、ネグリジェを肩から滑り落とした。  

露わになった肌に、朝の冷気が触れる。  

私が身震いすると、すぐに温かい手が背中に添えられた。


「寒いですか?すぐに温めて差し上げます」


彼は私の全身を検品するように眺め回し、特に首筋や鎖骨のあたりを念入りに指でなぞった。


「ここ数日、私が念入りにリンパマッサージを施した成果ですね。……素晴らしい。貴女は、私が手をかければかけるほど美しくなる」


「……じろじろ見ないでよ、変態」


「最高の褒め言葉です。私は貴女専属の変態執事ですから」


アルフォンスはクローゼットから、淡いラベンダー色のワンピースを選び出した。


「今日はこれになさい。締め付けが少なく、今の貴女の華奢な体を優しく包み込んでくれます」


「……うん、可愛い」


「貴女が着るから可愛いのです。さあ、腕を上げて」


「はい」


言われるがままに両腕を上げる。

まるで着せ替え人形だ。  

彼がワンピースを頭から被せてくれる。

布地が肌を滑り落ちる感触と、彼が腰紐を結ぶために背後に回った時の気配。  

背中に、彼の胸板が押し当てられる。


「……ねえ、近い」


「近くなければ、このリボンは結べませんよ」


彼は私の耳元に唇が触れるほどの距離で囁きながら、腰のリボンを丁寧に結び上げた。その吐息が耳にかかり、私は思わず首をすくめた。


「ん……っ……」


「おや、感じやすいようですね。薬の影響で、感覚過敏になっているのかもしれません」


彼は悪戯っぽく笑い、仕上げに私の首に、以前彼が「貴女に一番似合う」と言って選んだ、黒いベルベットのチョーカーを着け直した。


「この首輪がよく映える」


「……趣味が悪いわよ。これじゃ、本当にペットみたい」


「ペット?とんでもない。貴女は私の所有物であり、同時に私の世界の中心に座る女王陛下です。これほど美しい装飾品はありません」


彼は私を鏡の前に座らせると、櫛を手に取った。  

黒髪を梳く音が、静かな部屋に響く。

サッ、サッ。  

彼のリズミカルな動きに合わせて、頭皮が心地よく刺激される。


「……気持ちいい……」


「でしょう?貴女の髪一本一本のキューティクルの向きに合わせて、櫛の角度を調整していますから」


彼は髪を梳きながら、時折、髪束に口づけを落とす。恭しく、それでいて執着たっぷりに。


「……アルフォンス」


「はい」


「私、本当に何もできなくなっちゃった」


鏡の中の自分を見つめる。  

以前よりも肌が発光するように白く、髪は艶やかで、どこか儚げな美しさを纏っている。

でも、その瞳はとろんと潤んでいて、一人では立っていられないほど頼りない。


「……これじゃ、お嫁にいけないね」


「何を寝ぼけたことを」


アルフォンスの手が止まった。  

彼は鏡越しに私を睨みつけ――いや、熱っぽく見つめ返した。


「貴女の嫁ぎ先は、この『塔』であり、この『私』です。他の男の元へ行くための機能など、最初から必要ありません」


彼は背後から私の肩に顎を乗せ、頬と頬をくっつけた。鏡の中に、銀髪の悪魔と、黒髪の人形が並んでいる。  

その光景は、背筋がゾクッとするほど美しく、

そして歪んでいた。


「これで貴女は、魔法も使えず、一人では服も着られず、私の淹れた紅茶なしでは一日も過ごせない体になりました」


「……ひどい男」


「ええ。……ですが、これでもう、貴女は私の元から飛び立つことはできません。翼をもがれた小鳥は、籠の中で飼い主に愛されるしかないのです」


彼の言葉は呪いのようだった。  

でも、今の私には、それが甘い福音に聞こえる。


(……ああ、楽だなぁ)


心の底から、そう思った。  

もう、難しい魔法式の構築に頭を悩ませる必要もない。

外の世界の敵に怯える必要もない。  

ただ、この完璧な執事に身を委ねて、彼が与えてくれる甘い毒と、重すぎる愛に溺れていればいい。


「……アルフォンス」


「はい、我が主」


「お腹すいた。……食べさせて」


私が甘えるように言うと、彼は破顔した。  

世界が滅びても構わないと言わんばかりの、

狂おしいほどに幸せそうな笑顔で。


「御意。とびきり甘い、朝食をご用意いたします」


彼は私を軽々とお姫様抱っこし、リビングへと向かった。


「今日はフレンチトーストにしましょうか。貴女がフォークを持つ必要がないよう、一口サイズにカットして……たっぷりと蜂蜜をかけて」


「……太らせる気?」


「まさか。貴女の栄養管理は私の生き甲斐です。……ふっくらとしたその唇が、蜂蜜で濡れるところを見たいだけですよ」


彼は歩きながら、抱き上げた私の額にキスをした。


「愛しています、エルカ様。貴女が何もできなくなっても、私が全て代わりに行います。貴女の手となり、足となり、そして……命となりますから」


私は彼の首に腕を回し、その硬い胸板に顔を埋めた。レモンと蜜蝋の香り。  

魔女としての私は死んだのかもしれない。  

けれど、この甘い痺れの中で、私はかつてないほど満たされていた。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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