第46話「執事、嫉妬に狂う」
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「……エルカ様」
籠城生活、五日目の朝。
私の安眠を破ったのは、小鳥のさえずりでも、
目覚まし時計のベルでもない。地獄の底から響いてくるような、絶対零度の執事の声だった。
「……んぅ……おはよう、アルフォンス……。今朝の紅茶は、まだ……?」
私が重い瞼を擦りながら身じろぎすると、ベッドサイドに立っていたアルフォンスは、いつもの「おはようございます」の代わりに、深い溜息をついた。 部屋の温度が、体感で五度くらい下がった気がする。毒(魔力抑制剤)のせいで私の体感温度がおかしいだけかもしれないけれど、それにしても寒い。
「……おはようございます。ですが、爽やかな朝とは言い難いですね」
「え……なんで? 敵が攻めてきた?」
「いいえ。……貴女の神聖なベッドの中に、極めて不快な『異物』が混入しているからです」
アルフォンスの視線が、私の腕の中に突き刺さる。眼鏡の奥のアイスブルーの瞳は、ルシウスを見る時と同レベルの、冷徹な殺意を帯びていた。
「……その、薄汚くて、綿が飛び出し、目玉が一つ欠損している茶色の物体は……一体、何なのですか?」
彼が指差した先。
私が抱きしめていたのは、昨日「秘密の書庫」のガラクタの山からこっそり救出してきた、古びたクマのぬいぐるみだった。
「あ、これ?『クマ吉』よ」
「クマ吉……?」
「そう。昨日見つけて、なんか可哀想で捨てられなくて……。洗ってないから少し埃っぽいけど、抱き心地がいいのよ」
私は愛着を込めて、クマ吉のボロボロの頭を撫でた。長年放置されていたせいか、毛並みはゴワゴワで、カビ臭いような古本の匂いがする。
でも、薬の副作用で心が不安定な今の私には、
この独特の重みとくたびれた感じが、妙に落ち着くのだ。
「……信じられない」
アルフォンスが額に手を当て、よろめくような素振りを見せた。演技派だ。
「私が……この私が、毎日三時間かけて磨き上げ、最高級のシルクと薔薇の香りで包み込んだ貴女の寝床に……そのような産業廃棄物を持ち込むとは……!」
「ひどい言い方しないでよ!クマ吉は廃棄物じゃないわ、友達よ!」
「友達?いいえ、それはダニとハウスダストの集合住宅です」
彼はスッと手を伸ばし、私の腕からクマ吉を奪い取ろうとした。
「直ちに焼却処分が必要です。……貸しなさい」
「やだ! 離してよ!」
私は必死に抵抗し、クマ吉を胸に抱え込んだ。
毒のせいで力が入らないけれど、これだけは譲れない。
「籠城生活で不安なんだから、これくらいいいじゃない!夜だって、薬のせいで変な夢見るし……何か抱きしめてないと落ち着かないのよ!」
「……落ち着かない?」
アルフォンスの動きがピタリと止まった。
彼は奪い取る手を引っ込め、代わりに眼鏡の位置をクイッと直した。レンズが白く光り、表情が見えなくなる。
「……エルカ様。貴女は、寂しいからその物体を抱いていると?」
「そ、そうよ。悪い?」
「なるほど。寂しい、ですか」
彼はゆっくりと、私の方へ顔を近づけてきた。
その顔には、完璧な営業スマイルが張り付いているけれど、目の奥は全く笑っていない。
むしろ、嫉妬という名のどす黒い炎が渦巻いている。
「寂しいのなら、私がいます」
「……はい?」
「その不衛生な物体よりも、私の腕の方が清潔です。筋力トレーニングによって適度な弾力を維持しており、体温も貴女が好む36.5度に調整可能です。抱き心地という機能面において、私がそのボロ雑巾に劣る要素など一つもありませんが?」
アルフォンスは真顔で、とんでもない対抗意識を燃やしていた。ぬいぐるみ相手に、本気でスペック勝負を挑んでいる。
「い、いや、そういう問題じゃなくて……。アルフォンスは人間だし、ずっと抱きついてるわけにはいかないでしょ?」
「構いません。二十四時間、貴女の抱き枕として機能する用意があります」
「私が困るのよ!……それに、クマ吉にはこの『くたびれた哀愁』というか、癒やしがあるの!」
私が力説すると、アルフォンスの視線がクマ吉のつぶらな瞳(片目)に向けられた。
ギリリ……と、彼が嵌めている革手袋が軋む音がした。
「……癒やし、ですか。……私では、貴女を癒せないと?」
「だ、だからそうじゃなくて……」
「貴女がその物体に頬擦りをするたび、私の心臓が不整脈を起こしそうなほど不快です。……嫉妬? いいえ、これは衛生管理者としての義憤です」
いや、完全に嫉妬だ。
彼は深呼吸を一つすると、恐ろしいほど優しい声で告げた。
「エルカ様。……選択してください」
「え?」
「今すぐその物体を私に渡して『洗濯』させるか。……それとも、今ここで私がその物体を原子レベルまで『分解』するのを見るか」
彼の手のひらに、青白い消滅魔法の光が灯る。
本気だ。この男、本当にぬいぐるみを殺す気だ。
「わ、わかった!洗濯!洗濯でお願いします!」
「賢明なご判断です」
アルフォンスは光を消すと、私の腕からヒョイっとクマ吉をつまみ上げた。汚いものを持つように、指二本で耳の端を摘んでいる。
「……徹底的に、洗浄させていただきます。貴女の隣に置いても恥ずかしくないレベルまでね」
彼は邪悪な笑みを残し、クマ吉を連行してバスルームへと消えていった。残された私は、ただクマ吉の無事を祈るしかなかった。
数時間後。
キッチンで毒入りの紅茶を飲んでまどろんでいた私の前に、アルフォンスが戻ってきた。
彼は銀のトレイの上に、うやうやしく「それ」を乗せていた。
「……お待たせいたしました、エルカ様。……『クマ吉』の帰還です」
トレイの上に乗っていたのは、私の知るクマ吉ではなかった。いや、ベースはクマ吉だ。
だが、その姿は劇的に変貌していた。
「……なに、これ」
ゴワゴワだった茶色の毛並みは、特殊な柔軟剤で洗われたのか、絹のように艶やかでフワフワになっていた。飛び出していた綿は最高級の羽毛に入れ替えられ、パンパンに張っている。
欠損していた片目には、深く輝くサファイアの義眼が嵌め込まれていた。極め付けは――。
「……なんで、執事服着てるの?」
そう。クマ吉は、アルフォンスとお揃いの、ミニチュアサイズの燕尾服と銀縁眼鏡を着用していたのだ。
「裸ではみっともないですからね。私の古着をリメイクして着せておきました」
「……クマ吉が、アルフォンスみたいになってる……」
「名付けて『アルフォンス・ベア』です」
彼は誇らしげに胸を張った。
確かに綺麗になった。清潔になった。
でも、なんだろう。この漂ってくる「圧」は。
「さあ、抱きしめてみてください。……以前のような不快な臭いは消え、代わりに私の調合した『安眠アロマ』が香るはずです」
促されて、私は新生クマ吉を受け取った。……悔しいけど、手触りは最高だった。 頬ずりしたくなるほど滑らかで、ふわりとレモンと蜜蝋、そして微かにアルフォンス自身の体香がする。
「うん……すごい。ふわふわ……」
「でしょう? 中身の綿も、吸湿発熱素材の魔法繊維に入れ替えました。抱いているだけで、貴女の体温を最適に保ちます」
「ありがとう、アルフォンス。これなら一緒に寝ても――」
私が素直に礼を言おうとした、その時だった。
『――エルカ様。姿勢が悪くなっていますよ』
クマ吉が、喋った。
しかも、アルフォンスの声で。
「ひゃあっ!?」
私は驚いてクマ吉を取り落としそうになった。
薬で鈍った心臓が、早鐘を打つ。
「な、ななな、なに!?今、クマ吉が……!」
「おや、驚かれましたか?オプション機能です」
アルフォンスは涼しい顔で説明を始めた。
「腹部に音声再生魔法陣を組み込みました。
私が事前に録音した、貴女を管理するためのフレーズが、状況に応じてランダムで再生されます」
『――早く寝ないと、お仕置きですよ』
『――貴女は私のものです』
『――愛しています、ご主人様』
クマ吉から、甘く、重く、そして支配的なアルフォンスの声が次々と流れてくる。
これではぬいぐるみというより、アルフォンスの分身だ。
「ちょ、ちょっと!こんなの落ち着いて寝れないわよ!」
「そうですか?私がそばにいない時でも、私の声が貴女を指導できる。……完璧なシステムだと思いますが」
彼はクマ吉の眼鏡の位置を直しながら自分の眼鏡を直すように、愛おしそうに目を細めた。
「これで、私がトイレや入浴で席を外している間も、貴女は寂しくありませんね」
「寂しくないけど、監視されてる気分よ!」
「監視?……いいえ、見守りです」
さらに、彼は声を潜めて付け加えた。
「それに……そのサファイアの右目には、視覚共有の魔法を付与してあります」
「つまり、そのクマを抱いて寝るということは、貴女の寝顔を至近距離で私が常に見つめているのと同義です。……興奮しますね」
「……っ!」
私は絶句した。
この男、嫉妬の果てに、ぬいぐるみを「遠隔監視端末」に改造しやがった。私の癒やしグッズを、自分の支配ツールに変えてしまったのだ。
「さあ、今夜からはその子をたっぷりと可愛がってください。……その子が受ける抱擁の圧力、温度、湿度はすべてデータとして私に転送されますので」
アルフォンスは満面の笑みで言った。
「私が嫉妬しない唯一の相手は、私自身の分身だけですから」
その夜。
私はベッドの中で、新生クマ吉を抱いて寝る羽目になった。捨てようにも、アルフォンスの魔力がこもっているせいで捨てられないし、何より彼が隣のベッドで「抱かないのですか?」と無言の圧力をかけてくるからだ。
『――エルカ様、いい匂いです』
抱きしめるたびに、クマ吉がアルフォンスの声で囁く。サファイアの瞳が、暗闇の中で怪しく光る。隣のベッドでは、本物のアルフォンスが、
私の心拍数モニターを見ながら満足げに寝息を立てている。
(……逃げ場がない……)
私はアルフォンスの声がするフカフカのクマに顔を埋めた。悔しいけれど、その声は毒に侵された私の脳に心地よく響き、手触りは最高で、私はあっという間に眠気に誘われてしまった。
癒やしを求めた結果、より深い沼に引きずり込まれたことに気づきつつ、私は「アルフォンス・ベア」の腹に顔を擦り付けた。
『――おやすみなさい、私の愛しい人』
クマと執事、二重の重い愛に挟まれて、私の籠城生活の夜は更けていくのだった。
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