第45話「秘密の書庫と、不潔な過去の残滓」
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「……ごちそうさまでした。幸せ……」
極上のステーキランチを終え、私はソファの上で満腹感と、薬効による気怠さに浸っていた。
外の兵士たちには申し訳ないけれど、アルフォンスの料理は魔法そのものだ。
胃袋だけでなく、不安な心まで満たされていく気がする。指先の痺れはまだ続いているけれど、
それすらも心地よい微睡みの一部になっていた。
「お気に召して何よりです。……さて、腹ごしらえも済んだところで」
アルフォンスは手早く食器を片付けると、真っ白な手袋を新しいものに交換し、不敵な笑みを浮かべた。
「食後の運動と参りましょうか」
「運動?……無理よ。足に力が入らないもの」
「ご安心を。激しい運動ではありません。……探検です」
彼は指をパチンと鳴らし、バスルームの方角を指差した。
「数日前、貴女の泡風呂事件によって露出した『秘密の小部屋』……。あそこの調査と、徹底的な『消毒』を行います」
私たちはバスルームへ向かった。
壁の一角が崩れ、ぽっかりと空いた暗い穴。
そこからは、何とも言えないカビと古紙の混ざった匂いが漂ってくる。
「……うっ、埃っぽい」
「マスクを着用してください、エルカ様。……計測によれば、内部のハウスダスト濃度は致死量に達しています」
アルフォンスは私にレースの装飾付き高機能マスクを手渡すと、自身も口元をハンカチで覆った。その目は、親の仇を見るように険しい。
「この塔の歴代の主は、どいつもこいつも整理整頓という概念を知らないようですね。……行きましょう。私の腕に掴まってください」
彼が差し出した腕に、私はしがみついた。
毒のせいで平衡感覚が怪しい私には、この頑丈な腕だけが頼りだ。彼が指先から照明魔法を放ち、暗闇に足を踏み入れる。
中は、予想以上に広かった。
小部屋というよりは、隠し書庫だ。
壁一面の本棚にはボロボロの羊皮紙や魔導書が詰め込まれ、床には得体の知れない実験器具や、
干からびた魔法生物の標本が散乱している。
蜘蛛の巣がカーテンのように垂れ下がり、歩くたびに埃が舞い上がった。
「……汚らわしい。ここは地獄ですか?」
「わぁっ……すごい!お宝の山じゃない!」
私たちの反応は正反対だった。
アルフォンスが顔をしかめて後ずさりする一方で、私は目を輝かせてゴミの山に手を伸ばした。
「見て見てアルフォンス!これ、『自立歩行するキノコ』の培養槽よ!枯れてるけど!」
「……直ちに焼却処分が必要です」
「こっちは『古代語のジョーク集』!……うわ、カビてて読めない!」
「バイオハザードです。触らないでください」
私が何かを拾い上げるたび、アルフォンスは「不潔です」「汚染物質です」と即座に却下する。
彼は杖を指揮棒のように振り、周囲の空間に結界を展開し始めた。
彼の周囲だけ、埃が寄り付かない無菌空間が出来上がっていく。
「エルカ様。……貴女が興味を持つのは構いませんが、選別は私が行います。貴女の美しい指先が、カビ菌に冒されるのを見ていられません」
「過保護ねぇ。……ふらつくから、あんまり離れないでよ?」
「もちろんです。私の半径一メートル以内が、この世で唯一の安全地帯ですから」
彼は私を安全な場所に立たせると、ため息をつきながら本棚の奥へと進んでいった。
どうやら、危険な魔道具がないか先にチェックしてくれるらしい。私はその背中を見送りながら、手近な木箱を漁り始めた。
(……なんだ、これは)
一方、部屋の奥で棚を調べていたアルフォンスの手が止まった。埃まみれの魔導書群の中に、一際異質なオーラを放つ、黒革のファイルが紛れ込んでいたのだ。魔法的な封印が施されているが、経年劣化で脆くなっている。アルフォンスは手袋をした指で、慎重に封印を解いた。
「……『魔法省・非公式任務遂行記録』……?」
表紙に刻まれた文字を見た瞬間、彼のアイスブルーの瞳が凍りついた。なぜ、こんなものがここにある?この塔は歴代の魔女の隠れ家だったはずだ。それがなぜ、魔法省の――それも「裏の仕事」の記録が?
嫌な予感が背筋を走る。彼はページを捲った。
そこには、10年前の日付と共に、無機質なリストが羅列されていた。
――『対象:反体制派魔導師団・幹部12名。処分完了』
――『対象:第二王女・誘拐犯グループ。殲滅完了』
――『対象:北の賢者。証拠隠滅完了』
見覚えのある案件ばかりだった。
そして、全ての記録の「実行者」の欄に、同じコードネームが記されていた。
――『Cleaner(掃除屋)』。
「……ッ……」
アルフォンスは息を呑んだ。
これは、彼自身の記録だ。
彼がまだ「アルフォンス・クライン」という名を持つ前。ルシウス・ヴァイゼの手駒として、国中の「汚れ」を掃除して回っていた時代の、血塗られた業務日誌。
(……なぜ、ここに……)
考えるまでもない。ルシウスだ。
あの男が、かつてこの塔の先代の主と繋がりがあったのか、あるいは意図的にここに隠したのか。 どちらにせよ、これは「ゴミ」ではない。
「爆弾」だ。
もしエルカがこれを見たら?
彼女の愛する完璧な執事が、かつて何百人もの命を奪った冷酷な暗殺者だったと知ったら?
(……嫌われる……)
(汚いと、蔑まれる……)
(あの雨の日、私を拾ってくれた彼女に……失望される……)
恐怖で指先が震えた。
毒を盛って彼女を無力化することには罪悪感を覚えない彼も、「過去の自分」を知られることだけは耐え難い屈辱であり、恐怖だった。
今の自分は、彼女のために磨き上げられた「完璧な執事」でなければならないのだ。
「……アルフォンス? 何かあった?」
背後から、エルカの声がした。
彼女がこちらへ歩いてくる足音がする。
少し引きずるような、頼りない足音。
「……いいえ。何も」
アルフォンスは振り返らなかった。
表情を取り繕う余裕すらなかった。
ただ、手の中にある「不潔な過去」を、彼女の目に触れさせるわけにはいかない。
「ただの……酷く汚れた、古いゴミを見つけただけです」
彼はファイルを持ったまま、掌に炎の魔力を集中させた。
ボッ。
音もなく、黒いファイルが青白い炎に包まれる。
「えっ?ちょっと、何燃やしてるの!?」
炎の色に気づいたエルカが駆け寄ってくる。
「待って!中身も見ないで捨てるなんて、もったいない……」
「見る価値もありません!」
アルフォンスは鋭く叫んだ。
その声の剣幕に、エルカがビクリと肩を震わせる。
「……害虫の卵が産み付けられていました。……貴女に見せられるものではない」
嘘だ。だが、真実よりはずっとマシな嘘だ。
ファイルは瞬く間に灰となり、空中に霧散していく。灰の欠片がキラキラと舞う中、アルフォンスはようやく振り返った。いつもの「完璧な執事」の仮面を被り直して。
「……申し訳ありません、大声を出して。衛生管理責任者として、即時の処分が必要だと判断しました」
「……そ、そう……。びっくりした……」
エルカはまだ不審そうに、宙に舞う灰を見つめていた。その瞳が、何かを探るように細められる。 毒で思考が鈍っているとはいえ、彼女の勘の良さは侮れない。
「……ねえ。本当にただのゴミ?」
「ええ。貴女の人生には、1ミリも必要のない不純物です」
アルフォンスは微笑んだ。
だが、その笑顔はどこか痛々しく、張り詰めていた。
「……ふーん」
エルカが一歩近づく。
彼女の足元には、散乱した魔導書の山があった。 彼女がそれを踏み越えようとした、その時。
ズルッ!
「あっ……!」
薬の影響で踏ん張りが効かず、エルカの体が大きく傾いた。倒れる先は、埃と蜘蛛の巣だらけの床だ。
「危ない!」
アルフォンスは反射的に動いた。
魔法を使うまでもない。鍛え上げられた肉体が瞬時に反応し、彼女の体を抱き止める。
ドサッ。
二人は重なるようにして、床に倒れ込んだ。
舞い上がる埃の嵐。アルフォンスの燕尾服が、
エルカのローブが、瞬く間に灰色に染まる。
「……っ……い、痛ったぁ……」
「……お怪我はありませんか、エルカ様」
すぐ耳元で声がした。
目を開けると、私のすぐ上にアルフォンスの顔があった。彼は私を庇うように背中から落ち、
私を胸の上に抱きとめていたのだ。
「あ……ご、ごめん! 私、足に力が入らなくて……」
私は慌てて飛び退こうとした。
だって、彼は極度の潔癖症だ。
こんな埃まみれの床に寝転がるなんて、彼にとっては拷問に等しいはずだ。しかも、私の服についた汚れまで彼に移してしまっている。
「ど、どいて! 私、汚いから……!」
「……動き回らないでください。埃が舞います」
けれど、アルフォンスの腕は解かれなかった。
それどころか、逃げようとする私の背中に腕を回し、さらに強く抱き寄せたのだ。
「え……?」
「……ああ、もう。貴女といると、私の秩序が台無しだ」
彼は天井を見上げ、深く溜息をついた。
その端正な顔には、埃がついていた。
いつも完璧に磨き上げられている眼鏡も、
少し曇っている。それなのに。どうしてだろう。
今の彼は、いつもの完璧な姿よりも、ずっと人間らしくて、胸が締め付けられるほど綺麗に見えた。
「……汚れてるよ、アルフォンス」
「ええ。最悪です。燕尾服はクリーニングが必要だし、髪も洗い直さなければならない。……この部屋に入ったこと自体が間違いでした」
彼は不機嫌そうに言った。
でも、私を見つめる瞳だけは、熱を帯びて揺れていた。
「……ですが。貴女が怪我をするよりはマシだ」
彼の手が、私の頬についた煤汚れを親指で拭った。白い手袋が黒く汚れる。彼はそれを気にする素振りも見せず、私の顔を引き寄せた。
「……エルカ様」
「な、なに……?」
「私は汚れを嫌います。……過去の汚れも、現在の汚れも」
彼の言葉の意味が、私には半分しか分からなかった。さっき燃やしていた書類のことだろうか?
「ですが……貴女についた汚れだけは、私が引き受けましょう」
彼は囁くと、私の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
「……んッ!?」
キス。甘い、というよりは、何かを隠すような、切羽詰まったキスだった。
埃っぽい空気の中で、彼と私の触れ合う場所だけが熱く溶けていく。まるで、私を外界のすべてから隔離し、彼の「綺麗事」の中に閉じ込めようとするかのように。
「……ぷはっ……」
唇が離れると、銀の糸が引いた。
アルフォンスは私の唇を親指でなぞり、満足げに目を細めた。その瞳の奥には、秘密を守り通した安堵と、暗い執着が渦巻いている。
「……消毒、完了です」
「……ばっ……バカじゃないの!?こんなゴミの中で……!」
「場所など関係ありません。……貴女がいれば、そこが私の聖域です」
彼は私を抱えたまま、軽々と立ち上がった。
自分も埃まみれなのに、その姿はやっぱり、どこまでも優雅で格好良かった。
「さあ、戻りましょう。……書庫の調査は終了です。ここにあるのはゴミだけでした」
彼は振り返りもせず、燃えカスとなった灰の山に背を向けた。私は彼の肩越しに、もう一度だけ部屋の中を見た。あの一角だけ、空気が歪んで見えたのは気のせいだろうか。
薬で痺れた頭では、それ以上深く考えることはできなかった。
「……お風呂、入らないとね」
「ええ。……もちろん、一緒に入りますよ。この汚れを落とすには、私と貴女の徹底的な相互洗浄が必要です」
アルフォンスは悪戯っぽく笑い、私をバスルームへと連れ去った。彼が隠した「過去」が、灰の下でまだ燻っていることなど、毒に侵されたこの時の私は知る由もなかった。
読んでくださってありがとうございます。
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