第44話「愛の炊き出し、塔の絶品サバイバル」
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「……ぐぅぅぅぅ……」
静寂に包まれた塔のリビングに、私の腹の虫が情けない音を響かせた。籠城生活、四日目。
窓の外には、相変わらず魔法省の重装歩兵部隊と、不気味な『双頭の蛇』の旗印が張り付いている。彼らは攻撃を仕掛けてくるわけでもなく、
ただ塔を取り囲み、物流とライフラインを完全に遮断していた。いわゆる、兵糧攻めだ。
「……お腹すいた……」
私はソファの上でクッションを抱きしめ、力なく呟いた。空腹のせいもあるけれど、何より今朝飲んだ「特製紅茶(毒入り)」のせいで、指一本動かすのも億劫だ。思考がとろとろに溶けて、ただ誰かに満たされたいという欲求だけが残っている。
「もう限界よ、アルフォンス。冷蔵庫の中、卵と牛乳しか残ってないじゃない。……私たち、このまま干からびて死ぬのね。綺麗なミイラになって発見されるのよ……」
「ご安心ください、エルカ様。貴女をミイラにするには、湿度が適切すぎます」
キッチンの方から、涼しい声が返ってきた。
アルフォンスは、いつものように完璧な姿勢でフライパンを磨いていた。
この非常事態に、彼だけは少しもやつれていない。それどころか、肌艶が増しているようにさえ見える。
「何を悠長なこと言ってるのよ!食料が尽きたら終わりなのよ!?」
「食料?……ああ、冷蔵庫の話ですか。あれはあくまで『今日の分』を入れておく一時保管所に過ぎません」
彼は磨き上げたフライパンを置き、床に敷かれた絨毯の一角を捲り上げた。
そこには、見覚えのない取っ手――地下ハッチがあった。
「塔の地下第二層。以前は貴女が『失敗した魔法薬の廃棄場』として使っていた汚染区画ですが……私が就任した初日に浄化し、改装しておきました」
彼がハッチを開けると、ひんやりとした冷気と共に、芳醇な香りが漂ってきた。
チーズ、燻製肉、そして熟成されたワインの香り。
「ここは……?」
「私の『非常用パントリー』です」
梯子を降りた先には、信じられない光景が広がっていた。広大な地下空間の壁一面に、棚が整然と並んでいる。最高級の生ハムの原木が吊るされ、木箱には時間停止魔法で保存されている新鮮な野菜が山積みになり、巨大な水槽の中では活きのいいオマール海老が泳いでいた。
「す、すごい……!なにこれ、市場が丸ごと入ってるじゃない!」
「籠城戦は想定内です。貴女と二人きりで最低でも三年間、一切の生活水準を落とすことなく暮らせるだけの備蓄を用意してあります」
アルフォンスは誇らしげに眼鏡を輝かせた。
「むしろ、誰にも邪魔されず、この食材を貴女のためだけに消費できる……。夢のような環境ですね」
「……あんた、この状況を楽しんでるでしょ」
「否定はしません。さあ、エルカ様。本日のランチは、A5ランクの霜降り牛を使った『ロッシーニ風ステーキ』にいたしましょう」
ジュゥゥゥゥゥ……!
熱した鉄板の上で、分厚い牛肉が踊る。
アルフォンスの手つきは魔法使いというより、
三ツ星レストランのシェフそのものだった。
肉汁が溢れ出し、焦がしバターとニンニクの香ばしい匂いが立ち込める。
今の私にとって、この匂いは暴力に近い。
口の中に唾液が溢れて止まらない。
「ん〜っ!いい匂い!」
「お待ちください。……仕上げの前に、少々『スパイス』を効かせましょう」
アルフォンスは突然、キッチンの換気扇を最大出力にし、さらに風魔法を発動させた。
そして、あろうことかリビングの窓を大きく開け放ったのだ。
「ちょ、ちょっと!何してんの!外には敵がいるのよ!?」
「ええ。だからこそです」
彼は杖を一振りし、ステーキから立ち上る濃厚な煙と香りを、一塊の風に乗せて窓の外へと送り出した。風は正確に、塔を取り囲む魔法省の陣営へと流れていく。
「なっ……!?」
「彼らは支給された乾パンと、干し肉を齧りながら野営しています。そこへ、この極上のバター醤油とトリュフの香りが漂っていったら……どうなると思いますか?」
アルフォンスは悪魔的な笑みを浮かべた。
「空腹は理性を蝕みます。……さあ、たっぷりと味わっていただきましょう。我々の『優雅なランチ』の余韻を」
塔の外。
森の中で待機していた兵士たちの鼻を、暴力的なまでの「旨味」が襲撃した。
「な、なんだこの匂いは……!?」
「肉だ! 焼きたての、極上の牛脂の匂いだ!」 「嘘だろ……こっちは三日前の硬いパンだぞ……」
「ニンニク……それに、この甘い香りはマデラソースか!?くそっ、腹が減って力が……」
兵士たちの間に動揺が走る。
ゴクリ、と喉を鳴らす音が連鎖する。
彼らの多くは、上層部からの命令で無理やり動員された下級兵士たちだ。
「おい、ふざけんなよ……。なんで俺たちがこんな泥の中で野宿して、ターゲットは中で宴会してんだよ」
「やってらんねぇよ……。上の連中(ヴァイゼ家)は、俺たちのことなんて捨て駒としか思ってねぇんだ」
「帰りたい……。母ちゃんのシチューが食いたい……」
戦意という名の糸が、プツンと切れる音がした。 武器を地面に置き、座り込む者が続出する。
その様子を窓から見下ろしていたアルフォンスは、冷ややかな目で呟いた。
「……脆いですね。所詮は、金で雇われた寄せ集めですか」
「性格悪いわね……。あんなの、拷問より酷いじゃない」
「彼らは被害者ですよ、エルカ様。憎むべきは、安全な本庁の執務室で紅茶を啜りながら、彼らを死地に送り込んだ『指し手』の方です」
アルフォンスの視線が、遥か遠く、王都の方角――おそらくルシウスがいるであろう場所へと向けられる。
「……兵士の飢えも理解できない主に、勝利などあり得ない。……ですが、私は違います」
彼は窓を閉め、完璧に盛り付けられた皿を私の前に置いた。
「私は貴女を、決して飢えさせない。心も、体も、胃袋も。……さあ、召し上がれ」
目の前には、宝石のように輝くステーキ。
その上には、分厚いフォアグラとトリュフが鎮座している。外の兵士たちの絶望を知ってしまった後だと、少し罪悪感があるけれど……。
私の本能は、もう理性を凌駕していた。
「……い、いただきます!」
フォークを持とうと手を伸ばす。けれど。
「……あ、れ……?」
指先に力が入らない。
カチャ、とフォークが皿に当たって滑り落ちた。 薬のせいだ。今朝の「特製紅茶」が効きすぎて、握力すらままならない。
「……うぅ……持てない……」
「おや、困りましたね」
アルフォンスはわざとらしく驚いて見せたが、
その目は明らかに期待で輝いていた。
「『お薬』が少し効きすぎているようです。これでは、せっかくのステーキが冷めてしまう」
「……どうしよう、アルフォンス」
「私がおりますよ」
彼は流れるような動作で私の隣に椅子を引き寄せ、腰を下ろした。そして、自身の一切れを小さく切り分け、フォークに刺して差し出してきた。
「はい、エルカ様。あーん」
「えっ?じ、自分で……」
「無理でしょう? 手が震えていますよ。……さあ、口を開けて。私が管理しながら食べさせなければ、美しい食事とは言えません」
彼は有無を言わせぬ笑顔で、フォアグラの乗った肉を私の唇に押し当てた。拒否権はない。
そもそも、私にはもうフォークを持つ力すらないのだから。私は観念して口を開けた。
「……あーん」
「はい、良い子です」
濃厚なフォアグラの脂と、彼の甘やかすような視線が、同時に私を満たしていく。美味しい。
悔しいけど、本当に美味しい。
噛むたびに肉汁が溢れ、薬で痺れた体にエネルギーが染み渡っていくようだ。
「……んッ、美味しい……」
「それは何よりです。貴女が、私の手からしか食事を摂れない。その事実が、私にとっては何よりのスパイスですが」
アルフォンスは心底嬉しそうに、次の一切れを口元へ運んでくる。まるで雛鳥に餌を与える親鳥のように。あるいは、愛玩動物を餌付けする飼い主のように。
「……ねえ。私、本当にダメになっちゃうかも」
「構いません。私が一生、こうして食べさせます」
「太ったらどうするのよ」
「太りません。私がカロリー計算し、マッサージで代謝を管理しますから」
逃げ場がない。
外の兵士たちは空腹とホームシックで泣き出し、塔の中では魔女がフォアグラで餌付けされている。それは、あまりにも歪で、けれど最高に贅沢な籠城戦の光景だった。
「……おかわり」
「ふふ、喜んで。貴女のその膨らんだ頬こそが、私にとって最高の勲章です」
アルフォンスは恍惚とした表情で、私の口角についたソースを親指で拭い、それを自身の舌で舐めとった。その仕草があまりに色っぽくて、私はステーキの熱さとは別に、顔が火照るのを感じた。
胃袋を掴まれ、体を毒され、心まで満たされていく。私はもう、この甘い檻から出ることはできないだろう。……出たくない、と思ってしまっているのだから。
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