第43話「耳掃除という名の精神支配」
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「……んぅ……頭が、重い……」
籠城生活三日目の昼下がり。
私はリビングのソファに突っ伏して、泥のように重たい溜息を吐いた。
窓の外には相変わらず魔法省の包囲網が敷かれているし、何より昨晩から始まったアルフォンスとの「同室生活」のせいで、プライバシーなんてものは消滅した。常に視線を感じる。常に心拍数を計測されている。それに加えて――。
(……今日の紅茶、効きすぎじゃない?)
私は気怠い指先を目の前にかざした。
今朝、アルフォンスが淹れた「特製」の紅茶。
私の魔力を消すための毒(魔力抑制剤)がたっぷりと入った一杯。
それを飲んだせいで、身体の芯が痺れたように熱く、思考が甘い蜜に浸されたように回らない。
不安も恐怖も薄れる代わりに、自立心まで溶けていくようだ。
「お疲れのようですね、エルカ様。眉間の皺が深くなっていますよ」
音もなく背後に現れたアルフォンスが、私のこめかみを冷たい指先で押さえた。
「……誰のせいだと思ってるのよ。あんたが盛った薬のせいで、頭がボーッとするの」
「おや、それは重畳。余計なことを考えずに済む、理想的な状態です」
彼は悪びれもせず、私の前に回り込むと、恭しく一礼した。
「ですが、脳内のノイズまでは消えていないようですね。……ルシウスへの警戒、未来への不安。貴女の美しい脳味噌に、不快なゴミが溜まっています」
「……勝手に人の脳内をゴミ扱いしないで」
「メンテナンスが必要です」
アルフォンスは懐から、細長い白木の箱を取り出した。 パカッ、と蓋が開かれる。
中に鎮座していたのは、柄の部分に繊細な銀細工が施され、先端にふわふわとした純白の羽毛がついた、見たこともないほど高級な――。
「……耳かき?」
「特注品です。柄は黒檀、さじ部分はミスリル銀、そして梵天には、極上の肌触りを誇る『天上の白鳥』の羽毛を使用しています」
彼は優雅に手袋を外し、素手になった。
その指先は白く、細く、そして恐ろしいほど整っていた。
「さあ、エルカ様。こちらへ。私の膝をお貸しします」
彼はソファに座り、ポンポンと自分の太腿を叩いた。膝枕の誘いだ。
「え、遠慮するわよ!薬でふらふらなのに、そんな……」
「だからこそです。今の貴女は、自分で頭を支えるのも億劫でしょう?」
図星だった。重力に逆らうのが辛い。
誰かに身を預けてしまいたい。
毒の副作用が、私に甘い堕落を囁いている。
「……これは医療行為に近い『施術』です。貴女の脳にこびりついたストレスという名の垢を、私が直接掻き出すのです」
「言い方が怖いのよ……」
私が躊躇していると、アルフォンスは眼鏡の奥の瞳をスッと細めた。拒否権などない、と言わんばかりの絶対的な「主人」の目。
「エルカ様。……私に身を委ねると誓ったはずです。それとも、まだ自分の足で立てると?」
「……うっ……」
「怖がることはありません。貴女はただ、私の腕の中で、呼吸をして、磨かれていれば良いのです」
その言葉に含まれる強制力と、不思議な安心感。薬で判断力の鈍った私は、抗うことを諦めてしまった。……どうせもう、共犯なんだから。
「……変なことしたら、噛むからね」
「ご安心を。私の太腿は、世界最高級の枕よりも快適であることを保証します」
恐る恐る、彼の太腿に頭を預ける。
――悔しいけれど、完璧だった。
彼の太腿は適度な弾力があり、体温がじんわりと伝わってくる。上を見上げれば、アルフォンスのシャープな顎のラインと、私を見下ろす慈愛に満ちた瞳がある。
「……良い子ですね」
彼は私の前髪を指で払い、耳を露出させた。
素手の指先が耳たぶに触れる。熱い。
普段の手袋越しとは違う、皮膚と皮膚が触れ合うダイレクトな感触に、背筋がゾクリと震えた。
「では、失礼します。……動かないでくださいね。奥まで、綺麗にしますから」
カサッ……。
耳の中に、冷ややかなミスリルの感触が侵入してきた。異物感。けれど、それは不快なものではなく、痒いところに手が届くような絶妙なアプローチだった。
「ん……っ……」
「……おや。ここが敏感ですか?」
カリ、カリ……。
鼓膜のすぐ近くで、音が響く。
誰かに耳を掃除されるという行為は、急所を完全に預けるということだ。今の私は、魔力だけでなく聴覚までも彼に支配されている。
「あ、そこ……くすぐった……」
「力を抜いて。貴女の耳道は少し狭い。入り組んでいて、可愛らしい形をしています」
アルフォンスの声が、頭蓋骨に直接響くようだった。彼は作業をしながら、空いたもう片方の手で、私の頭を優しく撫でている。
まるで、愛玩動物をあやすように。
「……エルカ様。外の世界の雑音など、聞く必要はありません」
カリッ、と少し強く壁を擦られた瞬間、快感が脳天を突き抜けた。
「ふぁっ……!?」
「……汚い言葉も、不安な未来も、あのルシウスという男の戯言も……すべて私が取り除いて差し上げます」
『ささやき魔法』。
それは本来、精神錯乱した患者を落ち着かせるための医療魔術だが、彼の魔力が乗ると、それは強力な精神誘導へと変質する。
「……貴女の耳には、私の声と、私の愛の言葉だけが届けばいい」
耳の奥で、甘い蜜が溶けるような感覚。
アルフォンスの声が、波紋のように脳内に広がっていく。思考がとろける。薬の影響も相まって、意識の輪郭が曖昧になっていく。
怖いことも、不安なことも、どうでもよくなっていく。ただ、この心地よい振動に身を委ねていたい。
「……あ、る……ふぉんす……」
「はい。私はここにいます。……ずっと、ここにいますよ」
彼は仕上げに、梵天(白い羽毛)を耳の中で回転させた。ふわふわとした感触が、ゾワゾワするほどの快感となって神経を逆撫でする。
「んぅ……っ、だめ、それ……!」
「ダメではありません。綺麗になりましょう。貴女の思考の隅々まで、私の色で染め上げます」
視界が白く霞んでいく。
彼の膝の温もりが、深い沼のように私を引きずり込んでいく。抵抗する気力なんて、最初から残っていなかったのかもしれない。
私は、その心地よい闇の中へと、意識を手放した。
夢を見た。 冷たい、雨の音。
鉄の錆びたような臭い。 ここは……どこだろう。ゴミ捨て場?それとも、処刑場?
幼い私は、傘もささずに泥の中を歩いていた。
足元には、壊れた家具や、正体不明のガラクタが山積みになっている。その隙間に、銀色が光った。
『……生きてるの?』
私は覗き込んだ。 そこにいたのは、少年だった。 私より少し年上くらいだろうか。
綺麗な銀髪は泥と血で汚れ、着ている服はずたずたに裂けている。彼は虚ろな瞳で、私を見上げた。その瞳は、今にも消えそうなほど薄い、アイスブルーだった。
『……こないで……』
少年が掠れた声で言った。
『……汚れる……』
彼は自分の血で私が汚れるのを嫌がったのだろうか。それとも、自分がゴミのように捨てられた存在だと自覚していたのだろうか。
幼い私は、そんなことお構いなしに、ポケットから一枚のハンカチを取り出した。
唯一、私が持っていた清潔な白い布。
『……汚いお兄さんね』
私は容赦ない言葉を投げつけながら、そのハンカチを彼の顔に押し付けた。泥を拭う。血を拭う。 宝石のような瞳が、露わになる。
『これ、あげる。……使いなよ』
『……なんで……』
『生きてなきゃ、綺麗にもなれないでしょ?』
私は拙い治癒魔法をかけた。
温かい光が、冷え切った少年の身体を包む。
彼は信じられないものを見るように目を見開き、そして震える手で私のハンカチを握りしめた。
『……あ……』
彼は何か言おうとした。
でも、雨音がそれを掻き消して――。
「……様。……エルカ様」
耳元で囁く声に、意識が浮上した。
目を開けると、そこには心配そうに私を覗き込むアルフォンスの顔があった。
夢の中の少年と同じ、アイスブルーの瞳。
でも、今の彼は傷一つなく、完璧に美しい。
「……あっ……私、寝て……」
「ええ。一時間ほど、ぐっすりと」
アルフォンスは微笑み、私の乱れた髪を整えた。 私はまだ彼の膝の上にいた。頭がぼんやりする。薬のせいで体はまだ重いけれど、耳の中はスースーとして、世界がクリアになった気がする。
「……夢、見てた気がする」
「夢、ですか?」
「うん。……雨の夢。なんか、泥だらけの男の子がいて……」
私が言いかけた瞬間、アルフォンスの手がピタリと止まった。一瞬の間。彼はすぐに動き出し、
私の頬を包み込んだ。
「……不衛生な夢ですね。忘れてしまいなさい」
その声は優しかったけれど、拒絶を許さない響きがあった。
「それは、貴女の中に溜まっていた『過去の雑音』です。私が全て掻き出しましたから、もう思い出す必要はありません」
「でも……あの子、なんかアルフォンスに似てて……」
「気のせいです」
彼はきっぱりと断言した。
そして、まだぼんやりしている私の上体を起こし、抱きしめた。レモンと蜜蝋の香り。
夢の中の鉄錆の臭いとは正反対の、清潔な香り。
「貴女は、今の私だけを見ていればいいのです。……過去の泥濘など、貴女の美しい足で踏み入る場所ではありません」
「……うん、分かった……」
不思議と、反論する気になれなかった。
毒が回った頭では、彼の言葉が絶対の真理のように聞こえる。それに、彼に抱きしめられていると、不安も疑問もどうでもよくなって、ただ安心感だけが満ちていく。耳掃除の余韻だろうか。
脳の奥が痺れて、彼に委ねることが「正しいこと」だと認識してしまう。
「スッキリしましたか?」
「……うん。頭、軽くなった」
「それは何よりです。……では、反対側の耳も掃除しましょうか」
彼は悪魔のように微笑み、再び膝を叩いた。
「まだ半分しか、貴女を私のものにしていませんからね」
私は逆らえなかった。
というより、自分から進んで彼の膝に頭を乗せた。 もっと、溶かしてほしい。外の世界のことなんか忘れて、この清潔で甘い地獄に落ちてしまいたい。 そう願いながら、私は目を閉じた。
閉じた瞼の裏に、あの一瞬だけ見えた少年の寂しそうな瞳が焼き付いていることには、まだ気づかないふりをして。
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