第39話「セルフ洗浄の失敗と泡だらけの惨劇」
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「……もう、限界」
浴室の脱衣所で、私は一人、鏡の中の自分に向かって決意表明をした。
ここ数日、アルフォンスによる「入浴介助」のエスカレートぶりが目に余る。
最初は背中を流すだけだった。
それが、髪を洗い、指の間を洗い……昨日に至っては、「リンパの流れを改善する」という名目で、太腿の付け根や胸の際まで、念入りにマッサージされたのだ。
『エルカ様。そこは老廃物が溜まりやすいのです。力を抜いて……』
思い出して、顔がカッと熱くなる。
あの涼しい顔で、事務的に、でも執拗に触ってくるのが一番タチが悪い。これ以上、彼のなすがままになっていたら、私は羞恥心で蒸発してしまう。
「今日こそは、一人で優雅にお風呂に入るのよ!」
私はローブのポケットから、一本の試験管を取り出した。 中に入っているのは、七色に輝く粘度の高い液体。 私が開発した新薬『全自動・超微細気泡洗浄液』だ。
「これを浴槽に入れれば、魔力を含んだ泡が自動的に発生し、肌の汚れを吸着して浮かせ、分解してくれる……。こすらなくていいし、アルフォンスの手も借りなくていい。完璧よ!」
私は鼻歌交じりに浴室へ入った。
バスタブには、すでにお湯が張られている。
私は服を脱ぎ捨て、試験管の液体をドボドボと投入した。
「仕上げに、拡散の魔法をかけて……」
「いっけぇぇぇ! 私の自立への第一歩!」
杖を振った。
その瞬間、お湯がボコボコと沸騰するように泡立ち始めた。
シュワワワワワ……!
「おぉ、すごい! いい香り!」
ローズとシャボンの香りが広がる。
泡は瞬く間にバスタブを満たし、さらに盛り上がっていく。私はウキウキと片足を突っ込んだ。
「ふふっ、これで全身ツルツルに……」
そう思ったのは、最初の一秒だけだった。
ボッ! ボボボボボッ!!
泡の増殖スピードが、計算式より「三桁」ほど速かったのだ。
「えっ? ちょ、ちょっと待っ……」
バスタブから溢れ出した泡は、まるで生き物のように私を飲み込んだ。 それだけではない。
天井まで届いた泡の柱は、浴室のドアを内側から押し破り、脱衣所へ、廊下へと雪崩のように溢れ出した。
「ぶくっ!? くるしっ……!」
私は巨大な泡の塊の中に閉じ込められた。
上下左右が分からない。
しかも、この泡、洗浄力が高すぎてヌルヌルして踏ん張りがきかない!
(……やばい、溺れる……泡で溺れる……!)
「助けてー! アルフォンスー!!」
私はプライドをかなぐり捨てて叫んだ。
自立? 知ったことか! 今は酸素が欲しい!
「――エルカ様ッ!!」
声が聞こえた。
次の瞬間、白い世界が切り裂かれた。
ヒュンッ!
風魔法による衝撃波が、私の周りの泡を吹き飛ばす。 そこには、ずぶ濡れになりながら、鬼のような形相で立っているアルフォンスがいた。
「アルフォンス……!」
「無事ですか!」
彼は私を抱き上げ、泡の海から救出してくれた。 その腕の力強さに、安堵で涙が出そうになる。
「ご、ごめん……自分で洗おうと思って……」
「……後でお説教です」
彼は短く告げると、私を抱えたまま、比較的泡の少ないシャワーエリアへと移動した。
床も壁も、私の身体も、すべてが高濃度のローションのようにヌルヌルだ。
「……見てください、この惨状を」
アルフォンスが指差した先。
浴室全体が、ホワイトクリスマスのように泡で埋め尽くされている。しかも、その泡は私の魔力で強化されているため、なかなか消えない。
「……私の掃除スキルが試されていますね」
彼は手が滑って少しズレた眼鏡の位置を直し、
私をじっと見下ろした。
その瞳の奥には、呆れと……ギラギラとした「やる気」が燃えていた。
「あ、あの……アルフォンスさん?」
「エルカ様。……貴女は、私に洗われるのがそんなに嫌でしたか?」
「い、嫌じゃないけど……恥ずかしいっていうか……」
「そうですか。ですが、この状況を招いた責任は取っていただきます」
彼は私の身体についた泡を、手袋をしたままの手ですくい取った。 ねっとりとした泡が、糸を引く。
「この魔法泡……非常に粘着性が高く、肌への密着度が強い。ただシャワーで流すだけでは落ちませんね」
「えっ? じゃあどうするの?」
「物理的に、こそぎ落とすしかありません」
彼はニヤリと笑った。
「つまり……貴女が嫌がっていた『手洗い』を、普段の倍以上の時間をかけて、徹底的に行わなければならないということです」
「……うそぉ……」
「嘘ではありません。さあ、覚悟してください。今日という今日は、毛穴の一つまで私の指で征服して差し上げます」
そこからは地獄――いや、天国のような拷問だった。
「ひゃっ! そ、そこくすぐったい!」
「動かないで。泡が脇の下に入り込んでいます」
ヌルヌルの床の上。
滑って逃げることもできない私は、アルフォンスのなすがままだった。
彼の指が、滑らかな泡を介して、肌の上を滑るように動く。 摩擦がない分、指の圧力と体温がダイレクトに伝わってくる。
「……んぅ……」
「……いい声だ。泡のおかげで、感度が上がっていますね?」
彼は楽しそうに囁きながら、私の背中から腰、
そして太腿へと手を滑らせた。
まるで、私の身体でピアノを弾いているかのような手つき。
「……アルフォンス、もう取れた……泡、取れたから……」
「まだです。……耳の裏に一ミリ残っています」
彼は私の耳元に唇を寄せ、チュッ、と音を立てて泡を吸った。
「……ッ!!」
「……甘い。ローズの香りですか」
彼は舌なめずりをして、私をさらに強く抱きしめた。 お互いの身体が泡で滑り、密着度が異常に高い。 心臓の鼓動まで重なり合っているようだ。
「……もう、降参……」
「よろしい。これに懲りたら、二度と『自分でやる』などと言わないことです」
彼は私の額にキスをした。
「貴女を綺麗にする権利は、私だけのものですから」
――と、甘い空気が最高潮に達した、その時だった。
ゴゴゴゴゴ……。
浴室の壁の奥から、重い振動音が響いた。
「……ん? 地震?」
「いいえ。……振動源は、この壁の向こうです」
アルフォンスの表情が一変した。 彼は私を庇うように背中へ回し、泡まみれの壁を睨みつけた。
そこは、先ほどの私の魔法泡が直撃し、長年の汚れというか魔力的な隠蔽塗装が完全に剥がれ落ちた場所だった。 綺麗になりすぎた壁面に、見覚えのない「継ぎ目」が露わになっていた。
「……隠し扉?」
私が呟くと同時に、プシューッという音と共に、壁の一部がスライドして開いた。
「……こんなところに、隠し部屋が……?」
中は暗く、カビ臭い空気が漂ってきた。
私の「全自動洗浄」の威力が強すぎて、先代の主人が隠蔽していた魔法の封印ごと洗い流してしまったらしい。
「下がりなさい、エルカ様。私が確認します」
アルフォンスは警戒しながら、暗闇の中へと足を踏み入れた。 私も恐る恐るついていく。
中は狭い書斎のようになっていた。
机の上には、埃を被った水晶のような装置が置かれている。
「……これは、古代の通信機?」
私が手を伸ばそうとした瞬間、アルフォンスが鋭く叫んだ。
「触れてはいけません!」
だが、遅かった。 部屋の封印が解かれたことで、その装置はすでに起動していたのだ。
ブゥン……!
水晶が赤く明滅し始めた。
不気味な低周波音が響く。
「……しまっ……!」
アルフォンスが舌打ちをした。
「これは『緊急救難信号機』です! ……しかも、魔法省直通の!」
「えっ!?」
「かつてこの塔の主が、実験に失敗して閉じ込められた時のために設置したものでしょう。……封印が解かれたことで、自動的にSOSを発信し始めました!」
ビーコンは、強力な魔力波を放出した。
それは、私たちが張っていた「空間隠蔽結界」の内側から発せられ、結界を突き破って外の世界へと座標を送信してしまったのだ。
「……座標が、特定されました」
アルフォンスが苦々しい顔で言った。
赤い光が、彼の蒼白な顔を照らす。
「塔の『消失』トリックが破られました。……魔法省は今、正確な位置情報を掴んだはずです」
「……うそ……私のせいで……?」
「……責めている場合ではありません」
彼はすぐに冷静さを取り戻し、私の方を向いた。 その瞳には、すでに冷徹な戦士の光が宿っていた。
「エルカ様。……泡遊びは終わりです」
彼は燕尾服を正し、恭しく一礼した。
「直ちに籠城の準備を。……お客様が、大挙して押し寄せてきますよ」
窓の外。 今まで霧に包まれていた景色が、サーッと晴れていく。
そして、その向こう側に見えたのは――。
塔を取り囲むように展開した、魔法省の重装歩兵部隊と、空を埋め尽くす魔導飛行船の大群だった。
「……あちゃー」
私は泡だらけの身体で、乾いた笑いを漏らすしかなかった。 私の「お風呂に入りたい」という小さな願いが、まさか世界との全面戦争の引き金になるなんて。
「ご安心を」
アルフォンスが、私の腰を抱き寄せた。
ヌルリとした感触。でも、その体温だけは、どんな武器よりも頼もしかった。
「泥汚れも、泡汚れも、そして魔法省という害虫も……すべて私が『掃除』いたします」
彼は不敵に笑った。
最強の執事による、史上最も不謹慎で、最も清潔な籠城戦の幕開けだった。
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