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第37話「図書室のハプニング」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

塔の三階にある図書室は、私が最も愛する場所の一つだ。 天井まで届く巨大な書架には、数千冊の魔導書が眠っている。

古紙とインク、そして微かな埃の匂いが混じり合う独特の空気。

本来なら埃っぽい場所だが、アルフォンスの手にかかれば、ここもまた無菌室のように清潔に保たれている。


「……うーん、届かない……っ」


私は巨大な梯子の最上段に立ち、プルプルと震える足で爪先立ちをして手を伸ばしていた。

目当ての本は、『古代ルーン文字の変遷・下巻』。 あろうことか、一番上の棚の、さらに一番奥に鎮座している。 まるで「背の低い魔女には読ませない」という古代人の悪意を感じる配置だ。


「……あと、数センチ……!」


普段ならアルフォンスを呼べばいい。

『アルフォンスー、あれ取ってー』と一言言えば、彼は音もなく現れ、優雅に本を取り、ついでに『高いところは危ないですよ』と甘い小言を言いながら、私ごと抱き上げてくれるだろう。

それは分かっている。分かっているのだが……。


「たまには自分で取れるところを見せないと、本当に足が退化して、スライムになっちゃうわ」


昨日の「歩行禁止令」以来、私の移動手段はほぼ100%「執事による運搬」だ。

このままでは、私は魔女としての尊厳だけでなく、脊椎動物としての機能まで失ってしまう。

そんな小さな反骨心が、私をこの危険な高所へと向かわせたのだ。


指先が本の背表紙に触れる。 いける。あと少し。


グイッ。


私はさらに身を乗り出した。 その時だった。


ガタンッ!


「……あっ」


梯子の留め具が、私の重心移動に耐えきれず、

レールから外れた。

世界がスローモーションのように傾く。

支えを失った身体が、重力に従って宙に投げ出される感覚。 浮遊感。

そして、遅れてやってくる恐怖。


(……落ちる!)


高さは三メートル以上。 下は硬いフローリング。 このまま落ちれば、良くて骨折、悪ければ打ち所が悪くて……。 走馬灯のように、アルフォンスの怒る顔と泣く顔が脳裏をよぎる。


(ごめん、アルフォンス……!)


私はギュッと目を閉じた。


「――エルカ様ッ!!」


鋭い声と共に、突風が巻いた。

ドサッ! 硬い床に叩きつけられる鈍い衝撃――は、来なかった。

代わりに、温かくて硬い何かに、強く抱きとめられた。


「……うぅ……」


「……ッ、ぐぅ……!」


重い衝撃音と共に、私たちは床を転がった。

ゴロゴロと二回転、三回転。 回転が止まる。

恐る恐る目を開けると、私の視界いっぱいに、

苦悶の表情を浮かべたアルフォンスの顔があった。


「……あ、アルフォンス……?」


「……ご無事ですか、エルカ様」


彼は私を庇うように背中から床に落ち、

私を自分の胸の上に抱きかかえていたのだ。

クッション代わりになった彼の背中が心配になる。


「わ、私、重かったでしょ!? 怪我は!?」


「問題ありません。……貴女の体重など、空気のようなものですから」


彼は痛みを堪えるように微笑んだが、その顔はいつもと違っていた。

衝撃で銀縁眼鏡がズレて、片方の目が露わになっている。

さらに、完璧にワックスでセットされていた銀髪が乱れ、前髪がハラリと額にかかっている。

いつもの「完璧な執事」の鉄仮面が剥がれ、焦燥と熱を帯びた一人の「男」の顔がそこにあった。


「……でも、眼鏡が……」


「眼鏡などどうでもいい。……それより」


ガシッ。 彼の手が、私の腰を強く掴んだ。

痛いほどの力。 逃がさないという意思表示。

眼鏡の奥のアイスブルーの瞳が、怒りの炎で燃えている――ように見えたが、よく見るとその奥には、別の色が揺らめいていた。

安堵と、興奮と、そして嗜虐的な悦び。


「……心臓が止まるかと思いましたよ」


彼は低い声で唸った。吐息が熱い。


「私が厨房でニンジンの皮を剥いている時、貴女の悲鳴が聞こえた気がして……転移テレポートしてきましたが、間一髪でした」


「……ご、ごめん……」


「怪我はありませんか? どこか痛む場所は?」


「ううん、大丈夫。あんたが守ってくれたから……」


「口頭確認だけでは信用できません。触診します」


「へ?」


言うが早いか、アルフォンスの手が私の身体をまさぐり始めた。二の腕、肋骨、腰回り、そして太腿。


「……あっ、ちょ、アルフォンス!?」


「骨折の有無を確認しているだけです。……じっとして」


彼は真剣な顔で言っているが、その手つきはどう見ても怪しい。 骨を確認すると言いながら、私の肉の柔らかさを堪能するように、むにゅ、むにゅ、と指を沈ませている。


「……ここの関節は? 痛みますか?」


「い、痛くない……そこ、くすぐったい……!」


「ふむ。……お尻も打っていませんか? 確認を……」


「打ってない! あんたのお腹の上だったから!」


私が必死で抵抗すると、彼は「チッ」と小さく舌打ちした。

今、舌打ちしたわよね!? 触り足りなかったの!?


「……とりあえず、外傷はないようですね」


アルフォンスは私を抱えたまま、ゴロンと体勢を入れ替えた。 今度は彼が上で、私が下。

散らばった本の上に私が横たわり、その上に彼が覆いかぶさる。


「……っ」


近い。 ズレた眼鏡の奥から、射抜くような視線が降ってくる。 乱れた銀髪の隙間から見える瞳が、妖しく光っている。 怒っているのに、どこか色っぽい。 そんな不謹慎な感想が頭をよぎる。


「……二度と、私抜きで危険な真似はしないでください」


彼の顔が近づいてくる。 鼻先が触れ合う距離。

彼の膝が、私の足の間に割り込んでくる。


「貴女の身体に傷一つでもつけば……私は自分を許せない。そして、貴女を危険に晒したこの図書室ごと、焼き払ってしまいそうだ」


「……本が燃えちゃうわよ」


「構いません。貴女より大切な知識など、全宇宙を探しても存在しませんから」


彼の吐息が唇にかかる。

甘い蜜蝋の匂いと、微かに香る汗の匂い、

そして夕食準備中だったからかニンジンの匂い。

生活感とオス感が混ざり合ったその匂いに、

私の頭はクラクラした。

心臓がうるさいくらいに高鳴る。

このままキスされるのだろうか。

期待と恐怖で身を強張らせ、ギュッと目を閉じた――その時。


「……おや」


アルフォンスの声のトーンが変わった。

彼の手が、私の顎をくい、と持ち上げた。


「……なんですか、これは」


「え?」


目を開けると、彼が私の口元をじっと見つめていた。


「口の端に……黒いシミが。インクですね?」


どうやら、落下した拍子に持っていた羽ペンが顔に当たり、汚してしまったらしい。

最悪だ。せっかくのシリアスな場面が、顔面汚損で台無しだ。


「……あ、恥ずかしい……拭くわ……」


私は慌てて袖で拭おうとした。

だが、彼の手が私の手首をガシッと掴み、床に押し付けた。


「いいえ。……私が取ります」


「え、ハンカチ持ってないでしょ?」


「必要ありません。……もっと良い『洗浄器具』がありますから」


彼は不敵に笑うと、ゆっくりと顔を寄せ――。


ペロリ。


「……ッ!?」


ザリッとした湿った感触が、口元を走った。

彼が、舌でインクを舐め取ったのだ。

指で拭うのではなく、舌で。

しかも、一瞬ではない。

私の唇の端を、味わうように、ねっとりと舐め上げている。


「……ん……ふ……」


変な声が出た。

彼の舌先が、敏感な口角を刺激する。

ザラザラしていて、熱くて、柔らかい。


「……苦いですね」


彼は舌先についた黒いインクを妖艶に見せつけながら、ニヤリと笑った。


「ですが、貴女の肌の味と混ざって……悪くない。むしろ、甘美です」


「……へ、変態……!」


「ええ。貴女専用の、ね」


彼は再び顔を寄せ、今度は反対側の頬――インクなどついていない場所を、チュッ、と吸った。


「……アルフォンス、もう……取れたでしょ……?」


「まだです。……インクの成分が毛穴に残っているかもしれません。入念な『吸引』が必要です」


「嘘ばっかり!」


「嘘ではありません。……罰として、もう少しこのままで」


彼は私の首筋に顔を埋めた。

重い。彼の体重が、心地よい圧力となって私を床に縫い留める。

彼自身、この状況を役得だと思っているに違いない。「怒っている執事」というポーズを取りながら、その実、私に密着できることを全力で楽しんでいるのだ。


(……ほんと、ずるい男……)


でも、拒めない。

彼の重みが、彼の熱が、私の空虚な部分を埋めてくれるようで、どうしても振り払えない。

私は彼の背中に手を回し、しがみつくように指を食い込ませた。 すると、彼の乱れた襟元が、私の目の前にあった。


いつもはきっちりと閉められている第一ボタンが、落下の衝撃で弾け飛び、鎖骨が大きく覗いている。 白磁のような肌。 そこに、鮮やかに浮かび上がる紋様があった。


「……あ」


私は息を呑んだ。 見てしまった。

彼の左の鎖骨の下。

心臓に近い場所に刻まれた、青い刻印を。


「……これ……」


薔薇と鎖をモチーフにした、複雑で美しいアイスブルーの紋様。 それは、数日前の朝、私の心臓の上に浮かび上がっていたものと、全く同じ形だった。 いや、対になっている。


「……契約の、痣……」


私が震える指でその痣に触れると、アルフォンスがビクリと反応した。 彼は顔を上げ、濡れた瞳で私を見つめた。


「……おや。見つかってしまいましたか」


彼は隠そうともせず、むしろ誇らしげに胸元をさらに広げた。


「ええ。貴女とお揃いです」


「……あんたにも、出てたんだ……」


「当然です。魂を共有したのですから」


彼は私の手を取り、自分の痣の上に強く押し当てた。 ドクン、ドクン。 彼自身の鼓動と、痣から伝わる魔力の脈動が、掌に伝わってくる。

熱い。 火傷しそうなくらい熱い。

まるで、彼の心臓を直接握っているようだ。


「感じますか? この痣は、貴女の心臓と繋がっています」


彼は陶酔したように囁いた。


「貴女がドキドキすれば、ここが熱くなる。貴女が悲しめば、ここが痛む。……私は常に、貴女と共に在るのです」


「……やっぱり、重い」


「愛ゆえに」


彼は私の指にキスをした。

その眼差しがあまりに熱烈で、私は逃げるように視線を逸らした。


「……わ、分かったから。……どいて。重い」


「嫌です」


「即答!?」


「今、貴女の心拍数が上がっていますね? ……私の痣が熱い。貴女が私を感じてくれている証拠だ」


彼は嬉しそうに目を細め、さらに体重をかけてきた。


「このまま、貴女の鼓動が落ち着くまで……こうしていましょう。これは『同期確認』という重要な儀式ですから」


「……ただくっつきたいだけでしょ!」


「バレましたか」


彼は悪びれもせず笑った。

そして、私の唇を塞いだ。

インクの味と、ニンジンの匂いと、彼の味が混ざり合う。 図書室の床の上、散らばった本に囲まれてのキス。 背徳的で、でもどうしようもなく幸せな時間。 私は、彼の首に回した腕の力を強め、そのキスに応えた。


「……ん……ふぅ……」


長い長いキスの後。

唇が離れると、彼は乱れた前髪をかき上げ、いつもの完璧な執事の顔に戻った。


「さて。……これに懲りたら、今度からは大人しく私を呼んでくださいね? 『高い高い』をして差し上げますから」


「……子供扱いしないでよ」


「子供ですよ。私の大事な迷子猫です」


彼は私を軽々と抱き上げ、埃一つついていないかのように扱いながら立ち上がった。

私の足は、今日も地面につくことはないらしい。


「では、キッチンへ戻りましょう。……夕食のメニューは、貴女の血となるレバーとほうれん草のソテーに変更です」


「ええー……レバー嫌い……血なんて一滴も出てないわよ!」


「ダメです。精神的な私の出血がありましたから、補給せねば」


彼は楽しそうに笑い、私を抱えたまま図書室を後にした。 私の胸の奥と、彼へのキスマークが残る首筋が、いつまでも熱く脈打っていた。

あの「対の痣」を見た瞬間から、私は彼から逃れることなど永遠にできないのだと、幸福な絶望と共に悟っていたのだった。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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