第37話「図書室のハプニング」
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塔の三階にある図書室は、私が最も愛する場所の一つだ。 天井まで届く巨大な書架には、数千冊の魔導書が眠っている。
古紙とインク、そして微かな埃の匂いが混じり合う独特の空気。
本来なら埃っぽい場所だが、アルフォンスの手にかかれば、ここもまた無菌室のように清潔に保たれている。
「……うーん、届かない……っ」
私は巨大な梯子の最上段に立ち、プルプルと震える足で爪先立ちをして手を伸ばしていた。
目当ての本は、『古代ルーン文字の変遷・下巻』。 あろうことか、一番上の棚の、さらに一番奥に鎮座している。 まるで「背の低い魔女には読ませない」という古代人の悪意を感じる配置だ。
「……あと、数センチ……!」
普段ならアルフォンスを呼べばいい。
『アルフォンスー、あれ取ってー』と一言言えば、彼は音もなく現れ、優雅に本を取り、ついでに『高いところは危ないですよ』と甘い小言を言いながら、私ごと抱き上げてくれるだろう。
それは分かっている。分かっているのだが……。
「たまには自分で取れるところを見せないと、本当に足が退化して、スライムになっちゃうわ」
昨日の「歩行禁止令」以来、私の移動手段はほぼ100%「執事による運搬」だ。
このままでは、私は魔女としての尊厳だけでなく、脊椎動物としての機能まで失ってしまう。
そんな小さな反骨心が、私をこの危険な高所へと向かわせたのだ。
指先が本の背表紙に触れる。 いける。あと少し。
グイッ。
私はさらに身を乗り出した。 その時だった。
ガタンッ!
「……あっ」
梯子の留め具が、私の重心移動に耐えきれず、
レールから外れた。
世界がスローモーションのように傾く。
支えを失った身体が、重力に従って宙に投げ出される感覚。 浮遊感。
そして、遅れてやってくる恐怖。
(……落ちる!)
高さは三メートル以上。 下は硬いフローリング。 このまま落ちれば、良くて骨折、悪ければ打ち所が悪くて……。 走馬灯のように、アルフォンスの怒る顔と泣く顔が脳裏をよぎる。
(ごめん、アルフォンス……!)
私はギュッと目を閉じた。
「――エルカ様ッ!!」
鋭い声と共に、突風が巻いた。
ドサッ! 硬い床に叩きつけられる鈍い衝撃――は、来なかった。
代わりに、温かくて硬い何かに、強く抱きとめられた。
「……うぅ……」
「……ッ、ぐぅ……!」
重い衝撃音と共に、私たちは床を転がった。
ゴロゴロと二回転、三回転。 回転が止まる。
恐る恐る目を開けると、私の視界いっぱいに、
苦悶の表情を浮かべたアルフォンスの顔があった。
「……あ、アルフォンス……?」
「……ご無事ですか、エルカ様」
彼は私を庇うように背中から床に落ち、
私を自分の胸の上に抱きかかえていたのだ。
クッション代わりになった彼の背中が心配になる。
「わ、私、重かったでしょ!? 怪我は!?」
「問題ありません。……貴女の体重など、空気のようなものですから」
彼は痛みを堪えるように微笑んだが、その顔はいつもと違っていた。
衝撃で銀縁眼鏡がズレて、片方の目が露わになっている。
さらに、完璧にワックスでセットされていた銀髪が乱れ、前髪がハラリと額にかかっている。
いつもの「完璧な執事」の鉄仮面が剥がれ、焦燥と熱を帯びた一人の「男」の顔がそこにあった。
「……でも、眼鏡が……」
「眼鏡などどうでもいい。……それより」
ガシッ。 彼の手が、私の腰を強く掴んだ。
痛いほどの力。 逃がさないという意思表示。
眼鏡の奥のアイスブルーの瞳が、怒りの炎で燃えている――ように見えたが、よく見るとその奥には、別の色が揺らめいていた。
安堵と、興奮と、そして嗜虐的な悦び。
「……心臓が止まるかと思いましたよ」
彼は低い声で唸った。吐息が熱い。
「私が厨房でニンジンの皮を剥いている時、貴女の悲鳴が聞こえた気がして……転移してきましたが、間一髪でした」
「……ご、ごめん……」
「怪我はありませんか? どこか痛む場所は?」
「ううん、大丈夫。あんたが守ってくれたから……」
「口頭確認だけでは信用できません。触診します」
「へ?」
言うが早いか、アルフォンスの手が私の身体をまさぐり始めた。二の腕、肋骨、腰回り、そして太腿。
「……あっ、ちょ、アルフォンス!?」
「骨折の有無を確認しているだけです。……じっとして」
彼は真剣な顔で言っているが、その手つきはどう見ても怪しい。 骨を確認すると言いながら、私の肉の柔らかさを堪能するように、むにゅ、むにゅ、と指を沈ませている。
「……ここの関節は? 痛みますか?」
「い、痛くない……そこ、くすぐったい……!」
「ふむ。……お尻も打っていませんか? 確認を……」
「打ってない! あんたのお腹の上だったから!」
私が必死で抵抗すると、彼は「チッ」と小さく舌打ちした。
今、舌打ちしたわよね!? 触り足りなかったの!?
「……とりあえず、外傷はないようですね」
アルフォンスは私を抱えたまま、ゴロンと体勢を入れ替えた。 今度は彼が上で、私が下。
散らばった本の上に私が横たわり、その上に彼が覆いかぶさる。
「……っ」
近い。 ズレた眼鏡の奥から、射抜くような視線が降ってくる。 乱れた銀髪の隙間から見える瞳が、妖しく光っている。 怒っているのに、どこか色っぽい。 そんな不謹慎な感想が頭をよぎる。
「……二度と、私抜きで危険な真似はしないでください」
彼の顔が近づいてくる。 鼻先が触れ合う距離。
彼の膝が、私の足の間に割り込んでくる。
「貴女の身体に傷一つでもつけば……私は自分を許せない。そして、貴女を危険に晒したこの図書室ごと、焼き払ってしまいそうだ」
「……本が燃えちゃうわよ」
「構いません。貴女より大切な知識など、全宇宙を探しても存在しませんから」
彼の吐息が唇にかかる。
甘い蜜蝋の匂いと、微かに香る汗の匂い、
そして夕食準備中だったからかニンジンの匂い。
生活感とオス感が混ざり合ったその匂いに、
私の頭はクラクラした。
心臓がうるさいくらいに高鳴る。
このままキスされるのだろうか。
期待と恐怖で身を強張らせ、ギュッと目を閉じた――その時。
「……おや」
アルフォンスの声のトーンが変わった。
彼の手が、私の顎をくい、と持ち上げた。
「……なんですか、これは」
「え?」
目を開けると、彼が私の口元をじっと見つめていた。
「口の端に……黒いシミが。インクですね?」
どうやら、落下した拍子に持っていた羽ペンが顔に当たり、汚してしまったらしい。
最悪だ。せっかくのシリアスな場面が、顔面汚損で台無しだ。
「……あ、恥ずかしい……拭くわ……」
私は慌てて袖で拭おうとした。
だが、彼の手が私の手首をガシッと掴み、床に押し付けた。
「いいえ。……私が取ります」
「え、ハンカチ持ってないでしょ?」
「必要ありません。……もっと良い『洗浄器具』がありますから」
彼は不敵に笑うと、ゆっくりと顔を寄せ――。
ペロリ。
「……ッ!?」
ザリッとした湿った感触が、口元を走った。
彼が、舌でインクを舐め取ったのだ。
指で拭うのではなく、舌で。
しかも、一瞬ではない。
私の唇の端を、味わうように、ねっとりと舐め上げている。
「……ん……ふ……」
変な声が出た。
彼の舌先が、敏感な口角を刺激する。
ザラザラしていて、熱くて、柔らかい。
「……苦いですね」
彼は舌先についた黒いインクを妖艶に見せつけながら、ニヤリと笑った。
「ですが、貴女の肌の味と混ざって……悪くない。むしろ、甘美です」
「……へ、変態……!」
「ええ。貴女専用の、ね」
彼は再び顔を寄せ、今度は反対側の頬――インクなどついていない場所を、チュッ、と吸った。
「……アルフォンス、もう……取れたでしょ……?」
「まだです。……インクの成分が毛穴に残っているかもしれません。入念な『吸引』が必要です」
「嘘ばっかり!」
「嘘ではありません。……罰として、もう少しこのままで」
彼は私の首筋に顔を埋めた。
重い。彼の体重が、心地よい圧力となって私を床に縫い留める。
彼自身、この状況を役得だと思っているに違いない。「怒っている執事」というポーズを取りながら、その実、私に密着できることを全力で楽しんでいるのだ。
(……ほんと、ずるい男……)
でも、拒めない。
彼の重みが、彼の熱が、私の空虚な部分を埋めてくれるようで、どうしても振り払えない。
私は彼の背中に手を回し、しがみつくように指を食い込ませた。 すると、彼の乱れた襟元が、私の目の前にあった。
いつもはきっちりと閉められている第一ボタンが、落下の衝撃で弾け飛び、鎖骨が大きく覗いている。 白磁のような肌。 そこに、鮮やかに浮かび上がる紋様があった。
「……あ」
私は息を呑んだ。 見てしまった。
彼の左の鎖骨の下。
心臓に近い場所に刻まれた、青い刻印を。
「……これ……」
薔薇と鎖をモチーフにした、複雑で美しいアイスブルーの紋様。 それは、数日前の朝、私の心臓の上に浮かび上がっていたものと、全く同じ形だった。 いや、対になっている。
「……契約の、痣……」
私が震える指でその痣に触れると、アルフォンスがビクリと反応した。 彼は顔を上げ、濡れた瞳で私を見つめた。
「……おや。見つかってしまいましたか」
彼は隠そうともせず、むしろ誇らしげに胸元をさらに広げた。
「ええ。貴女とお揃いです」
「……あんたにも、出てたんだ……」
「当然です。魂を共有したのですから」
彼は私の手を取り、自分の痣の上に強く押し当てた。 ドクン、ドクン。 彼自身の鼓動と、痣から伝わる魔力の脈動が、掌に伝わってくる。
熱い。 火傷しそうなくらい熱い。
まるで、彼の心臓を直接握っているようだ。
「感じますか? この痣は、貴女の心臓と繋がっています」
彼は陶酔したように囁いた。
「貴女がドキドキすれば、ここが熱くなる。貴女が悲しめば、ここが痛む。……私は常に、貴女と共に在るのです」
「……やっぱり、重い」
「愛ゆえに」
彼は私の指にキスをした。
その眼差しがあまりに熱烈で、私は逃げるように視線を逸らした。
「……わ、分かったから。……どいて。重い」
「嫌です」
「即答!?」
「今、貴女の心拍数が上がっていますね? ……私の痣が熱い。貴女が私を感じてくれている証拠だ」
彼は嬉しそうに目を細め、さらに体重をかけてきた。
「このまま、貴女の鼓動が落ち着くまで……こうしていましょう。これは『同期確認』という重要な儀式ですから」
「……ただくっつきたいだけでしょ!」
「バレましたか」
彼は悪びれもせず笑った。
そして、私の唇を塞いだ。
インクの味と、ニンジンの匂いと、彼の味が混ざり合う。 図書室の床の上、散らばった本に囲まれてのキス。 背徳的で、でもどうしようもなく幸せな時間。 私は、彼の首に回した腕の力を強め、そのキスに応えた。
「……ん……ふぅ……」
長い長いキスの後。
唇が離れると、彼は乱れた前髪をかき上げ、いつもの完璧な執事の顔に戻った。
「さて。……これに懲りたら、今度からは大人しく私を呼んでくださいね? 『高い高い』をして差し上げますから」
「……子供扱いしないでよ」
「子供ですよ。私の大事な迷子猫です」
彼は私を軽々と抱き上げ、埃一つついていないかのように扱いながら立ち上がった。
私の足は、今日も地面につくことはないらしい。
「では、キッチンへ戻りましょう。……夕食のメニューは、貴女の血となるレバーとほうれん草のソテーに変更です」
「ええー……レバー嫌い……血なんて一滴も出てないわよ!」
「ダメです。精神的な私の出血がありましたから、補給せねば」
彼は楽しそうに笑い、私を抱えたまま図書室を後にした。 私の胸の奥と、彼へのキスマークが残る首筋が、いつまでも熱く脈打っていた。
あの「対の痣」を見た瞬間から、私は彼から逃れることなど永遠にできないのだと、幸福な絶望と共に悟っていたのだった。
読んでくださってありがとうございます。
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