第36話「執事の「観察日記」」
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その日の午後、私はとある「極秘ミッション」を遂行するために、息を潜めて廊下を歩いていた。 ターゲットは、1階の奥にある「使用人室」。
そう、あの完璧執事アルフォンス・クラインの私室である。
(……ふふん。いつも私の部屋を勝手に掃除して、隠しておいたお菓子を没収するんだから……今日は私が逆襲してやるわ)
先日、「ネコ耳事件」で彼に弱みを握られた私は、意趣返しをする機会を虎視眈々と狙っていた。 今、彼は地下の貯蔵庫で在庫確認をしている。
戻ってくるまであと二十分はあるはずだ。
その隙に、彼の部屋に侵入し、何か恥ずかしい秘密――例えば「実は可愛いぬいぐるみを集めている」とか「腹筋を鍛えるための通販グッズがある」とか――「エッチな本」を見つけ出してやるのだ。
ガチャリ。 ドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。 私は忍び足で部屋に滑り込んだ。
「……相変わらず、面白みのない部屋ね」
部屋の中は、恐ろしいほど整然としていた。
家具は必要最低限。机の上にはチリ一つ落ちていない。 空気すらも漂白されたように清潔で、
逆に居心地が悪いほどだ。
「何かあるはずよ。弱みの一つや二つ」
私は机の引き出しをそっと開けた。
一番上の段。文房具がミリ単位で整列している。
二段目。予備の眼鏡と手袋のストック。
三段目。
「……ん? 何これ」
そこには、重厚な黒革の装丁が施された、分厚い手帳が入っていた。
表紙には何も書かれていない。
だが、使い込まれているのか、革が手に馴染むように柔らかくなっている。
「……日記、かな?」
あの冷徹な執事が日記?
『今日は主人が野菜を残した。万死に値する』とか書いてあるのだろうか。 私は好奇心に負けて、パラリとページをめくった。
『大陸暦1026年 5月12日 天候:雨』
日付は、彼がこの塔に来て数日後のものだ。
『午前七時〇二分。起床。 エルカ様の寝癖を確認。右側に大きく跳ねている。角度は約四五度。 無防備な寝顔。口端から唾液の痕跡あり。……成分分析のため、枕カバーを回収・保存。代わりに新品を設置』
「……は?」
思考が停止した。
枕カバーを回収? 保存? 成分分析?
私は震える手で次のページをめくった。
『五月二〇日。入浴の世話。お湯の温度により、肌がほんのり桜色に染まる現象を観測。 特に、耳の裏と鎖骨の紅潮が美しい。アメジスト色の瞳が潤み、私を見上げる角度が絶妙。 ……この瞬間を永遠に固定したい。網膜に焼き付けた映像を、魔導写本に転写する作業を徹夜で行う』
『六月三日。 食事中、ソースを口元につける。 私が指で拭うと、恥ずかしそうに俯いた。 その時の心拍数上昇(+20BPM)を確認。……愛おしい。 拭ったソースは、糖度と塩分濃度を記録した後、私が摂取した。……甘かった』
「……ッ!!??」
私は手帳を取り落としそうになった。
これは日記じゃない。 狂気だ。
私の行動、生理現象、恥ずかしい失敗、身体的特徴のすべてが、偏執的なまでの詳細さで記録されている。 しかも、随所にポエムのような感想(しかも激重)が添えられているのだ。
『本日のエルカ様。歩行を拒否し、私に抱きつく。その重みこそが私の生きる糧。彼女が退化すればするほど、私の存在意義は純度を増す。……ああ、いっそ手足をもぎ取り、私の祭壇に飾りたいほど美しい』
「ひぃッ……!」
怖い。
愛が重いとかいうレベルを超えて、ホラーの領域に突入している。 こんなものを毎日、真顔で書き綴っていたの? あの涼しい顔の裏で、こんなドロドロした思考を垂れ流していたの?
「……見なかったことにしよう」
私は青ざめて、手帳を閉じようとした。
その時だった。
「――おや。熱心な読書ですね」
背後から、耳元に直接響くようなバリトンボイスが降ってきた。
「ッ!?」
心臓が口から飛び出るかと思った。
振り返ると、いつの間にか部屋に入ってきていたアルフォンスが、私の真後ろに仁王立ちしていた。 音もなく。気配もなく。 そして、顔には「見られた!」という焦りは微塵もなく――むしろ、愉悦に歪んだ笑みを浮かべていた。
「あ、あ、アルフォンス……こ、これは、その……」
「私の『管理日誌』ですね」
彼は私の手から手帳を奪い返すこともなく、上から覗き込んだ。
「掃除のつもりが、つい読み耽ってしまいましたか? ……光栄です。私の愛の記録に興味を持っていただけて」
「あ、愛の記録っていうか……これ、ストーカーの記録でしょ!?」
「失敬な。……聖典と呼んでください」
彼は私の手を取り、手帳を再び開かせた。
そして、私の背中から覆いかぶさるようにして、
ページを指差した。
「ほら、ここなど傑作ですよ。読んでみてください」
「い、いやよ! 離して!」
「恥ずかしがらずに。私が代読しましょうか?」
彼は私の抵抗を封じ込め、朗々と読み上げ始めた。
「『七月一五日。ダンスの練習中。私の足を踏んだエルカ様が、涙目で謝罪する。その潤んだ瞳に、私は宇宙を見た。……踏まれた足の痛みすら、彼女からの愛の刻印だ。洗わずに保存したい』」
「やめてぇぇぇぇ!!」
私は耳を塞いで叫んだ。 公開処刑だ。
本人が、本人の前で、本人への激重ポエムを音読するなんて、羞恥プレイにも程がある。
「『追記:彼女の抜けた髪の毛を三本回収。以前のものと合わせて、編み込みの指輪を作成中。……いつかこれを左指にはめてもらう日を夢見て』」
「恐怖!! 完全にホラーよそれ!!」
「愛ですよ。……貴女の一部なら、塵一つ捨てたくない」
アルフォンスは手帳を閉じ、私を机と自分の身体の間に閉じ込めた。逃げ場はない。 眼鏡の奥のアイスブルーが、熱っぽく私を射抜く。
「……ご覧になりましたね、エルカ様。私の頭の中を」
「……見たくなかったわよ、あんなの……」
「もう手遅れです。……貴女は知ってしまった。私が、貴女の一挙手一投足をどれほどの熱量で監視し、記録し、反芻しているかを」
彼の指が、私の頬をなぞる。
「貴女が瞬きをする回数も、呼吸のリズムも、体温の変化も。……すべて私が把握しています。貴女以上に、私は貴女のことを知っている」
ゾクリ、と背筋が震えた。 怖い。
でも、不思議と嫌悪感はなかった。
これほどまでに自分を見てくれている人間が、
世界に他にいるだろうか? 狂っているけれど、
その狂気はすべて私だけに向けられたものだ。
「……変態執事」
「最高の賛辞です」
彼は私の額にキスをした。
「さて。……盗み見の罰として、今日の記録には『主人の可愛い悪戯』について、10ページほど加筆せねばなりませんね」
「やめてよ! ノートの無駄遣い!」
私は彼を押し返そうとした。
その時、手帳の後半のページがパラリとめくれ、ある記述が目に入った。 そこには、今までのポエムとは違う、数式と魔術記号がびっしりと書き込まれていた。
Contract Cost= Life Force × 365 days
『魔力供給記録: 塔の隠蔽結界の維持に、エルカ様の魔力だけでは不安定要素が残る。 私の生命力を変換し、不足分を補填する術式を確立。 代償として、私の寿命は通常の三倍の速度で消費されるが……問題なし』
『エルカ様が笑ってくれるなら、私の命など安い燃料だ』
「……え?」
私の動きが止まった。
寿命? 三倍の速度? 私はそのページを凝視した。
「……アルフォンス、これ……」
私が震える指でその行を指差すと、彼は一瞬だけ眉をひそめ、すぐにパタンと手帳を閉じた。
「……おや。つまらないページを見てしまいましたね」
「つまらなくない! ……あんた、寿命削ってるの!?」
「言葉のアヤですよ」
「嘘つき! この術式、生命譲渡の禁術じゃない!」
私は魔女だ。 高度な術式を見れば、それが何を意味するかくらい分かる。 彼は、この塔を維持し、私を守る結界を張り続けるために、自分の命を魔力に変えて燃やしているのだ。
「……なんで……そんなこと……」
「エルカ様」
アルフォンスは穏やかな声で私の名を呼んだ。
彼は手袋を外し、私の頬を両手で包み込んだ。
温かい手。 でも、その温かさは、彼が命を削って生み出している熱なのかもしれないと思うと、涙が溢れてきた。
「泣かないでください。……貴女の涙を見ると、私の胸が張り裂けそうになる」
「だって……あんたが死んじゃったら……私……」
「死にませんよ。少なくとも、貴女より先には」
彼は親指で私の涙を拭った。
「私の寿命など、貴女に出会った瞬間にすべて貴女に捧げたのです。……貴女が快適に過ごし、美味しいご飯を食べ、安らかに眠れるなら……私の命が削れる音など、心地よいBGMにすぎません」
「……重いよ、バカ……」
「ええ。重いでしょう?」
彼は嬉しそうに笑った。
「その重みこそが、私の愛の証です。貴女はただ、その愛に押しつぶされて、幸せに窒息していればいい」
彼は私を抱き寄せた。 強い力。 鼓動の音。
彼は生きている。私のために、命を燃やして。
「……ずるい」
私は彼の胸に顔を埋めた。
こんなことを知らされたら、もう二度と彼から離れられないじゃないか。 彼の命の上に、私の日常が成り立っているなんて。 それは、どんな鎖よりも重く、逃れられない「呪い」だ。
「……ねえ、アルフォンス」
「はい」
「……長生きしてね。命令よ」
私が鼻声で言うと、彼は居住まいを正し、恭しく一礼した。
「イエス、マイ・ロード。貴女が望むなら、死神すら騙して生き延びてみせましょう」
部屋には、古びた紙の匂いと、彼の体温だけが残った。 観察日記。 それは単なる変態の記録ではなく、一人の男が全てを懸けて主人を守り抜こうとする、血と魂の記録だったのだ。
「……でも、あのポエムはやめて」
「それは無理な相談ですね。……今夜の分も、筆が走りそうですから」
彼は悪戯っぽく笑い、私を抱き上げた。
重くて、苦しくて、でも世界で一番心地よい場所。 私はもう、この執事の狂気なしでは生きていけない。
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