第32話「魔女、歩行機能を奪われる」
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異界の狭間に隔離された塔での生活、二日目。
私は朝食をとるために、二階の寝室から一階のリビングへと向かおうとしていた。
「……眩しい」
廊下に出た瞬間、私は目を細めた。
窓の外は白い霧に包まれているはずなのに、
足元から強烈な光が反射してくるのだ。
廊下の床――大理石のタイルが、異常なまでに磨き上げられていた。
「……やりすぎでしょ」
顔が映るどころではない。
天井のシャンデリアの装飾までくっきりと映り込んでいる。これでは鏡の上を歩いているようなものだ。 私はスカートの裾を気にしながら、慎重に足を一歩踏み出した。
ツルッ。
「――あっ」
摩擦係数がゼロに近い。
私の足は、氷上のバンビのように無様に滑った。 身体が宙に浮く。 後頭部から床へ激突する――
その恐怖に、ギュッと目を閉じた瞬間。
ヒュンッ!
風切り音と共に、強い力で腰を引き寄せられた。
「……危機一髪でしたね」
目を開けると、そこには涼しい顔をしたアルフォンスがいた。 彼は私の身体を片手で支え、もう片方の手で、私が落としそうになったスリッパを空中でキャッチしていた。
「……あ、ありがとう。……危なかったわ」
「ええ。非常に危険です」
アルフォンスは私を抱きとめたまま、厳しい表情で床を見下ろした。
そして、眼鏡の奥のアイスブルーを鋭く光らせた。
「この床……私のワックスがけが完璧すぎました」
「……自画自賛?」
「摩擦係数を極限まで減らし、埃が付着することすら許さない『無垢の鏡面仕上げ』。……ですが、それが貴女の柔らかな足腰には脅威となるとは」
彼は深刻そうに溜息をつき、私に向き直った。
「エルカ様。貴女の運動神経と、この床の滑りやすさを計算した結果……転倒リスクは98%を超えます」
「……そんなに?」
「はい。万が一、転倒して青あざでも作ったら……私はこの床を粉々に砕き割らねばなりません」
「床が可哀想だからやめてあげて」
「ならば、対策は一つしかありませんね」
アルフォンスは私を床に下ろす――ことはしなかった。 逆に、ぐいっと持ち上げ、横向きに抱え直した。お姫様抱っこだ。
「……え? 何してるの?」
「安全対策です」
彼は当然のことのように宣言した。
「本日より、塔内での貴女の『自力歩行』を禁止します」
「……は?」
思考が停止した。 歩行禁止? 私が?
「ま、待って! 意味が分からない! 私、骨折したわけじゃないのよ!?」
「予防です。転んでからでは遅い」
彼はスタスタと歩き出した。
その足取りは、氷のように滑る床の上でも全く揺らがない。 体幹がどうなっているんだ、この執事は。
「離して! 歩く! 自分で歩くから!」
「ダメです。貴女は私の大切な『壊れ物』なのですから」
アルフォンスは私の抵抗など意に介さず、階段を降りていく。 その腕の中は、安定感抜群だった。
揺れないし、温かいし、何より視点が高い。
まるで高級な輿に乗っているようだ。
「……過保護にも程があるわよ……」
「過保護? いいえ、これは『最適化』です」
彼はリビングの椅子に私をそっと下ろすと、ナプキンを広げた。
「貴女が歩く労力を、私が肩代わりする。貴女は浮いたエネルギーを、呼吸と、私への命令だけに使えばいいのです」
「……人間として退化してる気がするんだけど」
私は抗議したが、出されたフレンチトーストがあまりに美味しそうで、口をつぐんでしまった。
悔しい。 胃袋も、移動手段も、すべて彼に握られている。
それからというもの、私の生活は一変した。
「姫」を通り越して、「要介護」レベルの甘やかされようだ。
「アルフォンスー、図書室行きたい」
「御意」
私がソファで手を上げると、どこからともなく彼が現れ、私をひょいと抱き上げる。
移動時間は数秒。 私の足は地面につかない。
「アルフォンスー、トイレ」
「はい、どうぞ」
トイレの前まで運ばれ、終わったらドアの前で待機している彼に回収される。
最初は羞恥心で死にそうだったが、三回目くらいから慣れてしまった自分が怖い。
「アルフォンスー、喉渇いた」
「こちらに」
抱き上げたまま、冷蔵庫へ。
彼の腕の中で、冷えたハーブティーを飲ませてもらう。 高い位置から見下ろす彼の顔は、満足げに微笑んでいる。
「……ねえ、アルフォンス」
「何でしょう、エルカ様」
夕方。
彼に抱っこされてリビングへ戻る途中、私は彼の首に腕を回したまま尋ねた。
「あんた、重くないの?」
「貴女の体重など、羽毛のようなものです」
彼は即答した。
「それに……昨日から、貴女の体温を感じられるこの距離感が、心地よくてたまらない」
契約の影響だろうか。
彼の身体は、以前よりもずっと温かくなっている。 シャツ越しに伝わる体温と、トクトクと脈打つ心音。 それに包まれていると、不思議な安心感に襲われる。まるで、大きなゆりかごの中にいるような。
「……私、足が退化しそう」
「構いませんよ。いっそ、人魚のように足がなくなってしまえばいい」
彼はサラリと恐ろしいことを言った。
「そうすれば、貴女は一生、私の腕から降りてどこかへ行くことなどできなくなる」
「……監禁願望が漏れてるわよ」
「願望ではありません。……予定です」
彼は私の額にキスをした。
その瞳は、冗談を言っているようには見えなかった。
夜。
お風呂から上がり、パジャマに着替えさせられた私は、ベッドに運ばれた。今日一日、私の足裏が床に触れた時間は、合計しても五分に満たないだろう。
「さて、エルカ様。仕上げです」
「仕上げ?」
「ええ。歩かないことによる、筋力の低下と血行不良を防がねばなりません」
アルフォンスはオイルの瓶を取り出した。
ラベンダーとローズマリーの香りがする、マッサージオイルだ。
「足をこちらへ」
彼は私の足を自分の膝に乗せた。
パジャマの裾をまくり上げ、ふくらはぎを露わにする。 オイルを塗った大きな手が、私の足首を掴んだ。
「……んッ……」
親指が、くるぶしの周りをグリグリと押す。
痛いけれど、気持ちいい。
歩いていないのに、足がむくんでいるのが分かる。
「……柔らかいですね」
彼の手が、ふくらはぎを下から上へと揉み上げていく。適度な圧力が、滞ったリンパを流していく。
「この柔らかさを維持しつつ、筋肉を落とさないように刺激を与える。……私の日課が増えましたね」
「……あんたが歩かせないからでしょ」
「ええ。私の責任です。……ですから、責任を持って貴女の足を管理します」
彼の手つきは、ただのマッサージを超えていた。
指先が、膝の裏や、太腿の内側にまで伸びる。
エロティックな手つきではない。
もっと学術的で、執拗な「メンテナンス」だ。
「……アルフォンス、そこ、くすぐったい……」
「我慢してください。ここの血流が悪いと、冷え性の原因になります」
彼は真顔で、私の太腿を揉みほぐした。 熱い。
彼の手が触れる場所から、熱が広がっていく。
感覚が鋭敏になっていく。
「……貴女の足は、歩くためにあるのではありません」
彼はマッサージを終えると、私の足の指に自分の指を絡ませた。恋人繋ぎの足バージョンだ。
「私の腕に絡みつき、私に支えられるためにあるのです」
彼は私の足の甲に、崇拝するように口づけをした。
「……もう、地面なんて踏まなくていい。貴女の世界は、すべて私の腕の中にあるのですから」
「……」
私は何も言えなかった。 抗議すべきなのに。
「自分で歩く」と言うべきなのに。
彼の腕に抱かれ、彼に足を揉まれ、彼に愛されているこの現状が、どうしようもなく甘美で、楽ちんだったからだ。
「……明日も、運んでくれる?」
私が小さな声で聞くと、アルフォンスは眼鏡の奥で目を細めた。
それは、獲物が完全に罠にかかったことを確信した、捕食者の笑顔だった。
「ええ、喜んで。死ぬまで、貴女の足代わりになりましょう」
彼は私を布団に包み込み、隣に潜り込んできた。 温かい抱き枕。
私は彼にしがみつき、眠りに落ちた。
自分の足で立つ感覚を、少しずつ忘れていく恐怖よりも、彼に委ねる安らぎの方が勝っていた。
魔女はこうして、歩く機能を、そして自立する意志を、甘やかに奪われていくのだった。
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