第31話「契約の朝は、甘すぎる」
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小鳥のさえずりで目が覚める――
なんて爽やかな朝は、この塔には存在しない。
なぜなら、ここは世界から切り離された異界の狭間であり、窓の外には永遠の霧が立ち込めているからだ。 それでも、私の体内時計は正確に朝を告げていた。
「……んぅ……」
私は重いまぶたを擦り、シーツの中で寝返りを打った。 ふかふかの羽毛布団。ほのかに香るラベンダーのアロマ。 ああ、幸せだ。
昨日、あんな劇的な「契約」をして、世界から逃亡したなんて嘘みたいに穏やかな朝。
そう、穏やかなはずだった。
「……ッ!?」
目を開けた瞬間、私は悲鳴を飲み込んだ。
視界いっぱいに、銀色が広がっていたからだ。
「……おはようございます、エルカ様」
至近距離。 あまりにも至近距離。
私の顔からわずか数センチの位置に、アルフォンスの顔があった。 彼はベッドの脇に跪き、枕に肘をついて、私の寝顔を覗き込んでいたのだ。
「……あ、アルフォンス……?」
「はい。貴女の忠実なる執事です」
彼はにっこりと微笑んだ。
朝の光といっても、彼が魔法で作り出した擬似太陽光だがを浴びて、その美貌は神々しいほど輝いている。 だが、状況はホラーだ。
「……いつから、そこにいたの?」
「三時間と四十二分前からです」
彼は懐中時計を見もせずに即答した。
「さ、三時間……!? ずっと見てたの!?」
「ええ。瞬きもせず」
悪びれる様子が微塵もない。
むしろ、「良い仕事をした」と言わんばかりの誇らしげな顔だ。
「な、なんで……起こしてよ……!」
「寝顔があまりに無防備で可愛らしかったので。それに、重要な『観測』を行っておりました」
アルフォンスは手袋を外した手で、私の頬を包み込んだ。
「昨夜の『血の契約』による、魔力同期の定着率を確認する必要がありました。……貴女の寝息のリズム、体温の変動、そして寝言の回数。すべて記録済みです」
「ね、寝言……!? 私、何か変なこと言った!?」
「『……アルフォンス、もう食べられない……ムニャムニャ』と。夢の中で、私に何をされそうになっていたのですか?」
彼は意地悪く目を細めた。 顔から火が出る。
夢の中身なんて言えるわけがない。
彼に大量のケーキを食べさせられる夢と、彼自身に「食べられる」夢が混ざったような、ろくでもない内容だったのだから。
「……と、とにかく! 離れて! 着替えるから!」
私は布団を首まで引き上げ、彼を追い払おうとした。 だが、アルフォンスは動かない。
それどころか、布団の端を掴み、ズルズルと引き剥がしにかかった。
「お断りします」
「はぁ!?」
「貴女はまだ、契約の副作用で身体が怠いはずです。着替えも、洗顔も、すべて私がベッドの上で行います」
「い、いいってば! 自分でできる!」
「『自分』とは誰のことですか?」
彼は真顔で言った。
「昨夜の契約をお忘れですか? 貴女と私は血を混ぜ合わせ、魂を共有しました。……つまり、今の貴女の身体は半分『私のモノ』です」
「……っ」
「私のモノを、私が手入れして何が悪いのです?」
無敵の論理だ。
彼は私の抵抗など柳に風と受け流し、布団を剥ぎ取った。 パジャマ姿の私が露わになる。
少し着崩れて、鎖骨が見えているのが恥ずかしい。
「さあ、検品の時間です」
アルフォンスの手が伸びてきた。
逃げようとして、私はあることに気づいた。
「……あれ?」
彼の手が、温かい。
いや、温かいどころじゃない。熱い。
彼は「氷属性」の魔力を持つため、体温は常に低めだったはずだ。 触れられるとヒヤッとするのが常だったのに、今の彼の手は、まるで陽だまりのようにポカポカしている。
「アルフォンス、熱ある?」
「いいえ。これは貴女の熱です」
彼は私のパジャマの第一ボタンに指をかけながら、愛おしそうに呟いた。
「貴女の『深淵の魔力』が私の血管を巡り、私の氷を溶かしているのです。おかげで、身体の奥がずっと火照ったままだ」
彼は私の手を取り、自分の頬に当てさせた。
本当だ。 いつもの冷たい彫像のような肌じゃない。 生身の人間の、少し高めの体温。
「……私と繋がっている証拠ですね」
彼が目を細め、私の掌にキスをした。
その唇の熱さに、心臓が跳ね上がる。
「……なんか、ずるい」
「何がです?」
「だって……あんたがそんなに温かいと、くっつきたくなっちゃうじゃない」
私がボソリと言うと、アルフォンスの目がギラリと光った。捕食スイッチが入った音だ。
「……許可します。存分にくっついてください」
彼はベッドに乗り出し、私を抱きすくめた。
熱い。 全身がカイロになったみたいだ。
塔の中は少し肌寒かったけれど、彼の腕の中は常夏のように暖かい。
「……んぅ……」
私は観念して、彼の首に腕を回した。
甘い蜜蝋の匂いと、彼の体温。
悔しいけれど、落ち着く。
このまま二度寝したいくらいだ。
「甘えん坊ですね。ですが、検品は続行しますよ」
彼は私を抱きしめたまま、器用にパジャマのボタンを外し始めた。 プチ、プチ、プチ。
一つ外れるごとに、涼しい空気が肌に触れ、すぐに彼の熱い指がそこをなぞる。
「……あ、そこ……」
「おや、契約の痣が……ここに出ましたか」
彼の手が、私の左胸――心臓の真上で止まった。 そこには、昨夜まではなかった、淡いアイスブルーの紋様が浮かび上がっていた。 薔薇と鎖をモチーフにしたような、複雑で美しい紋様。
「……綺麗だ」
アルフォンスはため息交じりに呟き、その紋様に指を這わせた。
「心臓に刻印されるとは……。貴女の命脈すべてを私が握っているようで、ゾクゾクします」
「……重いってば」
「愛の重さです。受け止めきれないなら、私が支えます」
彼は紋様に口づけを落とした。 胸の奥が痺れる。 心臓がドクンドクンと彼のリズムに同期して、自分のものではなくなっていく感覚。
「……アルフォンス、もう……」
「まだです。……昨夜の毒の影響が残っていないか、全身くまなく確認せねば」
パジャマが完全に開かれた。
彼は私の身体を、芸術品を鑑定するようにじっくりと眺め回した。
「……肌艶よし。魔力回路の輝きよし。……そして何より」
彼は私の耳元に顔を寄せ、低く囁いた。
「私のつけた『印』が、まだ消えていないのが素晴らしい」
「……ッ!?」
私は慌てて自分の首筋や鎖骨を手で隠した。
昨夜のお風呂やベッドで、彼が執拗につけたキスマークが、まだ赤い花びらのように残っているはずだ。
「隠さないで。……ここは閉ざされた世界です。誰に見られる心配もありません」
彼は私の手を優しくどけた。
「貴女は一日中、パジャマのままでもいい。裸のままでもいい。……私がすべて世話し、管理し、愛でて差し上げますから」
「……ダメ人間製造機め」
「最高の褒め言葉です」
アルフォンスは満足げに笑い、私を抱き起こした。 そして、サイドテーブルから、温かいホットミルクを取って、私の口元に運んだ。
「さあ、まずは水分補給を。……私が口移しする前に、ご自分で飲めますか?」
「……のみます! 自分で飲みます!」
私は慌ててカップを受け取った。
彼なら本気でやりかねない。
この塔には、もう私たちを止める法律も、常識も、他人の目もないのだから。
ホットミルクの甘さが、喉を通り抜ける。
でも、それ以上に甘ったるい空気が、この部屋に充満していた。
「……飲み終わったら、清拭です。蒸しタオルを用意しました」
アルフォンスの手には、湯気の立つタオルが握られている。
「今日は一歩もベッドから出しませんよ、エルカ様。……昨夜の疲れが完全に癒えるまで、私が貴女を『漬け置き洗い』のごとく甘やかしますから」
「……はいはい。お手柔らかに」
私は諦めて、彼に身を委ねた。
熱を持った彼の身体と、過剰すぎる世話焼き。
契約の朝は、胃もたれするほど甘く、そしてどうしようもなく幸せだった。
窓の外の霧の向こうで、世界がどうなっていようと知ったことではない。私にとっての世界は、今、このベッドの上だけなのだから。
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