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第29話「雨の帰還と、秘密の報酬」

◆ 更新スケジュール ◆


この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。

「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。

「……くしゅんッ」


私のくしゃみが、静まり返った脱衣所に響いた。 無理もない。 先ほどまで、ずぶ濡れのアルフォンスにしがみついていたのだ。

私の服も、彼の燕尾服から移った雨水でぐっしょりと濡れてしまっている。


「申し訳ありません。私の体温管理ミスです」


アルフォンスが眉を下げ、濡れた髪をかき上げた。 雫がしたたるその仕草は、悔しいほどに色気がある。 眼鏡は外され、アイスブルーの瞳が直接私を見つめている。 雨に濡れた獣のような、少し野性的な瞳だ。


「貴女を風邪など引かせるわけにはいきません。直ちに『急速解凍』および『深部加温』の処置を行います」


「……それって、お風呂?」


「ええ。それも、ただの入浴ではありません」


彼は私の手を取り、浴室の扉を開けた。


「緊急事態につき、熱源を同伴させた『密着保温浴』とさせていただきます」


          

湯気が立ち込める浴室。

猫足の大きなバスタブには、乳白色のお湯が並々と張られていた。 甘いミルクと、スパイシーなジンジャーの香りが漂う。


「……入ってください」


アルフォンスに促され、私はタオルを巻いたまま、恐る恐る湯船に足を浸した。


「……あつっ」


「四三度です。冷えた末端神経を蘇らせるには、これくらいの刺激が必要です」


私が肩まで浸かると、お湯がザブンと溢れた。

温かい。 凍えていた芯が、じわじわと溶かされていく感覚。


そして。 ザバァ……。


背後で、重い水音がした。


「失礼します」


振り返ると、一糸まとわぬ姿のアルフォンスが、

当然のような顔で湯船に入ってくるところだった。 引き締まった筋肉。 透き通るような白い肌。

そして、濡れて張り付いた銀髪。


「……っ、前! 前隠してよ!」


「何を今更。……貴女の全てを知り尽くしている私に、隠す場所などありませんよ」


彼は涼しい顔で私の隣――というか、背後に陣取った。 広いバスタブなのに、わざわざ密着してくる。 私の背中に、彼の胸板がピタリと貼り付く。


「……ひゃっ」


冷たい。

彼の肌は、雨で冷え切っていて、まるで氷のようだ。熱いお湯の中で、その冷たさだけが鮮烈に感じられる。


「……アルフォンス、体冷たい……」


「ええ。外は酷い嵐でしたから」


彼は私の肩に顎を乗せ、耳元で囁いた。

吐息だけは熱い。


「ですが、貴女というカイロがあれば、すぐに適温に戻ります」


「……私、カイロ扱い?」


「最高級の、ですね」


彼の腕が、お湯の中で私の腰に回った。

抱きしめられる。

彼の冷たい肌が、私の体温を奪い、代わりに私の熱が彼に移っていく。 熱交換。

まるで、生命力を分け与えているようだ。


「……今日の貴女は、本当に可愛らしかった」


彼の手が、お湯の中で私のお腹を優しく撫でた。


「私のシャツを抱きしめ、私の残り香に包まれて眠るなど……。あんな無防備な姿を見せられては、理性が飛びそうになりましたよ」


「……うぅ、忘れてってば……」


私は赤くなってうつむいた。

あれは一生の不覚だ。

寂しさに負けて変態行為に及んでいたところを、当人に見られるなんて。


「忘れません。私の脳内アーカイブの『至宝フォルダ』に永久保存しました」


「消去して!」


「無理ですね。それより、背中を流しましょう」


彼は話題を変え、スポンジを手に取った。

私の背中を、優しく、リズミカルに洗い始める。


「……貴女がそこまで私を求めてくれていることが、嬉しくてたまらないのです」


ゴシ、ゴシ。 心地よい摩擦音。


「私がいないと、水も飲めない。インクも見つけられない。寂しくて泣いてしまう。……ああ、なんて愛おしい」


彼の声が、湿り気を帯びて低くなる。


「貴女をそこまで『ダメ』にしたのは私ですが……その成果を目の当たりにすると、背筋がゾクゾクするほどの悦びを感じます」


「……悪趣味ね」


「ええ。私は、貴女が一人では生きていけない『美しい人形』になることを望んでいますから」


スポンジが止まった。

代わりに、彼の素手が背中を滑る。

背骨の一本一本を確かめるように。


「……でもね、アルフォンス」


私はお湯をすくい、自分の顔を洗った。


「私だって、あんたがいないと生きていけないなんて……悔しいけど、事実よ」


今日の孤独は、本当に辛かった。

静かすぎる塔。 味気ない食事。

彼がいない世界は、私にとって色を失った灰色の牢獄だった。


「……あんたが帰ってきてくれて、本当によかった」


私が素直な気持ちを伝えると、背後の気配が固まった。 そして、次の瞬間。

バシャッ! 激しい水音と共に、私は彼の方へ引っくり返された。


「……ッ、エルカ様」


アルフォンスが、私を正面から抱きしめた。

お互いの胸と胸が密着する。

彼の肌は、もう冷たくなかった。 お湯の熱さと、彼自身の興奮で、燃えるように熱くなっている。


「……そんな可愛いことを言わないでください。このまま貴女を溶かして、飲み込んでしまいたくなる」


彼の瞳が、至近距離で私を見つめる。

眼鏡のない瞳は、無防備で、そしてどうしようもなく情熱的だ。


「……飲み込んでもいいわよ」


「……ほう?」


「だって、外の世界は敵だらけなんでしょ? ……魔法省も、セドリックも、私を引き剥がそうとしてる」


私は彼の手を握りしめた。

お湯の中で絡み合う指。


「だったら、あんたの中に隠してよ。……誰にも見つからないように」


私の言葉に、アルフォンスは一瞬呆気にとられ――そして、深淵のような笑みを浮かべた。


「……ええ。隠して差し上げますとも」


彼は私の唇に、深いキスをした。

お湯の味がするキス。

長く、粘着質で、息ができなくなるほどの口づけ。


「……ぷはっ」


唇が離れると、銀の糸が引いた。

アルフォンスは私の乱れた前髪を直しながら、

低い声で言った。


「実は……今日、私が遅くなったのには理由があります」


「理由?」


「ええ。単に査問会が長引いたわけではありません。……帰りに、ある『裏ルート』に立ち寄っていたのです」


彼はバスタブの縁に置いてあった、小さな防水ケースを手に取った。

中に入っていたのは、黒く変色した古い羊皮紙だ。


「……なに、これ」


「古代の『空間隠蔽魔法陣』のオリジナル写本です」


アルフォンスの声のトーンが変わった。

甘さは消え、冷徹な策略家の声になる。


「これを塔の基部に埋め込み、私たちの魔力を同期させて発動すれば……この塔は、魔法省の座標レーダーから完全に消失します」


「……消失?」


「はい。物理的には存在しますが、魔力的には『認識できない空白地帯』となる。……奴らがいくら『強制移送』の命令を出そうとも、対象となる塔が見つからなければ手出しできません」


彼はニヤリと笑った。


「これを手に入れるために、雨の中、闇市の怪しげなブローカーと交渉し……少々『強引な手段』を使う羽目になりましたが」


「……強引な手段って……」


「お気になさらず。相手は二度と口を利けないように説得しておきましたから」


彼の笑顔が怖い。

でも、その狂気はすべて私を守るためのものだ。


「……ありがとう、アルフォンス」


「礼には及びません。これは、私たちが永遠に一緒にいるための『鍵』です」


彼は羊皮紙を戻し、再び私を抱き寄せた。


「ですが、この魔法陣を発動するには……一つだけ条件があります」


「条件?」


「『術者二人の魂の波長が完全に一致していること』です」


彼は私の首筋に顔を埋め、クスクスと笑った。

その振動が、私の鎖骨に伝わる。


「つまり、心も身体も、一つに溶け合うほどの深い繋がりが必要なのです」


「……それって……」


「ええ。……今夜は、その『調整』を入念に行わなければなりませんね」


彼の手が、お湯の中で大胆に動く。

太腿を撫で上げ、敏感な場所を掠める。


「……ひゃっ、アルフォンス……!」


「雨に濡れて帰ってきたご主人様に……『秘密の報酬』をいただけますか?」


上目遣い。 濡れた銀髪。

そして、とろけるような甘い声。

こんな顔でねだられて、拒めるわけがない。

私はもう、彼の共犯者なのだから。


「……バカ。……いいよ」


私が小さく頷くと、アルフォンスは歓喜の表情で私を抱き上げた。

ザバァッ! 大量のお湯が溢れ出す。


「ありがとうございます。では、ベッドへ移動しましょう。夜はまだ始まったばかりです」


彼は私をバスタオルで包むことすらせず、濡れた身体のまま抱きかかえて浴室を出た。

床に滴る水滴。

でも、そんなことはどうでもよかった。

彼と私が作り上げる「完全な隠蔽空間」――

二人だけの世界が、すぐそこまで迫っていたのだから。


窓の外の雨音は、もう聞こえなかった。

私の耳には、彼の荒い息遣いと、重なり合う二つの心音だけが響いていた。

読んでくださってありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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