第28話「執事の不在、崩壊する日常」
◆ 更新スケジュール ◆
この作品は、平日は毎日21時、土日祝は8時と21時に更新しています。
「続きが気になる」と思っていただけたら、ブクマで応援していただけると励みになります。
「……いいですか、エルカ様。絶対に、絶対に安静にしていてください」
玄関ホールで、アルフォンスはまるで今生の別れかのような悲痛な面持ちで私の肩を掴んでいた。
「食事は全て冷蔵庫に入れてあります。温める必要はありません、冷たくても美味しいサンドイッチにしておきました。火は厳禁です。お湯も沸かしてはいけません。喉が渇いたら、テーブルの上の水差しから注ぐだけにしてください」
「分かった、分かったってば!」
私は彼の胸を押し返した。
今日は、彼が魔法省の査問会に呼び出され、一日だけ塔を空ける日だ。 昨日のセドリックとの一件で、彼が「やりすぎた(花束焼却)」ことへの説明を求められたらしい。
「たかが半日かそこらでしょ? 私だって大人よ。一人でお留守番くらいできるわ」
「……不安だ」
アルフォンスは心底信用できないという顔で、
私の頭に安全祈願のキスをした。
「貴女が一人で呼吸すらできるか心配でなりません。窒息する前に帰ってきますからね」
「過保護すぎ! ほら、行った行った!」
私は彼を扉の外へと押し出した。 バタン。
重厚な扉が閉まり、鍵がかかる音がした。
「……ふぅ。やっと行った」
私はくるりと振り返り、静まり返ったホールを見渡した。
「……せいせいするわ!」
私は両手を広げて叫んだ。
この一ヶ月、朝から晩まで「起きろ」「食べろ」「風呂に入れ」と管理されっぱなしだったのだ。 今日こそは自由だ。 好きな時間に起き、好きな本を読み、誰にも文句を言われずにダラダラ過ごす。 これぞ、かつての私が愛した「スローライフ」ではないか。
「さあ、まずは二度寝よ!」
私は意気揚々と寝室へ戻り、ベッドにダイブした。
数時間後。
私はベッドの上で、天井を見つめていた。
「……眠れない」
おかしい。 かつては一度寝たら死んだように夕方まで起きなかった私が、目が冴えて仕方がない。 布団が冷たい。 いつもなら、私が目覚める前にアルフォンスが湯たんぽを入れておいてくれるし、
何より、彼に起こされる時の「おはようございます」という声と、額へのキスがないと、スイッチが入らない身体になってしまったらしい。
「……お腹空いた」
私はのろのろと起き上がった。
時計を見ると、もう正午を回っている。
リビングへ行くと、テーブルの上には彼が用意していったサンドイッチのバスケットがあった。
中には、彩り豊かな野菜とローストビーフのサンドイッチ。 完璧だ。美味しそうだ。
私は一つ手に取り、口に運んだ。
「……」
モグモグと咀嚼する。 味はいい。
最高級の食材を使っているのが分かる。
でも。
「……パサパサする」
飲み込めない。
いつもなら、アルフォンスが横についていて、「美味しいですか?」と聞いてくれたり、口元についたソースを拭いてくれたり、タイミングよく紅茶を出してくれたりする。
その「世話」というスパイスがないだけで、食事はただの栄養摂取作業に成り下がっていた。
「……紅茶、飲みたい」
私はサンドイッチを置き、キッチンへ向かった。 火は厳禁と言われたが、魔法を使えばお湯くらい沸かせる。 ……いや、待てよ。 前回、それをやって爆発させた記憶が蘇る。
「……水でいいわ」
私は水差しを手に取った。 重い。
ガラスの水差しが、こんなに重かったなんて。
コップに注ごうとして、手が震え、テーブルクロスに水をこぼしてしまった。
「あ……」
拭かなきゃ。 布巾はどこ? 引き出しを開けるが、綺麗に整頓されすぎていて、どこに何があるか分からない。 アルフォンスなら、私が「あっ」と言った瞬間に、どこからともなくタオルを出して拭いてくれるのに。
「……もう、いいや」
私は濡れたテーブルを放置して、ソファに座り込んだ。 何もする気が起きない。
ただ、ぼんやりと窓の外を眺める。
空はどんよりと曇り、今にも雨が降り出しそう。
「……研究でもしようかな」
私は書きかけの論文を広げた。
羽ペンを手に取る。 だが、インクが切れていた。
「……インク、どこ」
棚を探す。見つからない。
いつもなら、インクが切れる前に補充されているから、インク瓶の場所すら知らないことに気づく。
「……なによ、これ」
私は羽ペンを投げ出した。
できない。お茶も淹れられない。
こぼした水も拭けない。インクも補充できない。
私は「天才魔女」だったはずだ。
高度な魔法式を組み、空間転移すら操る私が。
生活という基礎魔法においては、レベル1の初心者以下だ。
「……アルフォンスのバカ」
彼が私をダメにしたのだ。
何も考えなくていい、全て私がやる、と甘やかし続けた結果、私は彼なしでは指一本動かせない「美しい廃人」になってしまった。
(……寂しい)
不意に、強烈な孤立感が襲ってきた。
広い塔の中に、たった一人。
聞こえるのは、自分の呼吸音と、雨が窓を叩き始めた音だけ。 静かすぎる。
いつもなら、彼が衣擦れの音をさせて歩く気配や、食器を洗う音、そして私を呼ぶ声が満ちているのに。
「……アルフォンス……」
名前を呼んでみても、返事はない。
胸の奥が、キュッと締め付けられる。
これは「甘えん坊熱」なんかじゃない。
もっと深刻な、「アルフォンス欠乏症」だ。
私はふらふらと立ち上がった。
彼の気配を探して、塔の中を彷徨う。
キッチン、廊下、図書室。 どこにも彼はいない。
そして、私はある部屋の前で足を止めた。
「使用人室」。 アルフォンスの私室だ。
普段は立ち入り禁止と言われている、彼の聖域。
「……いないんだから、いいわよね」
私は罪悪感を感じながらも、ドアノブを回した。 鍵はかかっていなかった。
ガチャリ。
部屋の中は、恐ろしいほど整然としていた。
余計な物が一切ない。
本棚には背表紙がミリ単位で揃えられた本。
ベッドにはシワ一つないシーツ。
まるで、生活感というものが排除されたショールームのようだ。
「……きれいすぎ」
でも、匂いがした。
リビングや私の部屋とは違う、もっと濃い匂い。 清潔な石鹸と、古い紙、そして……微かに香る、彼自身の体臭。 冷たくて、でも甘い、ムスクのような香り。
「……あ……」
私は吸い寄せられるように、部屋の中に入った。 そして、部屋の隅にあるハンガーラックに目が止まった。 そこには、彼が普段着ている予備のシャツが掛かっていた。 洗濯済みで、パリッと糊付けされた白いシャツ。
私は震える手で、そのシャツを手に取った。
顔を近づける。
「……アルフォンスの、匂い」
理性が飛んだ。
私はシャツに顔を埋め、大きく深呼吸をした。
スーッ、ハァ……。
肺の奥まで、彼の匂いで満たす。 落ち着く。
まるで、彼に抱きしめられているようだ。
水も飲めずに干からびていた植物が、恵みの雨を受けたように、身体中に生気が戻ってくる。
「……変態だわ、私」
自嘲しながらも、止められない。
私はシャツをハンガーから外し、それを抱きしめたまま、彼のベッドに倒れ込んだ。
硬いマットレス。 ここでも彼の匂いがする。
「……早く帰ってきてよ……」
シャツをギュッと抱きしめる。
ボタンの硬い感触が、彼の指のようだ。 寂しい。
会いたい。 私の髪を梳いて、紅茶を淹れて、「仕方ないですね」って呆れながら笑ってほしい。
「……私、あんたがいなきゃ、もうダメみたい」
孤独が、私のプライドを粉々に砕いていく。
私はシーツに丸まり、彼が帰ってくることだけを祈って、目を閉じた。 窓の外では、雨脚が強まっていた。 雷が鳴り始めている。
でも、不思議と怖くなかった。
この部屋にある彼の残り香が、私を守る結界のように包んでくれていたから。
数時間後。 私は完全に寝落ちしていたらしい。
ふと、頬に冷たいものが触れて目が覚めた。
「……んぅ……?」
目を開けると、薄暗い部屋の中に、人影が立っていた。 濡れた銀髪。 水滴のついた眼鏡。
そして、私を見下ろす驚愕の表情。
「……エルカ、様?」
アルフォンスだった。
ずぶ濡れのまま、立ち尽くしている。
「……あ、アルフォンス……?」
私は寝ぼけ眼で彼を見た。 夢じゃない。本物だ。 でも、今の私の状況は――。
彼のベッドの上で、彼のシャツを抱きしめ、
彼の匂いに包まれて丸まっている。
泥棒猫どころではない。完全な変質者だ。
「……ぁ……」
状況を理解し、顔から火が出るほど赤くなった。 言い訳しなきゃ。
寒かったからとか、掃除しに来たとか。
でも、口から出たのは、一番情けない、でも一番正直な言葉だった。
「……遅い」
私の目から、ポロリと涙がこぼれた。
「……お腹空いたし、水こぼしたし、雷鳴ってるし……寂しかったんだから……ッ!」
私は抱きしめていたシャツを投げ出し、彼に向かって手を伸ばした。プライドなんてどうでもいい。 今すぐ、本物の体温が欲しい。
「……はは」
アルフォンスが、短く笑った。
そして、濡れるのも構わずにベッドに乗り出し、私を力いっぱい抱きしめた。
「……ただいま戻りました、私の甘えん坊な魔女様」
「……うぅ……バカぁ……」
冷たい雨の匂いと、懐かしい彼の匂いが混ざり合う。 私は彼の濡れた燕尾服にしがみつき、子供のように泣きじゃくった。
一日の不在が証明した事実は一つ。
私はもう、彼なしでは「エルカ・シュヴァルツ」という形すら保てない、ただの寂しがり屋な生き物になってしまったということだ。
「……シャツ、匂いを嗅いでいたのですか?」
耳元で、彼が意地悪く囁いた。
「……う、うるさい! 没収よ!」
「構いません。代わりと言ってはなんですが、今夜は本物が一晩中お側におりますから」
彼の腕が強くなる。
その抱擁は、甘く、そして逃れられない「檻」のように私を閉じ込めた。
その時だった。
彼の濡れた燕尾服のポケットから、グシャリ、という硬い音がした。 私がしがみついた拍子に、中に入っていた羊皮紙が潰れた音だ。
「……アルフォンス? ポケット、何か入ってる……」
「……ああ、これですか」
彼は私を抱きしめたまま、ポケットの中身を取り出すことなく、その上から強く握りしめた。
ギリリ。 革手袋が軋む音がする。
先ほどまでの甘い空気が一変し、氷のような殺気が漂った。
「……ただのゴミですよ」
彼の声は、地獄の底から響くように低かった。
「魔法省の古狸どもが、貴女をここから引き剥がし、王都の研究所へ隔離しようという……『強制移送計画』の通知書です」
「……えっ? 強制、移送……?」
私は息を呑んだ。 セドリックが言っていた「ここを出ることになる」という言葉が蘇る。
彼らは本気だ。 私をこの塔から、そしてアルフォンスから引き離そうとしている。
「ご安心を。……こんな紙切れ、私が灰にします」
アルフォンスは私の背中で、羊皮紙を握り潰した。 ボッ、と小さな音がして、焦げ臭い匂いが漂う。 彼はポケットの中で、通知書を魔法で焼き尽くしたのだ。
「誰にも渡しません。……貴女を移送などさせるものか」
彼は震える私を、さらに強く抱きしめた。
「もし奴らが実力行使に出るなら……私はこの塔を要塞に変えてでも、貴女を守り抜く。たとえ、魔法省全てを敵に回しても」
外では雷鳴が轟いていた。
ピカッ、と光った稲妻が、一瞬だけ彼の横顔を照らし出す。 眼鏡の奥のアイスブルーは、狂気的なまでの決意に満ちていた。
「さあ、お風呂へ行きましょう。冷えた身体を温めながら、今後の『防衛策』について、じっくり話し合わなければなりませんね」
雨の帰還。
それは、私たちの日常が戻ってきた喜びの瞬間であると同時に、世界との全面戦争が始まった合図でもあった。 抱きしめ合う私たちの足元には、燃え尽きた通知書の灰が、黒い雪のようにポケットからこぼれ落ちていた。
読んでくださってありがとうございます。
少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。
感想や評価・ブックマーク、とても励みになります。




