第26話「消毒という名の愛撫」
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浴室の扉を開けた瞬間、私の視界は白一色に染まった。 充満する湯気。
そして、鼻を突く強烈なハーブの香り。
「……うっ。なにこれ、すごい匂い……」
「殺菌作用のある『聖銀草』と『浄化の木』を煮出しました。……少しむせ返るかもしれませんが、我慢してください」
私を抱きかかえたまま、アルフォンスは湯気の中を迷いなく進んでいく。 彼の足取りは、怒っているかのように速く、それでいて私を揺らさないよう慎重だった。
「……アルフォンス、怒ってる?」
「自分自身に、です」
彼は短く答え、バスタブの縁に私を下ろした。
そこに張られていたのは、普段のような乳白色の入浴剤ではなく、深く透き通ったエメラルドグリーンの湯だった。
水面には怪しげな薬草が何種類も浮き、魔力を帯びた泡がパチパチと弾けている。
「……毒湯に見えるんだけど」
「解毒湯です。……さあ、浸かって」
彼の手によって、私のスリップが脱がされる。
抵抗する間もない。
一糸まとわぬ姿になった私は、彼の指示通り、
緑色の湯船へと沈んだ。
「……あつっ!」
「四二度です。発汗作用を促し、毛穴の奥に入り込んだ毒素と汚れを排出させる最適温度です」
アルフォンスは袖をまくり上げ、濡れるのも構わずに湯船の縁に膝をついた。
その手には、目の粗いスポンジと、ねっとりとした琥珀色の液体が入った小瓶が握られている。
「……痛いのは嫌よ」
「善処しますが、保証はできません。今夜の汚れは、頑固ですから」
彼の目が、湯気越しにギラリと光った。
それは執事の目ではなく、手術台の患者を見下ろす外科医の目だった。
「腕を上げて」
冷徹な指示と共に、スポンジが私の二の腕を擦る。 ゴシ、ゴシ、ゴシ。
いつもの優しいタッチではない。
皮膚が赤くなるほどの強さで、何度も、何度も同じ場所を往復する。
「……っ、痛いってば! 皮が剥けちゃう!」
「剥けた方がマシです。この辺りですね、あの男たちが貴女に触れようとしたのは」
彼は私の二の腕の内側――最も柔らかい皮膚を、親指で強く押し込んだ。
「目に見えなくとも、奴らの不潔な呼気や、欲望に塗れた視線が、ここにこびりついている。……想像するだけで反吐が出る」
彼は琥珀色の液体――高濃度の洗浄オイルをたっぷりと肌に塗りたくり、汚れをこそぎ落とすようにマッサージを始めた。
「……んぅ……」
痛いけれど、気持ちいい。
彼の指の熱さが、オイルを通して筋肉の奥まで浸透してくる。 毒のせいか、それとも恐怖の反動か、私の感覚は過敏になっていた。
彼が触れる場所すべてが熱を持ち、痺れるような快感が走る。
「……アルフォンス、そこ……」
「黙って。……まだ終わりません」
彼は私の背中に回った。
背骨に沿って、指の腹が滑り降りる。
ドレスで露出していた背中。
そこは、会場中の視線が一番集まった場所だ。
「背中は特に酷い。無数の視線の跡が、虫のように這い回っているのが見えます」
彼の声には、隠しきれない嫌悪と、激しい嫉妬が混じっていた。
「見せつけるつもりでしたが……やはり失敗でした。貴女の肌は、誰の目にも触れさせず、私だけが暗闇で愛でるべきだった」
彼の爪が、背中に食い込む。
痛みと快感の境界が曖昧になる。
「……消毒します」
彼はスポンジを捨て、素手で私の背中を洗い始めた。 大きな手が、私の背中全体を覆い尽くす。
滑らかなオイルの感触と、彼の手のひらの摩擦。
キュッ、キュッ、と肌が鳴るほどに磨き上げられていく。
「……もう、綺麗になったでしょ……?」
「いいえ。まだ髪が残っています」
彼は私の頭にお湯をかけ、シャンプーを泡立てた。 指の腹が頭皮を揉みほぐす。
そこまではいい。いつも通りだ。
だが、今日の彼は違った。
「髪の一本一本まで、検品が必要です」
彼は私の濡れた黒髪を束ね、その先端を――口に含んだ。
「ッ!?」
鏡越しに見えた光景に、私は息を呑んだ。
アルフォンスが、私の髪にキスをし、舌先で味わっている。それは洗浄というより、もっと背徳的な儀式に見えた。
「……成分分析。……タバコの煙、安物の香水、そして……微量の媚薬成分」
彼がペッ、と吐き捨てるように唇を拭った。
「やはり、空気中に催淫効果のある香が焚かれていたようです。……貴女が気づかないレベルで、思考を鈍らせる罠が」
「そ、そうだったの?」
「ええ。……すべて洗い流します。私の匂いで上書きして」
彼は自分の愛用しているシャンプー――ムスクとミントの香りがする液体を、惜しげもなく私の頭に振りかけた。 濃厚な泡が私を包み込む。
浴室中が、彼の匂いで満たされていく。
「……これで貴女は、頭の先から足の先まで、私の香りしか纏えません」
彼の指が、耳の後ろやうなじ、そして鎖骨のくぼみを執拗に洗う。 そこは、香水をつける場所。
つまり、マーキングの最重要ポイントだ。
「……アルフォンス……くすぐったい……」
「動かないで。……毒素はリンパ節に溜まりやすいのです」
彼は私の脇の下や、太腿の付け根を、容赦なくマッサージした。 医療行為だと言われればそれまでだが、その手つきは明らかに愛撫の領域に踏み込んでいる。
「……ん、あっ……」
「……いい声だ」
彼は耳元で囁いた。
「毒のせいで、感度が上がっていますか? それとも、私の手が恋しかったのですか?」
「……どっちも……かも……」
私は力なく答えた。
お湯の熱さと、彼の手の熱さで、頭がクラクラする。もう、どうにでもしてほしい。
汚れていると言うなら、気が済むまで洗えばいい。 彼の気が済むまで、私を彼色に染め直せばいい。
「……素直でよろしい」
アルフォンスは満足げに喉を鳴らすと、最後の仕上げに取りかかった。彼は別の小瓶を取り出した。 中に入っているのは、白く濁ったクリーム。
「これは?」
「『魔力結合剤』を配合したボディクリームです」
彼はそのクリームを私の全身に塗り始めた。
ひんやりとした感触。
だが、塗られた直後から、カッと熱くなる。
「このクリームを通じて、私の魔力を貴女の細胞一つ一つに浸透させます。体内に残った『魔力阻害薬』を中和し、私の魔力で上書き保存する」
「……上書き……?」
「ええ。貴女の魔力回路に、私の魔力を流し込むのです。……少し、変な感じがするかもしれませんが」
彼の手が、私のおへその下あたりに置かれた。
ドクン。
そこから、強烈な奔流が流れ込んできた。
冷たくて、鋭くて、でもどうしようもなく甘い、
アルフォンスの魔力。
「……あ、あぁッ……!」
声が出た。
身体の中身が、彼に乗っ取られるような感覚。
血管の中を、彼の魔力が駆け巡り、私の毒を食らい尽くしていく。
「……すごい、入ってくる……」
「受け入れてください。……私の全てを」
彼は私を背後から抱きしめ、耳元に噛み付くようにキスをした。
魔力の流入と、物理的な接触。
内と外、両方から彼に侵食されていく。
「……これで貴女は、細胞レベルで私のモノになりました」
彼の囁きが、脳髄に響く。
「貴女の身体を流れる魔力も、貴女を包む香りも、貴女の肌の艶も。……すべて私が与えたものです」
「……うん……全部、あんたの……」
私は脱力し、彼に身を預けた。
エメラルドグリーンの湯船の中で、私たちは一つに溶け合っていた。 毒の恐怖も、外の世界の記憶も、すべて洗い流され、残ったのは「彼に所有されている」という絶対的な安心感だけ。
「……綺麗になりましたよ、エルカ様」
長い長い「消毒」の終わり。
アルフォンスは私をバスタブから抱き上げ、大きなバスタオルで包み込んだ。
鏡に映った私は、茹で上がったタコのように赤く、そして全身がツヤツヤと輝いていた。
まるで、生まれたての赤ん坊のように。
「……もう、毒はない?」
「ええ。完全に消滅しました」
彼はタオル越しに私を抱きしめ、濡れた髪に顔を埋めた。スーッ、と深く息を吸い込む。
「……いい匂いだ。私と同じ匂いがする」
彼は恍惚とした表情で、私の頬を舐めた。
「もう二度と、他の匂いはつけさせません。明日からは、貴女が空気を吸う時も、私の許可を得てからにしてくださいね?」
「……バカなこと言わないで」
「本気ですよ」
彼は私を抱きかかえ、浴室を出た。
その足取りは、宝物を奪還した盗賊のように軽やかで、そしてどこまでも傲慢だった。
「さあ、ベッドへ行きましょう。……洗浄で失われた水分と魔力を、朝までたっぷり補給しなければなりませんから」
彼の言葉の意味を考える前に、私は深い眠気と幸福感に襲われていた。消毒という名の愛撫。
それは、私から「自分」という境界線を消し去り、彼と完全に融合するための儀式だったのだ。
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