第25話「夜会の果て、甘美な檻への帰還」
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ガタゴトと揺れる馬車のリズムが、次第に緩やかになっていく。
窓の外を流れる景色から、街の明かりが消え、
深い森の闇へと変わっていた。
「やっと、静かになった」
私は深い溜息をつき、隣に座るアルフォンスの肩に頭を預けた。 往路とは違い、帰路の車内には重苦しい沈黙はなく、戦場から生還した兵士たちが共有するような安堵感が漂っていた。
「お疲れ様でした、エルカ様。不快な害虫共の視線に晒され、さぞお疲れでしょう」
アルフォンスが私の髪を撫でる。
その手つきは優しく、しかしどこか執拗だった。 彼は私の髪の一本一本に絡みついた「他人の視線」という汚れを、指先で払い落とそうとしているかのようだ。
「……うん。疲れた。……もう二度と行きたくない」
「ええ。行かせませんとも」
彼は即答し、低い声で続けた。
「あのような不潔な場所、貴女の清浄な肺には毒すぎます。二度とあのような汚泥の中に、私の宝石を投げ込むような真似はさせない」
彼の言葉には、単なる労り以上の、昏い決意が込められていた。 今日の夜会で、彼は確信したのだ。 外の世界は敵だらけであり、私を守れる場所はこの塔だけなのだと。
キィィィ……。
ブレーキの音が響き、馬車が停止した。
塔の前に到着したのだ。
「さあ、着きましたよ」
アルフォンスが先に降り、私に手を差し伸べる。 夜風は冷たかったが、そこに含まれる空気は、
懐かしい森の匂いと、我が家の匂いがした。
「……ただいま、私の聖域」
私はよろめくように地面に降り立った。
重力魔法のかかったドレスが、最後の力を振り絞るように重くのしかかる。 足がもつれそうになった瞬間、ふわりと身体が浮いた。
「……っと」
「歩かなくて結構です。貴女の靴底を、これ以上土で汚したくありませんから」
またしてもお姫様抱っこだ。
もう恥ずかしがる気力もない。
私は彼の首に腕を回し、その胸板に顔を埋めた。 カツ、カツ、カツ。
アルフォンスの足音が、石造りの階段に響く。
その規則正しいリズムを聞いているだけで、強張っていた神経が一本ずつ解けていくようだった。
重厚な扉が開かれ、そして閉ざされる。
ドォン……。
重い音が響き、外の世界が完全に遮断された。
「……帰ってきた」
塔の中。
チリ一つない床。磨き上げられた手すり。
そして、ほのかに香る蜜蝋とレモンの香り。
それは、アルフォンスが作り上げた「完璧な世界」の匂いだ。
「おかえりなさいませ、エルカ様」
アルフォンスは私を抱いたまま、玄関ホールで一瞬立ち止まり、私を落とさない絶妙なバランスで深々と頭を下げた。
「ここからは、私と貴女だけの世界です。もう、誰も貴女を傷つけることはできません」
その言葉は、どんな防御魔法よりも私を安心させた。私は彼の腕の中で、小さく頷いた。
「……お風呂、入る」
「ええ。直ちに」
彼の目がギラリと光った。
「全身の毛穴という毛穴から、あの会場の薄汚れた空気を洗い流しましょう。……今夜は長くなりますよ」
寝室に戻ると、アルフォンスは私をベッドの端に座らせた。 そして、テキパキと準備を始める。
お湯の温度調整、タオルの用意、そして数種類のアロマオイルの調合。
「まずは、その拘束具を外さなければなりませんね」
彼は私の背後に回り込んだ。
冷たい指先が、背中の編み上げ紐に触れる。
シュルッ。 紐が緩む音が、静かな部屋に響く。
「……ふぅ」
締め付けられていた肋骨が解放され、肺に空気が入ってくる。 重かったミッドナイト・シルクが、重力魔法の効果を失い、足元へとするりと滑り落ちた。
「……綺麗な肌に、跡がついてしまった」
アルフォンスの指が、コルセットの跡が残る私の脇腹をなぞった。悔しそうな、愛おしそうな声。
「あのような場所へ行くために、貴女の柔らかい肌を締め付けるなど……やはり間違っていた」
「でも、みんな褒めてたわよ? 綺麗だって」
「当たり前です。誰が磨いたと思っているのですか」
彼は鼻で笑い、私の髪留めを外した。 パラリ。
結い上げられていた黒髪が、滝のように背中に広がる。
「ですが、奴らの『綺麗だ』という言葉すら、私には雑音に聞こえました」
彼は私の髪を掬い上げ、その香りを確かめるように顔を近づけた。
「奴らの視線が、貴女の肌を舐めるたびに……私はその眼球をスプーンで抉り出したくてたまらなかった」
「……猟奇的ね」
「純愛です」
彼は私の肩に唇を寄せた。キスではない。
私の肌に残る「外気」を吸い出し、自分の匂いで上書きするような、独占的な接触。
「……エルカ様」
「ん……?」
「約束してください」
彼の腕が、スリップ一枚になった私の身体を後ろから抱きすくめた。 強い力。
逃がさないという意思。
「もう二度と、私の目の届かない場所へは行かないと」
彼の声が震えていた。
今日のパーティーで、彼もまた傷ついていたのだ。
大切に守ってきた宝石を、無遠慮な他人の目に晒さなければならなかった苦痛。
奪われるかもしれないという恐怖。
私は振り返り、彼の手を握り返した。
「……行かないわよ」
私は本心から答えた。 今日の夜会で思い知った。 外の世界は、私には眩しすぎる。うるさすぎる。そして、残酷すぎる。
私には、この薄暗くて清潔で、甘やかしてくれる塔がお似合いなのだ。
「私、ここがいい。……あんたが管理してくれる、この檻の中がいい」
私の言葉を聞いた瞬間、アルフォンスの瞳が見開かれた。そして、とろけるような恍惚の表情へと変わる。
「……ああ、エルカ様」
彼は私の手の甲に頬を擦り付けた。
「貴女をそこまで堕落させることができて……私は執事冥利に尽きます」
堕落。 そうかもしれない。
でも、自立して孤独に震えるより、堕落して彼に愛される方が、ずっと幸せだ。
「さあ、お風呂へ行きましょう。……私が貴女を、生まれたままの姿まで洗い清めて差し上げます」
彼が再び私を抱き上げようとした、その時だった。
「……ん?」
アルフォンスの動きが止まった。
彼は私の顔を凝視し、眼鏡の奥の瞳を鋭く細めた。
「……エルカ様。少し、口を開けていただけますか?」
「え? なに急に……」
「いいから。早く」
いつになく真剣な、切羽詰まった声。
私は素直に口を開けた。
彼は懐から小さなペンライトのような魔道具を取り出し、私の喉の奥を照らした。
さらに、私の手首を掴み、脈を測る。
「……チッ。やはりか」
彼が舌打ちをした。
先ほどまでの甘い雰囲気は消し飛び、殺気だった空気が部屋を満たす。
「な、なによ。病気?」
「いいえ。……毒です」
「……えっ!?」
心臓が跳ね上がった。 毒? 私が? いつ?
「微量ですが、貴女の魔力回路に異物が混入しています。……遅効性の『魔力阻害薬』の一種ですね」
アルフォンスは私の唇を親指で強く拭った。
「今日の夜会で、飲み物を口にしましたか?」
「……アルフォンスがくれた水と、あとは……」
記憶を辿る。
そういえば、休憩中に令嬢たちに絡まれた後、
喉が渇いて……テーブルに置いてあった新しいグラスに口をつけたかもしれない。 アルフォンスが水を汲みに行っている間の、ほんの数分の隙に。
「……あの時か」
アルフォンスの表情が、能面のように無機質になった。 怒りを超えている。
これは、「殲滅」を決意した顔だ。
彼は空中に素早く解析式を描き、私の状態をスキャンした。
「……幸い、摂取量は極めて微量。命に別状はありませんし、魔力への影響も一時的なものでしょう。私の『中和魔法』ですぐに消せます」
彼は私の額に手を当て、淡い光を灯した。
温かい波が身体に広がり、少し重かった頭がスッキリしていく。
「……でも、誰が……?」
「あの令嬢たちか、あるいは……もっと別の勢力か」
アルフォンスは眼鏡を押し上げた。
レンズが冷たく光る。
「いずれにせよ、許し難い暴挙です。私の管理下にある貴女に、不潔な毒を盛るとは」
彼は私の肩を強く掴んだ。
「これは宣戦布告と受け取ります。……犯人が誰であろうと、必ず特定し、その口に同じ毒を樽ごと流し込んでやる」
「……アルフォンス、怖い」
「怖がらないでください。この怒りは、全て貴女を害する者へ向けられたものですから」
彼は私を抱きしめた。 その腕は震えていた。
私が毒を盛られたことへの怒りと、守りきれなかった自分自身への悔しさで。
「やはり、外の世界は危険だ」
彼は私の耳元で、呪いのように呟いた。
その声は、甘く、重く、私の逃げ道を完全に塞いでいく。
「もう二度と出しません。これからは、貴女が口にする水の一滴、空気の一吸いまで、全て私が検閲します」
「……うん。お願い」
私は彼にしがみついた。
毒を盛られた恐怖よりも、彼に守られている安心感の方が勝っていた。 私の世界は、もうこの塔と、彼しかいらない。
「さあ、消毒です」
アルフォンスは私を抱き上げ、浴室へと歩き出した。その足取りは、先ほどよりも速く、焦燥に満ちていた。
「毒の成分だけでなく、貴女についた恐怖の記憶ごと、私が洗い流します。……覚悟してくださいね、エルカ様」
浴室の扉が閉まる。
湯気の中に消えていく私たち。
夜会の果てに待っていたのは、安息ではなく、
より深く、より逃げ場のない「甘美な檻」への完全な幽閉だった。
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