第24話「不潔な囁きと、凍りつく微笑」
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熱狂的なワルツが終わると、私たちは逃げるようにしてホールの端にある休憩スペースへと移動した。 そこは巨大な観葉植物とベルベットのカーテンで仕切られた、一種の避難所のような場所だった。
「……はぁ、はぁ……」
人目につかない場所に入った途端、私は糸が切れたようにソファへ崩れ落ちた。
足が震えている。 心臓が早鐘を打って痛い。
数百人の視線を浴びて踊りきった緊張感が、
今になって津波のように押し寄せてきたのだ。
「よく頑張りましたね、エルカ様」
アルフォンスが、どこからともなく冷えたミネラルウォーターのグラスを差し出した。
氷がカランと涼やかな音を立てる。
「完璧なステップでした。貴女をリードできたことを、誇りに思います」
彼は片膝をつき、目線を合わせて微笑んだ。
その笑顔には、いつもの皮肉や歪んだ執着はなく、純粋な労りと敬意が滲んでいた。
汗ばんだ銀髪をかき上げる仕草が、悔しいくらい絵になる。
「……あんたのおかげよ。……私一人じゃ、最初の一歩で転んでた」
「謙遜なさらず。貴女にはそれだけの輝きがあるのです」
彼は懐からハンカチを取り出し、私の額に浮いた汗を優しく拭った。
その手つきは、壊れ物を扱うように繊細だ。
「少し、飲み物を補充してまいります。……ここで動かずに待っていてください」
「えっ、行くの?」
「すぐ戻ります。私の姿が見えなくても、私の結界は貴女を守っていますから」
彼は安心させるように私の手に触れ、一礼して去っていった。 一人残された私は、グラスの水を一口飲んだ。 冷たさが喉を通り抜け、火照った身体を冷ましていく。
(……私、やったんだ)
あんなに怖かったのに。 アルフォンスがいれば、私はあんな大舞台でも踊れる。
自信のようなものが、胸の奥に小さな灯りとして点った気がした。
だが。 その灯りは、あまりにも脆かった。
「――あら、やっぱりここね」
不意に、香水のきつい匂いが鼻をついた。
顔を上げると、三人の令嬢が私の前に立っていた。 扇子で口元を隠しているが、その目は明らかに侮蔑の色を帯びている。
「……なにかご用ですか?」
「ご用? まあ、生意気な口を利くこと」
真ん中に立つ、赤いドレスの令嬢が嘲笑った。
「さっきのダンス、見させてもらったわ。……執事にあそこまで体を預けて、恥ずかしくないのかしら?」
「まるで操り人形ね。中身がないから、男に糸を引かれないと動けないのよ」
「仕方ないわよ。……だってこの人、あの『ゴミ屋敷の魔女』だもの」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
ゴミ屋敷。 私が一番言われたくない言葉。
「知ってる? 彼女の塔、半径一キロ以内に近づくだけで異臭がするって噂よ」
「やだ、不潔。……いくらドレスで着飾っても、染み付いたカビの臭いは消えないわよねぇ」
「さっきの王子殿下も、きっと鼻をつまみたかったのを我慢していらしたのよ」
彼女たちの言葉は、鋭利な刃物となって私に突き刺さった。 違う。 私は綺麗になったはずだ。
アルフォンスが洗ってくれて、磨いてくれて、
いい香りだって言ってくれた。 なのに。
(……臭い? 私、まだ臭いの?)
トラウマが蘇る。
ゴミの中で一人、膝を抱えていた記憶。
誰にも顧みられず、世界から隔絶されていた孤独。 せっかく積み上げた自信が、ガラガラと崩れ落ちていく。
「……やめ……」
「あら、図星? ……ねえ、今すぐここから消えてくださらない? 貴女がいると、空気が汚れるの」
「身の程を知りなさいよ。泥棒猫」
彼女たちの嘲笑が、耳元で反響して大きくなる。 視界が歪む。 息ができない。
恐怖と恥辱で、魔力の制御が乱れ始める。
指先から紫色のスパークが散り、ワイングラスにヒビが入る。
(……ダメ、暴走しちゃう……!)
ここで魔力を暴走させれば、私は本当に「化け物」として処断される。
アルフォンスに迷惑がかかる。
でも、止められない。
黒い感情が渦を巻いて、私の理性を飲み込もうとする。
「あはは、見て! 顔色が土気色よ!」
「やっぱり化けの皮が剥がれたわね!」
彼女たちが勝ち誇ったように笑い声を上げた、
その瞬間だった。
「――おや。随分と賑やかですね」
絶対零度の声が、その場を凍りつかせた。
「ッ!?」
令嬢たちが一斉に振り返る。
そこには、銀のトレイを片手に持ったアルフォンスが立っていた。 表情は、完璧な微笑み。
しかし、眼鏡の奥のアイスブルーの瞳は、一切の光を宿していなかった。
それは、ゴミを見る目ですらなかった。
「処理すべき汚物」を見る、無機質な死神の目だ。
「……し、執事……」
「失礼いたします。主人の休憩中につき、ご退席願えますか?」
アルフォンスは静かに歩み寄ってきた。
足音ひとつ立てない。
その威圧感に、令嬢たちは後ずさりする。
「な、なによ! 私たちはただ、親切に忠告してあげただけよ!」
「そうよ! 彼女がこの場にふさわしくないって、教えてあげたの!」
赤いドレスの令嬢が、震える声で虚勢を張った。 アルフォンスは立ち止まり、首を傾げた。
「ふさわしくない、ですか? ……奇遇ですね。私も同じことを考えていました」
彼はにっこりと笑い、一歩踏み出した。
「貴女方のような『汚れた方々』が、私の主人の視界に入ること自体が、この会場の品位を損ねていると」
「な、なんですって!?」
「無礼者! 私の父は財務大臣よ!」
「ええ、存じております」
アルフォンスは流れるように答えた。
事務的で、冷徹な口調で。
「財務大臣、ガストン伯爵のご令嬢。……お父上が裏帳簿を使って、国庫から横領した資金で買い与えられたその赤いドレス、とてもお似合いですよ」
「……は?」
令嬢の顔が凍りついた。
「そちらの青いドレスの方は、子爵夫人ですね。先週の木曜日、『ピアノのレッスン』と偽って、庭師の小屋に三時間も滞在されていたのは何故です? 庭師のトーマス君はお元気ですか?」
「……っ!?」
「そして、貴女。魔法美容外科で『年齢詐称』の施術を受けた代金、まだ未払いだそうですね。クリニックから督促状が届いていましたよ」
アルフォンスの口から紡がれるのは、彼女たちが墓場まで持っていくはずだった致命的なスキャンダルだった。
なぜそれを知っているのか。 いつ調べたのか。
そんな疑問を抱く余裕すら与えない速射砲。
「……で、デタラメよ!」
「証拠なら、全て魔法省の監査局に提出済みですが。今ここで読み上げましょうか?」
アルフォンスは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。 ただのメニュー表かもしれない。
だが、今の彼女たちには死刑執行書に見えただろう。
「ひ、ひぃッ……!」
令嬢たちは顔面蒼白になり、ガタガタと震え出した。
自分たちが投げつけた石が、岩となって返ってきたのだ。
「……私の主人は『ゴミ屋敷の魔女』などと呼ばれていましたが、それは物理的なゴミの話」
アルフォンスは一歩、また一歩と彼女たちを追い詰める。
その背中から立ち昇る殺気は、会場の空気を歪めるほど濃密だった。
「ですが、貴女方の内面は……腐ったヘドロのように悪臭を放っている。どんな香水を浴びても隠しきれない、嫉妬と虚栄の腐臭だ」
彼は令嬢たちの鼻先まで顔を近づけ、囁いた。
「私の主人の半径五メートル以内に、二度と近づかないでいただきたい。その悪臭が移ると迷惑ですので」
「……ッ、キャァァァァァ!!」
令嬢たちは悲鳴を上げ、転がるようにしてその場から逃げ出した。嵐が去った後のような静寂が戻る。
アルフォンスは羊皮紙をポケットにしまうと、
何事もなかったかのように私の元へ歩み寄ってきた。そして、床に膝をつき、震える私の手を両手で包み込んだ。
「申し訳ありません、エルカ様」
先ほどまでの氷のような声が嘘のように、甘く、痛切な声だった。
「私が目を離した隙に、不快な思いをさせてしまいました。管理不行き届きです。どうか、私をお叱りください」
「……アル、フォンス……」
私は涙目で彼を見つめた。
怒るなんて、できるわけがない。
彼は私のために怒ってくれたのだ。
地位も名誉もある貴族を相手に、たった一人の執事として、私を守るために牙を剥いてくれた。
「……怖かった……」
「ええ、分かっています」
彼は立ち上がり、私の隣に座った。
そして、私の頭を引き寄せ、自分の胸に押し付けた。
「もう大丈夫です。……耳を塞いで」
彼の大きな手が、私の両耳を覆った。
外界の音が消える。
聞こえるのは、彼の少し早まった心音だけ。
「汚らわしい言葉など、聞く必要はありません。貴女の耳は、私の愛の言葉だけを聞くためにあるのですから」
彼は私の髪に口づけを落とした。
「貴女は綺麗です。誰よりも清潔で、誰よりも美しい。私が保証します。世界中が貴女を否定しても、私だけが貴女を全肯定し続けます」
「……ほんと?」
「私の審美眼を疑いますか? 私は世界一の潔癖症ですよ?」
彼は悪戯っぽく笑い、私の涙を親指で拭った。
「私が選んだ貴女が、汚れているはずがない。自信を持ってください。貴女は、私の自慢の主人なのですから」
その言葉は、どんな魔法よりも強力に私の傷を癒やした。 ゴミ屋敷の魔女。
そんなレッテルはもうどうでもいい。
この、完璧で最強で、少し狂った執事が「綺麗だ」と言ってくれるなら、私は胸を張って生きられる。
「……ありがとう、アルフォンス」
私は彼の胸に顔を埋め、その温もりに縋り付いた。 彼は私を抱きしめ返し、低い声で呟いた。
「さて。パーティーはまだ続きますが、どうなさいますか?」
「……帰る」
「賢明なご判断です」
彼は私を軽々と抱き上げた。
「ちょ、ちょっと! 人が見てる!」
「構いません。足元の悪い中、これ以上貴女の美しい靴を汚させたくありませんから」
彼は堂々と胸を張り、会場の出口へと歩き出した。 すれ違う人々が驚いて道を開ける。
誰も私たちを止めようとはしなかった。
彼の纏う空気が、「邪魔する者は容赦なく排除する」という気迫に満ちていたからだ。
「……アルフォンス」
「はい」
「……あんた、やっぱりカッコいいわね」
私が小さな声で言うと、彼は一瞬驚いたように目を見開き、それから嬉しそうに目を細めた。
「……貴女にそう言っていただけるなら、悪魔にでもなりましょう」
馬車へと続く夜風の中、彼の腕の中だけが、
世界で一番安全で、温かい場所だった。
この騎士となら、地獄の果てまででも行ける。
そう確信した夜だった。
読んでくださってありがとうございます。
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